日本的で東洋的な現代貨幣理論

国会における「桜を見る会」の総理大臣の答弁はもはやあきれるほど下品で惨憺たるものだが、そのまわりに群がってやりたい放題に勝手なことをしている人間たちがたくさんいることも、ある意味でさらに不愉快なことだ。

個人的な感想を言わせていただくなら、いちばん不愉快なのは「電通」という広告会社の存在だろうか。自分たちの手は汚さないまま、舌先三寸でいいようにこの世の中を操っている。言葉で人をたぶらかすなんてろくなことじゃないし、たぶらかされてばかりいると、人間がどんどん凡庸で退屈になってゆく。

近代合理主義のコスパ主義の損得勘定の世の中だら、たぶらかされてしまうのだろうか。

損得勘定という名の欲望……欲望とは、いったい何だろう。

「生きたい」とか「幸せになりたい」とか思うのが人間性であるのではない。現代社会はだれもがそう思うようにさせられてしまう仕組みになっているが、それでも無意識のところでは、自分のことなど忘れて他者を「生きさせたい」とか「幸せにしたい」と願っているのであり、本質的にはそういう関係性の上に人間社会が成り立っている。

みんなひとりひとりが「生きたい」とか「幸せになりたい」と思うのなら、だれも他者に対して「生きていてくれ」とか「幸せになってくれ」と願う必要がない。論理的にはそういうことになる。他者に願ってもらわなくても、自分ですでにそう思っているのだもの、自分で生きようとするし幸せになろうとする。しかし人間にとっての「自分」は本質において「空っぽ」なのだから、他人が生きさせ幸せにしてやらないと、そうはなれないのだ。人間は本質において「自分」のことなど忘れて世界の輝きにときめき何かに熱中している存在であり、そのときこそもっとも人間が人間らしく生きている。

とにかく人間とは、他者を生きさせ幸せにしてやる存在なのだ。そうやって人類700万年の歴史を生き残ってきたのだし、そうやって関係性・集団性を進化発展させてきたのだ。

だれもが「生きたい」とか「幸せになりたい」と思っている社会は、他者を「生きさせたい」とか「幸せにしたい」という気持ちが強くわいてこない。そうして、人と人の関係も集団の動きも、どんどん痩せ細ってゆく。

「自分さがし」とか「自我の確立」などというのは、自分という存在の確かさにこだわった近代合理主義が生み出した制度的な観念にすぎない。この国の総理大臣は、この世でもっと自分という存在に執着し「生きたい」とか「幸せになりたい」と欲望している人間のひとりかもしれない。まあ、多かれ少なかれだれもがそういう部分を持たされているのかもしれない。いまだに近代合理主義に染められ、「新自由主義」とか「グローバリズム」とか「自己責任」という言葉が蔓延している世の中だから、多くの人々がどうしても自意識過剰になってしまう。自意識過剰になって競争し、「今だけ金だけ自分だけ」の損得勘定=コスパ主義に走ってしまう。そういう者たちばかりがわがもの顔でのさばっている世の中だが、そういう者たちだけの世の中になってしまうことはあり得ない。搾取されることを受け入れる者たちがいなければ、搾取する人間なんか存在しえない。

今や世界は1パーセントの富裕層と99パーセントの貧困層に分断されつつある、などといわれているが、だったら99パーセントの貧困層が立ち上がれば世界は変わる。しかしそのためにはリーダーがいなければならない。大きな集団であればあるほど、リーダーは必要だ。何しろ「自分=自我=主体性」のない者たちの集団なのだから、それをまとめる存在がいなければまとまらないし、他愛なくときめき盛り上がってゆくものたちでもある。

リーダーさえいれば……。

 

人類の関係性や集団性が進化発展してきたということは、その本質が他者を「生きさせたい」とか「幸せにしたい」と願う関係性の上に成り立っていることを意味する。そういう関係性がはたらいていないかぎり、進化発展するはずがない。そしてそういう関係性がはたらいているということは、だれにとっても「自分」などというものは「空っぽ」なものにすぎないことを意味している。さらにそれは、人はそれほどに自分を忘れて世界や他者の輝きにときめき熱中してゆく、ということでもある。

