どこかでだれかがコロナウイルスで苦しんでいる

この国の政府場当たり的による場当たり的なコロナウイルス対策のことで、欧米からのさまざまな批判を浴びているらしい。

そりゃあそうだろう、こんなにも愚劣で醜悪な政府や官僚がしていることだもの。彼らはもう、そういう「今だけ金だけ自分だけ」という路線を突っ走って後戻りできなくなってしまっている。

厚生省の橋本岳という副大臣は、ダイヤモンドプリンセス号に防疫体制が整っていないことに心配した感染症の専門家の大学教授が勝手に船に入ってきた、と言って怒っていた。いまは専門家を集めて対策を練らねばならないときのはずなのに、彼らにとっては政治家の「政治的な判断」によってあいまいなままごまかしてしまうことの方が大事だと考えているらしい。そうしてひとまず陰性だが潜在的には保菌者の可能性のある日本人乗客の500人を下船させ、そのまま横浜駅であっさり野に放ってしまった。

何をしているのだろう。今はまだ危機的な状況ではない、と思い込ませたいのだろうか。民衆をだまして上手に操ってゆくのが彼らにとっての「政治」というものであり、だましおおせているかぎり自分たちは安泰だと思っている。

現在の支配者たちやマスコミは、あの太平洋戦争の大惨敗にいたるまで突っ走っていった昭和前期とそっくりのていたらくだともいわれている。知識人や民衆だって、権力者の庇護を受けて右翼的な連中ばかりのさばっている。彼らは「日本人に生まれてよかった」と大合唱しながら自分たちがさも伝統主義者のようにふるまっているが、彼らほどこの国の真の伝統から外れている者たちもいない。日本の恥さらしだ。この国が彼らのような自意識過剰の差別主義者ばかりであるはずがないし、政府官僚のあのコロナウイルス対策のように彼らによってこの国が貶められている。

日本人は、「日本人に生まれてよかった」などとは思わない。そこが、アメリカ人やフランス人やイギリス人とは違う。

日本人にとっては「日本人」であることも「自分」であることも「あはれ・はかなし」でしかないのであり、そういう「心もとなさ」を抱きすくめてゆくとこに日本文化の伝統がある。

日本人が日本人であることや自分ということの意味や価値に執着するようになったのは、明治以降に欧米の近代合理主義に洗礼を受けてからのことだ。

もともと自意識の薄い民族で自意識の扱い方をよく知らないから、一度感染すると自意識だけで突っ走ってしまうことになるのかもしれない。

今やもう、総理大臣以下の政府官僚から下層のネトウヨにいたるまで、自意識に凝り固まったまま、客観的な思考がまるでできなくなってしまっている。こんな連中が、いったいどれほど適切なコロナウイルス対策ができるというのだろう。またもやあの太平洋戦争のときのような自滅への道に引きずり込まれてゆくのだろうか。

彼らはきっと、このまま何の心配もないような顔をしながらオリンピックの開催を迎えるつもりなのだろう。彼らにすれば、国民の100人1000人がコロナウイルスで死んでも痛くも痒くないことだし、1万人になってもまだ平気な顔をしていることだろう。何が何でもオリンピックのほうが大事で、オリンピックさえやれば自分たちの天下はまだまだ続くと思っている。世の中や民衆がどうなろうと知ったことではない。自分たちの天下が続くことが大事なのだ。

しかしこのまま国内の感染が拡大してゆけば、やがて世界中の国の選手団が「日本には怖くて行けない」というようなことになるかもしれない。そうなったほうがいいのだろうか。あの醜悪な連中による支配から解き放たれた新しい時代に分け入ってゆくためは、われわれはもうそれを祈るしかないのだろうか。

 

権力社会と民衆社会の乖離は、この国の伝統的な社会構造になっている。両者のあいだに西洋のような契約関係がないから、権力者の支配はつねに一方的で、民衆社会もまた自分たちの自治の流儀を持っている。権力たちは権力闘争に明け暮れ、平気で殺し合いもする。一方民衆社会では他愛なくときめき合い助け合う集団運営の作法を育ててきた。