われわれはそういう関係性が主流の社会にすることができるだろうか。もともと人間の集団はそうやって活性化するのだし、民主主義とは民衆が権力を握ることではなく、民衆の集団性が社会の主流になってゆくのがよいという思想のことだ。

民衆がみずからリーダーを選んで民衆の集団性を反映させてゆくということ、それが原初以来の人類普遍の集団性の作法であり、そういうかたちで原始共産制が成り立っていたのだし、それが民主主義の未来でもあるにちがいない。社会民主主義というのだろうか、そういう社会のかたちを模索する動きが今、世界中で起きてきている。

人間は「ときめく」存在であり、「祀り上げる」存在であり、「捧げもの」をする存在である。したがってそういう対象となる魅力的なリーダーが登場してこなければ、新しい時代を切りひらく盛り上がりは生まれてこない。それは、計画と意志を持った主体的な運動ではなく、その場の空気に流されて他愛なくときめき合っているだけの有象無象による「祭りの賑わい」によって盛り上がってゆく。人類の集団は、そうやって猿のレベルを超えた規模の「むら」になり「まち」になり「国家」になっていったのだ。

だれにとっても集団の中に置かれるのは窮屈で鬱陶しいことだ。だから集団が大きくなってくると、混乱し空中分解してしまう。しかし、だから集団をつくらないほうがよい、というのではない。その混乱し空中分解してしまう危機を乗り越えていったのが人類の歴史なのだ。

チンパンジーは何百万年たっても100~150頭の規模を超えることはできないが、人類はその限界を超えていったわけで、それができたのは計画と意志を持ったのではない。他愛なくときめき合い助け合う「有象無象」のそのダイナミズムが起きていったからであり、それが「むら」になり「まち」になり「国家」になっていった。

「有象無象」という言葉はもともと否定的な意味に使われているが、だからこそ大きな集団になってゆくことができるわけで、ひとりひとりが「主体的」な意志と計画を持ったら必ず混乱し空中分解してしてしまう。

じつは人間よりも猿の集団のほうがずっと「主体的」なのだ。人間は、「主体=自分」であることを捨てて(=忘れて)「もう死んでもいい」という勢いで「祭りの賑わい」をつくってゆくことができる。そうやって「むら」になり「まち」になり「国家」になっていった。そしてその「祭りの賑わい」には、つねにみんなが祀り上げるリーダーがいた。ひとりひとりが「主体」ではないのだからみんなで祀り上げるリーダーがいなければその「賑わい」は起きないし、そのリーダーは、みんなの「想い」を象徴する存在であって、サル山のボスのようなみんなを支配し洗脳してゆく存在ではない。

みんなが「もう死んでもいい」という勢いで他愛なくときめき合い助け合ってゆこうという想いになってゆき、その想いを結集するリーダーが登場してくれば、「新しい時代」に向かって漕ぎ出してゆくことができるし、ほんらいの意味での人間的な「むら」になり「まち」になり「国家」になってゆくことができる。

人が「リーダーを祀り上げる」のは、自分を守ってほしいからではない。自分たちの「想い」を託すからであり、守ることは自分たちで助け合ってなんとかするというその「想い」を託しているのだ。なんのかのといっても人類の民衆社会はそうやって動いてきたのだし、その「想い」の帰結として民主主義の未来がある。

 

「金の世の中だ」というなら、貨幣は現代社会の神でありリーダーだ、ともいえる。なんのかのといってももともと貨幣は人の心の「ときめき」の形見である「捧げもの」として生まれてきたのであり、そういうことをせずにいられない人の心の普遍がある。そういう心で人は神やリーダーを祀り上げてゆく。神は存在するかと問うてもしょうがない、人は神を祀り上げてしまうような心の動きを持っている。神なんか存在しなくても、人は何かを祀り上げずにいられない存在なのだ。

だから、「貨幣の本質に意味も価値もない」などというべきではない。

この生に意味も価値もなくとも、貨幣には意味も価値もあるのだ。言い換えれば、この生に意味も価値もないことの代償として、人は貨幣に意味と価値を付与している。

この生に根拠などというものない。そういう心もとなさを抱えて人は生きている。猿はそんなものを問わないが、人の心はどうしても問うてしまう。問うても、答えなんかない。「根拠=意味や価値」をなんとかこねくり上げても、そんなものただの幻想であり、そう思いたいだけのこと、心の底の正直な部分では「そんなものはない」という「心もとなさ」を抱えて生きている。