人は、正義によって人を殺す。愛によっても殺す。そんな関係性の上に成り立っている権力社会に対して民衆社会では、ただ他愛なくときめき合っているだけだから、相手を縛る愛も相手を裁く正義も希薄なままで集団運営をしている。日本列島は両者のあいだには契約関係がないから、集団運営の作法がまるで違う歴史を歩んできた。

権力社会では愛や主従関係によってタイトに結束する集団がつくられるが、激しい殺し合いもする。

しかし民衆社会は、無主・無縁の「祭りの賑わい」を基礎としたゆるい関係で広くつながっている。

縄文時代はひとまず階層のないすべてが民衆の社会だったわけだが、日本列島全体がゆるく交流しながら同じ文化を共有していた。ネアンデルタール人がヨーロッパ中で同じ石器文化と身体形質を共有していたように、縄文時代の遺跡からもまた列島中で「土偶」が掘り出されているし、糸魚川のヒスイは列島中にばらまかれていた。縄文時代の日本列島は国家ではなかったが、まぎれもなく全体でひとつの集団であり民族だったといえる。

そのあと弥生時代以降に大陸文明の影響を受けながらいくつかの小国に分かれていったわけで、縄文時代の列島集団は国家共同体よりももっと大きな集団だったともいえる。そうしてそのあと列島を統一した大和朝廷は、奈良盆地というもっとも原始的でもっとも大きな都市集落から生まれてきたのであり、けっきょく「他愛なくときめき合い助け合う」という原始共産制の習俗を残した集団こそがもっとも大きな集団になることができるのだ。

日本列島の民衆社会は、権力闘争という対立分断が起こる権力社会とは別の原始共産制の習俗を残した集団性を伝統的に守ってきたし、そういう集団の方がじつはゆるくつながりながらもっと大きくなってゆくダイナミズムを持っているのだ。

だからまあ、時代の気分で列島中がひとつになって戦争に邁進してしまったという負の側面もあるわけだが、それ自体、現在のこの時代のような対立や分断が起きにくいということでもある。

「民衆」とは、基本的にひとりひとりが無主・無縁の「はぐれもの」であり、だからこそその「心もとなさ」を共有しながらゆるく広くつながってゆくことができる。「女、三界に家なし」とは、この国の「民衆」のことでもある。

この国の民衆社会の気分は、女がリードしている。

この国の政治は、女たちが立ち上がらなければ、民主主義の新しい時代に漕ぎ出してゆくことはできない。

 

この国においては、政治家であれ知識人であれ、どんなに優秀なエリートだろうと、近代合理主義に洗脳された思考では冷静で客観的な判断ができなくなってしまう。そして因果なことに民衆は、「エリートの考えることは正しい」と信じてしまう傾向がある。この国では、右翼であろうと左翼であろうと、近代合理主義に洗脳されるとただの自意識過剰の思考に変質してしまう。とくに戦後はだれもが他愛なく自意識過剰になってしまって、西洋人からは、日本人は近代合理主義の扱い方が幼稚すぎる、と批判されている。

男は、時代の空気や社会の制度に染められやすい。なぜなら、子供のときから「大人になったら世の中に出て働く」ということを前提に育てられるからだ。女だって、「世の中に出て働く」ことを目的に育ってくれば、近代合理主義に洗脳された思考になってゆく。

近代合理主義の行き着く果てに「新自由主義」や「グローバリズム」があるのだし、それは「自我の確立」とか「自己実現」というようなことにこだわって「客観的」な判断ができなくなっている思考の産物だ。「自我=自己」にこだわっていれば、とにかく他人より上の存在になりたいのだから、「他愛なくときめき合い助け合う」という「原始共産制=民主主義」の関係はつくれない。

今回の政府官僚のコロナウイルス対策だって、慌てふためいて手をこまねいているというのではなく、自意識過剰の当人たちは大まじめで正しく適切な対策を取っているつもりでいる。そこが怖いところだ。それはたぶん自分たちの既得権益を守るためには正しい政治判断で、感染拡大を防ぐためのものではない。民衆が1000人死のうと2000人死のうと、彼らにとってそれは単なる数字でしかない。