そういう不安を抱えて生きているからこそ世界や他者の輝きにときめかずにいられないし、ときめけばこの生も自分のことも忘れていられる。その体験の形見として原始人は「きらきら光るもの」である貨幣が祀り上げていったのだし、今なおこの世に貨幣が存在することの根底にはそういう歴史の無意識がはたらいている。

人間は、ときめかずにいられない存在であり、祀り上げずにいられない存在だ。その根底には、この生に対する心もとなさやいたたまれなさがはたらいている。だから、この世に貨幣が存在する。そのへんの凡庸なインテリのように、「貨幣の本質に意味も価値もない」などとスノッブなことをいっている場合ではない。

世の中には貨幣を自由に操ってしこたま儲けている人間もいれば、貨幣に操られている名もない下層の庶民もいる。その両方を肯定しそういう現実を肯定したうえで、あらためて「貨幣とは何か」と問うていかなければならない。

「意味も価値もない」というのなら、この世のすべてのものに意味も価値もないさ。ただ、人は貨幣に意味や価値を付与している、という事実があるだけだ。

意味も価値もないから、意味や価値を見出してしまう。生きてあることの根拠としての意味や価値を欲しがってしまう。

世界や他者の輝きに意味や価値があるか?ありはしない。しかし、その輝きによって人が生かされている、という事実はある。生きものの命に意味も価値もありはしない。しかし、人はその命を慈しむ、という事実はある。自分の命に意味も価値もありはしないけど、他者の命は尊いと思ってしまう。世界の輝きに意味も価値もありはしないけど、人は世界の輝きにときめいてしまっている、という事実はある。貨幣には意味も価値もありはしないけど、人は貨幣には意味や価値があると認識している、という原初以来の事実がある。そのことは否定できない。

ほんとうに意味や価値があるかということなど問うてもしょうがない。人が生きてあるということに対する想いの問題だ。生きてあることは、心もとなくいたたまれないことだ。貨幣の意味と価値は、その事実の上に成り立っている。

 

MMTは貨幣に対する認識のコペルニクス的転回である、といわれている。だから、既存の経済学者の勢力から彼らの既得権益を侵す学説として迫害されねばならない。

両者の対立は、貨幣に対する根本的な認識の違いにある。「存在論」と「非存在論」、既存の経済学者たちは、貨幣は「交換の道具」としてあらかじめ「存在」するものであると認識しており、それに対してMMTでは、貨幣は「現れて消えてゆく」ところの「非存在」のたんなる現象にすぎないという。

われわれ民衆にわかるところでの対立は、「国債」を発行することは是か非か、ということにある。

反MMT陣営は、これ以上国債を発行すればハイパーインフレになって財政破綻する、という。それに対してMMT論者は、貨幣は「現れて消えてゆくもの」だから社会の供給体制が正常に機能しているかぎりそんなことにはならない、と説明している。物も貨幣も「消えてゆくもの」だから供給し続けねばならない、ということだろうか。国債は、本質的には国が社会に供給している貨幣であって「借金」ではないということ。

現在のこの世界における貨幣経済のややこしい仕組みのことはよくわからないが、その国債という貨幣もまた「捧げもの」であり「現れて消えてゆくもの」だということは、なんとなくうなずける。

ようするに、貧しい庶民の資産が増えて富裕層の資産が目減りする、というかたちに社会の構造を変えていったほうがよい、という思想なのだろう。貧しい庶民のところに貨幣があらわれて、そのぶん富裕層のところから消えてゆく、ということ。それは太陽が東から出て西に消えてゆくのと同じことだし、そこにこそ貨幣の本質がある。もともとその貨幣は、富裕層のところに現れて貧しい庶民のもとから消えていったものなのだ。だから元に戻すだけのことだし、そういうかたちにならないと社会の経済は活性化しない。

社会の経済の活性化は、貧しい者たちの「消費=捧げもの」の衝動の上に成り立っている。MMTで社会の経済が破綻するか活性化するかは、やってみないとわからないのかもしれない。しかしとにかく、人々の「捧げもの」の衝動を喚起しないことには経済は活性化しない。富裕層はそれをしたがらないし、貧しい庶民はしたくてもできない。貧しい庶民の「捧げもの」の行動が活発になるためには国が国債という名の「捧げもの」をする以外にない。もともと富裕層が搾取することばかりしてきたから、このような状況になっているのだ。富裕層がしないのなら、国がするしかないし、富裕層を野放しにしてグローバル化させてしまったのは国の責任だ。

グローバル企業は、国家を利用して民衆から搾取している。グローバル企業が国家の枠組みを超えているだなんて、大嘘だ。あちこちの国家に寄生して大儲けをしているだけのこと。

 

貨幣経済の「自由=活性化」は、がんばって稼ぐことではない、「捧げもの」が活発になることだ。たとえば「投資」すること、「国債」を発行すること、「募金」をすること、じつはそういう「捧げもの」によってこの社会の経済が活性化してゆく。

「捧げもの」をしようとする衝動は、貧しい者たちほど豊かにそなえている。だから現在の世界は、1パーセントの富裕層が世界の99パーセントの資産を所有する、という倒錯した事態になってしまっている。それは、貧しい者たちの「捧げもの」の衝動の上に積み上げられた資産なのだ。

そこでMMTは、国家が貧しい者たちに「国債」という名の「捧げもの」をせよ、と提唱する。富裕層がしたがらないのだから、そうするしかないではないか。MMTとは、そういう「社会民主主義」の経済理論であるらしい。

国家が経済市場に介入するべきではない、というが、では経済市場が国の政治に寄生して国を操るというようなことをしてもいいのか、という議論も成り立つ。現在のグローバル企業はすべてそのようにして肥え太っている。水道を民営化せよとか、健康保険を民営化せよとか、病院や学校の運営を企業に任せよとか……。

既存の経済学者たちはなぜ「そんなことをしたら社会の経済が破綻する」といいたがるのだろう。それは、近代合理主義の病だ。そんなことをいったって人間は不合理な生きものだし、人間の社会は「破綻=滅亡」に向かうような動きをするようにできているわけで、しかしそれによって活性化してゆくパラドキシカルな歴史を歩んできたのだ。

「破綻=滅亡」に向かうことを否定するべきではない。それは、息を吸うのと同じようなことで、息を使い果たしてしまうために息を吸う。息もまた「現れて消えてゆくもの」だ。

破綻に向かわない経済の活性化などない……それがMMTだ、ともいえる。人間とはそういう「不合理」な生きもので、その「もう死んでもいい」という勢いにこそ人間のいとなみのダイナミズムがある。

「自我の確立」とか「生命の尊厳」というような概念を提唱する近代合理主義は、「破綻=滅亡」に向かうことを嫌う。彼らは、そういう時代の価値観や思想に洗脳され踊らされて育ってきた者たちだし、今でもそれは「コスパ主義」などという損得勘定が蔓延する社会風潮として引き継がれている。

「破綻するからダメだ」などといって経済通や専門家やインテリを気取っても、今どきのコスパがどうのといいたがるいじけた若者たちと同じ人種なのだし、「日本人に生まれてよかった」と大合唱しているネトウヨたちとも大した違いはない。そういう者たちによって、この世界の停滞と衰弱がもたらされている。

「そんなことをしたらこの国の経済は破綻する」などという心配は、すでにもう終わっている問題なのだ。すでに破綻しているのに、今さら何を心配することがあるというのか。

新しい時代は、「日本終わった」と嘆いている者たちによってこそ切りひらかれる。

 

「破綻=滅亡」を怖れて経済の活性化はない。

「もう死んでもいい」という勢いで滅亡を抱きすくめてゆくことは日本列島の文化の伝統であると同時に、普遍的な人間性の自然でもある。原初の人類は、そうやって他愛なくときめき合い助け合いながら歴史を歩んできた。基本的にはだれもが自分の滅亡を引き換えにしてでも他者を生きさせようとするのが人間性の自然であり、そういう関係性を止揚しながら人類の集団は猿のレベルを超えて大きくなってきた。また、人類史の99・9パーセントの原始時代は、世界中どこでもそういう関係にならなければ生き延びることができないほどの脆弱で困窮した集団だったのだ。