今や世界中の国や企業でものすごくえげつないレベルの政治経済的な駆け引きがなされ、民衆の切実な祈りも湧き起っているのだろうが、この国の政府官僚や資本家等の支配層は、いぜんとしてのうのうと「今だけ金だけ自分だけ」という既得権益の虎の穴に居座ることばかりに終始しているらしい。

国民に対して「がんばってやっている」といえば、がんばってやっているように思わせることができる、と彼らは思っている。国民とは支配し操る対象である、と思っているし、かんたんに支配し操ることができる、と思っている。支配し操っておけば自分たちの既得権益は安泰だ、と思っている。国民の幸せなんかどうでもいい、自分たちの幸せ=既得権益が大事だ。「自我の確立」と「命の尊厳」がスローガンの近代合理主義は、この国でそういう人間たちを生み出した。

自我が薄く命なんかあわれではかないものだと思っている日本人に、近代合理主義の「自我の確立」とか「命の尊厳」とかの概念を吹き込んで洗脳してゆくと、そういう「今だけ金だけ自分だけ」に人間が出来上がってしまう。

現在の政府や官僚のコロナウイルス対策はもう、「今だけ金だけ自分だけ」で客観的な思考を失ったまま完全にトチ狂っていて、世界中の国があきれ果てている。オリンピックも、どうなることやら。

 

主体性……自尊心……セルフリスペクト……僕は、今どきの世の中で合唱されているこういういかにもな正義の言葉が嫌いだ。

山本太郎は、困難な状況に置かれている下層の聴衆に向かって「生きててくれよ」と訴えつつ、その一方で「自分には生きている価値があると思ってください」ともいう。しかし後者のいい方は余計なお世話だ。

僕は、「自分は生きている値打ちなんか何もない人間のクズだ」と思っている。そう思って何が悪い?そういう思いは、だれにだってあるだろう。山本太郎だってそういう思いがあるからこそ、自分の命も人生も投げ打ってみんなを救いたいとがんばっているのだろう。

人間は「自分(の命)」を否定している存在であり、だからこそときには「もう死んでもいい」という勢いで他者に命を捧げてゆくこともできる。自分が生きてあることの根拠などない。「自分の命」は、他者が生きていることの上にしか成り立たない。だから、他者を生きさせようとする。人類史の集団は、そのような関係性によって無限に大きくなってきた。

生きることはひとつの「自傷行為」であり、人の心の「自己否定」を否定するべきではない。主体性も自尊心も持っていないのが人間性の自然なのだ。だからこそ人と人はわれを忘れて他愛なくときめき合い助け合う関係性の集団をつくることができる。人類の歴史は、そういう原始共産制的な関係性を根底のところで共有しているから、国家とか、さらには国家のレベルを超えた地球規模の無限に大きな集団をつくることができるようになってきたのだ。

より大きな集団になってゆくのが人間性で、より小さくて原始的な関係性の片隅の集団をつくるのもまた人間性の自然なのだ。

日本列島の歴史においては、たくさんの小さな国が分立していた弥生時代よりも、縄文時代のほうが列島全体でひとかたまりの集団社会になっていた。それは、支配と被支配の関係のない無主・無縁の社会だったからで、そうやってゆるく広くつながっている社会だった。

支配と被支配の関係のない無主・無縁の集団は社会の片隅で生成しているし、そういう関係性が豊かに生成している社会であるとき、はじめて無限に大きな集団になってゆくことができる。

そうやって今、世界中でコロナウイルス対策にがんばっているし、近代合理主義に洗脳されたこの国の政府官僚たちだけが「今だけ金だけ自分だけ」の無為無策でやり過ごそうとしている。

そんなに今が大事か、そんなに金が大事か、そんなに自分が大事か……ポストモダンの新しい時代はそこから解放されるところからはじまるし、だれの中にも「この生には何の意味も価値もない」という思いはある。だからこそ人はまわりの他者を生きさせようとするわけで、コロナウイルス対策の世界的な広がりは、まわりの他者を生きさせようとするムーブメントであって、自分が生き延びるためのものではない。そして人間にとっての「他者」とは見知らぬ「どこかのだれか」であって、自分や自分たちの既得権益の仲間のことではない。