民衆は生き延びる能力を持っていない。だからこそ豊かにときめき合い助け合って集団が活性化してゆく。これが普遍的な人類の集団性の自然であり、そこから人類史の最終的な集団のかたちとし「民主主義」が提唱されるようになってきた。

民衆の集団性の自然・本質は、「もう死んでもいい」という勢いの「祭りの賑わい」にある。そこに立てば、MMTは納得できる。そこに立てなければ、どんなに思慮深い経済学者だろうと納得することはできない。彼らはつねに「そんなことをしたら経済破綻する」と叫びだす。それは「自我の確立」という近代合理主義のスローガンに洗脳された者たちの自意識過剰のたんなる強迫神経で、彼らの予言が当たったためしはない。すべてのことはやってみないとわからないし、やるしかないことはやるしかない。滅びることを覚悟でやるしかないときはある。そういう覚悟とともに人類の歴史は進化発展してきた。

「捧げものをする」とは「滅んでゆく」ということだ。「捧げもの」の衝動が豊かに生成している社会でなければ、経済の活性化はない。貨幣とは、この社会にあらかじめ存在している「実体=物質」ではなく、現れて消えてゆく「現象=概念」である。

人の「命」というものだって、べつに「実体=物質」ではなく、あくまで「概念」であり、生きて死んでゆくという「現象」にほかならない。

貨幣がこの世界に普遍的に存在し続けるということは、人の命のはたらきの生きて死んでゆくという「現象」の反映であるのだろう。また、世界中の民族が使っている言葉という音声もまた「現れて消えてゆくもの」であるし、さらにはセックスのエクスタシーにしてもまさしく「現れて消えてゆくもの」にちがいない。

人は、生きることそれ自体を目的にすることはできない。生きることには、なんの意味も価値もない。人は、生きてあることの根拠を喪失したまま生きている。それでも生きている。根拠を喪失しているという、その不安やいたたまれなさからの「解放=忘却」として世界の輝きに対する「ときめき」が生まれる。それは、生きてあることを忘れている状態であり、ひとつの「滅び」の体験でもある。人間にとって「快楽」とは「滅びる=消えてゆく」ことであり、その体験が生きてあることの「根拠=確認」になっている。

つまり、生きることはひとつの「自傷行為」なのだ。

 

人を根源において生きさせているのは、水でも空気でも食糧でもない。何か嫌なことがあればすぐに「生きることなんか面倒くさい」とか「死にたい」と思ってしまうのが人間であり、「生きることを目的に生きる」ということは原理的に成り立たない。

生きることを忘れることの「ときめき」や「快楽」が人を生きさせている。近代合理主義においては「生命の尊厳」などというが、人はそんなことを思って生きているのではない。「私」の命には何の意味も価値もない、面倒くさいだけの命だ。であれば、生きることを忘れることが生きることの目的にならなければ、生きていられない。

「生きることなんか面倒くさい」とか「死にたい」という気持ちを否定するべきではない。そう思ってしまうのが人間性の自然なのだ。

少なくとも「自己」の範疇においては、「生きることには意味や価値がある」とか「生きようとするのが人間および生きものの本能だ」というような論理は、哲学的にも生物学的にも成り立たない。それは、「自我の確立」とか「生命の尊厳」という倒錯したスローガンに縛られた近代合理主義の、たんなる制度的な観念にすぎない。

人は生きようとするのではない。人間であれ他の生きものであれ、「すでに生きている」という状態において意識が発生するのだから、原理的に「生きようとする」ことは成り立たない。

意識が発生し、「生きてある」ことに気づいた意識は、「いったいこれはなんという事態だ?」と驚き戸惑う。そうやって生まれ出たばかりの赤ん坊は、「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣くのだろう。

われわれは、自分が存在しなかった永遠の過去からこの世に現れ出てきて、自分が存在しない永遠の未来に向かって消えてゆく。すなわちわれわれは、「存在しない」ことを「喪失」してこの世に出現するのであり、意識はそういう「喪失感」として発生する。そしてその後もそういう「喪失感」とともに生きてゆくのであり、生きてあることは不安でいたたまれないことだ。したがってわれわれの意識は根源において「存在しないこと=非存在」の世界に対する遠いあこがれを抱いており、「快楽」は「非存在の世界に超出してゆく(=消えてゆく)ことの解放感」として体験される。すなわち「生きてあることの根拠は生きてあることからの解放として確認される」ということ。

光は、「非存在の世界」から現れ出てきて、「非存在の世界」に向かって消えてゆく。そういう現象に対する「ときめき」とともに貨幣が生まれてきた。「きらきら光るもの」としての貨幣は、人の心が根源において抱いている「非存在の世界に対する遠いあこがれ」の形見として原始時代に生まれ、今なお存在し機能し続けている、ということだ。

生きるための形見として貨幣が生まれてきたのではない、生きてあることからの解放の形見として貨幣が生まれてきた。

この生は、この生からの解放として活性化する。貨幣経済もまた、貨幣経済からの解放として活性化する。

「解放」とは「滅んでゆく=消えてゆく」こと。国債を発行すれば貨幣経済が破綻するというのなら、その「破綻する=滅んでゆく=消えてゆく」ためにこそ発行する必要があるのであり、その「破綻する=滅んでゆく=消えてゆく」ことそれ自体が貨幣経済の活性化の証しなのだ。

 

人が生きることは、ひとつの「自傷行為」である。

原初の人類が二本の足で立ち上がったこと自体が、ひとつの「自傷行為」だった。それは、とても危険で不安定で、しかも身体により大きな負荷がかかり、生きることがしんどくなるだけの姿勢だった。それでも彼らは、二本の足で立ち上がった。それでもそこには「生きてあることからの解放」があったからで、そうやって彼らは猿であることから決別した。まあこの話をはじめると長くなってしまうのだが、とにかくそういうことだ。

生きてあることには何の意味も価値もなく、不安でいたたまれないばかりだ。だから人は生きてあることからの解放を願っている。この生には、なんの根拠もない。それでも世界は輝いており、そのことに促されながらすでに生きてしまっている。世界の輝きが自分を生かしている。世界の輝きが、この生の根拠だ。世界の輝き、すなわち他者が生きて存在しているというそのことが、自分が生きてあることの根拠になっている。他者が生きていてくれないことには、自分は生きてあることの根拠を失ってしまう。そうやって人は、葬式のときにおいおい泣く。われを忘れて、おいおい泣いている。人は「われを忘れて」ときめいたりかなしんだりする。そうやって「われ=この生」からの解放を体験している。「われを忘れる」ことは、この世界や他者の輝きが出現することにときめくことであり、この世界や他者の輝きがが消えてゆくことにかなしむことだ。

世界の輝きの消失……あの大震災に遭遇して生き残った人々は、たくさんの他者の死とともにみずから生の根拠が深く決定的に失われたことを実感した。そうやって鬱になったり、孤独死したり、幽霊を見たり、ときには糸の切れた凧のような心になって補償金を使い果たしてしまったりもした。

まあ補償金を使い果たしてしまうこともひとつの「自傷行為」であり、そうやって「自分=この生」が「消えてゆく」ことを「自分=この生」の根拠にするしかなかった。ある哲学者は、「生きることは<小さな死>を繰り返してゆくことだ」といっている。一般の人々はそういう「自傷行為」を緩やかに繰り返しながら生きているわけだが、彼らはもう、そこまで徹底しないと生きてあることができないところに追い詰められていった。また、だからこそ心にしみるような助け合う関係も生まれていったわけで、そこにこそ人と人の関係の根源的なかたちがあるともいえる。

ぼんやり生きていれば、そういう根源的本質的なことにはなかなか気づかない。そうして「自我の確立」だの「生命の尊厳」だのと、死が怖いだけのくせにそうした虫のいい屁理屈を捏ね上げるのだが、人は根源において死に対する親密さを抱きすくめて生きている存在なのだ。

ほんとうの「生きた心地」は「滅びる=消えてゆく」ことにしかない。生きることは「自傷行為」なのだ。生きてあることに追い詰められていないわれわれ凡人が、追い詰められている人の「自傷行為」を否定することはできない。それこそがもっとも本質的なこの生のいとなみであり、人は根源において生と死のはざまを生きている。だれの生だって、じつはビルの屋上のフェンスの上をふらつきながら歩いているようなものなのだ。

 

お金は大切なものだ。大切なものだから「捧げもの」になるし、そうやってお金が消えてゆく体験はひとつの「自傷行為」になっている。

国による国債の発行も、「自傷行為」以外の何ものでもない。

自傷行為」をうながすのが、貨幣の本質的な機能だ。

生きることなんか、ろくなものじゃない。

さっさと死んでしまいたいという気分がないわけではないが、それでもなんとか生きているし、すでに生きてしまっている。

世界は輝いている。それに促されて生きてしまっている。

自分のまわりがどんなにくすんでいても、この世界のどこかに輝きがあることを感じる。心が染みるほどに輝いている人がどこかにいる。そういう人がどこかで生きていてくれ、と願っている。人間は、だれかに対して生きていてくれと願わずにいられない存在である。

あなたが生きていてくれないことには私の生きてある根拠が消えてなくなってしまう……何はともあれそういう想いの集積として人の世が成り立っている。

だから人は「捧げもの」をする。だれかのことを想い、だれかを祀り上げ、だれかに「捧げもの」をすることによって、自分が生きてあることの根拠が見出せないことのその喪失感を埋めようとする。

人は、だれのことを想い、だれを祀り上げ、だれに「捧げもの」をするのだろう。だれも愛さない人が、もっとも誰かのことを想っていたりする。すでに見知らぬ誰かにときめいてしまっているから、だれも愛さない。まあ、わがままで愛想のない「処女=思春期の少女」というのは、あんがいそういう存在であるのかもしれないし、たいていの女にそういう部分があるのかもしれない。そうやってどこかの捨て猫を拾ってきたりする。

女は、男なんか愛していない。いつも、もっと遠いだれかのことを想っている。そしてそれこそがもっとも人間的な「想い」のかたちなのだ。

家族であれ、親族であれ、「まち」であれ、人間の集団は、基本的には見知らぬ者どうしの関係として成り立っており、見知らぬ者どうしの遠い関係だからときめき合うことができる。人の「あこがれ」と「ときめき」は、遠い遠い「異次元の世界」に向いている。光が、そこからやってきてそこに消えてゆくように。遠いからあこがれるし、「もう死んでもいい」という勢いでその無限の隔たりを飛び越えてときめきもする。

そういう遠い「あこがれ」と「ときめき」の形見として、「貨幣の超越性」がこの世界で機能している。

 

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したり顔して「国債を発行すれば経済が破綻する」などと、いじましいことをいっていてもしょうがない。その「破綻=滅亡」の向こう側で活性化してゆくのが「貨幣の超越性」なのだ。

経済市場はある程度までコントロールすることができるが、コントロールしきれるわけではない。すべての経済政策はやってみないとわからないことだし、するしかないことはするしかないのだ。

貨幣の「超越性」と「現れて消えてゆくもの」だということを納得できないのであれば、MMTを肯定することはできない。

おそらく現在のこの国で国債を発行しても経済破綻なんかしないのだろうが、ここで問題にしたいのはそういうことではない。たとえ破綻するかもしれないとしても、人間のすることは本質において「自傷行為」なのだということ。国債という名の「捧げもの」の発行は、「自傷=自滅行為」だからこそ、人間性の本質にも貨幣の本質にもかなっている。そうやって人のいとなみも貨幣の流通も活性化してゆくのだろう。

「捧げものをする」という「自傷行為」……たとえば祭りのときや観光地で物の値段が高くなるのは、そこが「もう死んでもいい」という勢いの「捧げもの=自傷行為」の衝動が豊かに起きてくる場だからだ。生きてあることなんかただのお祭りだし、経済の活性化だってひとつの「祭りの賑わい」にちがいない。

1パーセントの富裕層と99パーセントの貧困層というかたちで社会が停滞し安定する社会と、格差のない混沌とした「祭りの賑わい」が生成する社会と、いったいどちらがいいのか。言い換えれば現在は、「遊び」や「祭りの賑わい」が1パーセントの富裕層に独占されて、99パーセントの貧困層は生きることに汲々としている、ということだろうか。「生きるため」とか「食うため」というセリフが正義になるなんて、何か不健康だ。それはきわめて合理的な論理だが、合理的だから不健康なのだ。人間はそんなことを目的にして生きているのではない。

みんな人間なのだから、不合理で混沌とした「祭りの賑わい」を広く豊かに盛り上げてゆかねばない。人は「祭りの賑わい」に引き寄せられてゆく生きものだ。もともと人の世はそのようにして成り立っているのであり、人は人のことを想って生きているのであって、食うため生きるために生きているのではない。

だれが好きとか嫌いとかと選別しているのではない。そんなことを超えて、どこかのだれかのことを想っている。その「遠いあこがれ」と「ときめき」とともに人は生きている。どこかでだれかが生きていてくれることを願って生きている。人間ではない犬や猫に対してだって、生きていてくれと願ってしまう。

自分が生きてあることの根拠などどこにもない。それでもどこかでだれかが生きていることを願っている。この世界のこの宇宙のどこかでだれかが生きていることを知らず知らず願ってしまっているし、自分もまた「どこかのだれか」にとっての「どこかのだれか」であることはたしかなのだ。

まあだれだって生きてある意味も価値もない存在にちがいないが、それでも他者に対しては「生きていてくれ」と願わずにいられない。「意味も価値もない」からこそ、「生きていてくれ」と願わずにいられない。意味も価値もあるのなら、願わなくてもみんな勝手に生きようとしている。

生きてあることの根拠を持っているらしい近代合理主義に洗脳された者たちは、好きとか嫌いとか賢いとか馬鹿だとか経済破綻するとかしないとか、あれこれ選別して生きてゆけるだろう。しかし一方では生きてあることの根拠を持てない者たちがどんどん増えていっているのが「ポストモダン」といわれる現在の世界であり、現在の最先端の科学も哲学ももはや「自己」とか「存在」とか「物質」という問題設定が成り立たなくなってきている。MMTも、まさしくそうした状況から提唱されているのではないだろうか。

 

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人は「自傷行為」をする存在であり、この世界の「どこかのだれか」が生きてあることを願っている。それは、人間性の自然=本質としての「死」すなわち「異次元=非存在の世界」に対する遠いあこがれに由来している。

80年代のニューアカデミズムのブームのころに「もっとも本質的な他者とはだれか?」というような問題が哲学や思想の世界でよく議論され、それは「神」であるとか「死者」であるとかという問題設定が一般的になっていたわけだが、ここでは、それは「どこかのだれか」という「異次元=非存在の世界」の人のことだ、といいたい。「どこかのだれか」とは、「どこかにいる」と同時に「どこにもいない」人のことである。

「死を想え」ではない、すでにだれもが死を想って生きているわけで、その想い方が人さまざまだということだろう。つまり、死者や神だって「どこかのだれか」なのだし、原始時代に神という概念など存在しなかったが、人類は二本の足で立ち上がったときからすでに「どこかのだれかを想う」存在になっていた、ということ。そういう「メタ(超越)思考」に、人間性の基礎・本質がある。

人類は「どこかのだれか」を思う存在だから、一か所にたくさんの見知らぬ人たちが集まってきて「むら」とか「まち」とか「国家」というような猿のレベルを超えた大きな集団になっていったのだし、根源的には「自分」という存在もまた「自分=主体」を持たない空虚な「どこかのだれか」にすぎない。

われわれは、生きてあることの「根拠」すなわち「意味や価値」など持っていない。そういう空虚な存在だからこそ、西洋の近代合理主義においては「根拠=意味や価値」を持とうとしたし、この国の伝統においては、その「根拠=意味や価値がない」ということそれ自体抱きすくめてゆく文化を育ててきた。そしてそれは原始時代の文化をそのまま洗練させてきたということだし、またこの国だけではなく「色即是空」という仏教概念に象徴される「東洋的=アジア的」な文化風土ともいえる。

だから、「貨幣は<現れて消えてゆくもの>である」というMMTは日本人の思考や感性に受け入れやすい、ともいえる。西洋の近代合理主義に洗脳されていなければ……。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円