なんのかのといっても人と人の関係は、根源的には支配と被支配のない無主・無縁の関係として広がり発展してゆくのだ。わかる相手と分かり合うのではなく、わからない相手に「なんだろう?」と問うてゆくことによって大きな広がりが生まれてくる。

 

現在のコロナウイルス肺炎は今までのインフルエンザ以上に怖いものでもないなどともいわれているが、だからといってもはや国内だけでやり過ごせるものではなく、世界中に広がってしまっている。

この国の政府官僚は、はたして世界基準の防疫対策をちゃんとやっているか?ちゃんとやらないと、この国だけでなく、アジア全体が幻滅され差別される。もはやこの国だけ良ければいいというわけにはいかない。

10万年前だろうと千年前だろうと現在だろうと、速度の違いはあっても人間のすることや考えることは地球全体に広がってゆく。それが、直立二足歩行の起源以来の人類の歴史だったのだ。

人は、「片隅」を生きながら、しかも「どこかのだれか」のことをつねに想っている。人類の思考と行動の「世界性=超越性」は、じつはそういうところにあるわけで、「片隅」を生きることは「世界」を生きることでもある。

僕は人類絶滅がべつに不幸なことだと思っていないし、現在のコロナウイルスの世界的な感染拡大に対してどうすればいいのかとかどうなるのかということもまったくわからないのだが、人間は世界的地球規模的な存在なのだなあということを改めて思い知らされた。

やっぱり人は、「どこかのだれか」を想っている存在なのだ。

「どこかのだれか」は、憎むことも殺すこともできないし、愛することも抱きしめることもできない。人の心は、その「不可能性」を想うことによって、世界に広がってゆく。

その「愛の不可能性」が愛なのだ。人は根源において、だれも愛することも憎むこともできない。ただもう、ひたすら「想う」ということをしているだけの存在なのだ。

「あなた」の何が好きかとか嫌いかとかということもない。ただもう、「あなた」がこの世に存在しているというそのことを大切に想っている。

今この瞬間においても、この世のどこかでだれかが生まれ、だれかが死んでいっている。それを想っただけで、心はときめいたり動揺したりしてしまう。この世の中の「どこかのだれか」がコロナウイルスで死んでゆこうと自分にとっては大した問題ではないはずなのに、それでも心は動揺してしまう。自分にもその危険が及びそうだからではない。人の心は、「自分」の中にではなく、「どこかのだれか」のもとにおいてはたらいているからだ。

人の「意識」は、自分の頭の中ではなく、頭の外の「どこか」ではたらいている。したがって「どこかのだれか」を想うことは、生きものとしての脳のはたらきの自然であり本質の問題なのだ。「意識」のはたらきは、「どこかのだれか」を想うようにできている。

そうやって今、世界中がコロナウイルス対策に励んでいる。韓国や中国だってそれなりに世界に対して仁義を果たそうとしているというのに、この国の政府官僚たちだけがのんきにやり過ごそうとしている。いや、必死になってできるだけ何もするまいとしている、ということだろうか。国民に何も考えさせないことが彼らの支配の流儀で、嘘の上塗りを重ねながらひたすら正義を装う。客観的に見れば、その態度は何から何まででたらめなのだけれど、当人たちは大まじめでそれが正義だと思っている。そうやって体裁ばかり繕っているわけで、そんな自意識過剰の「国体護持」という正義に邁進しているのだ。

この政治状況は、ある意味日本的であると同時に、日本的ではない。日本人が近代合理主義に洗脳されるとそういうことになってしまうわけで、そのはじまりは明治維新の「脱亜入欧」にあり、戦後の占領軍支配によってさらに加速したのかもしれない。

 

今どきは、多くの政治家や官僚が自意識過剰になってしまって客観的な判断ができなくなっている。いや、彼らだけでなく、日本人全体がそうなってしまったともいえる。とはいえそれはあくまで「政治的な状況」であって、その対極にある民衆社会の「生活感情」においては明治以前の遠い昔から引き継いできたものが今なお息づいているはずで、良くも悪くも日本人が日本人でなくなったわけではあるまい。

こんなふうにおかしくなってしまったのも日本人だからだろうし、日本人だからこそというか日本人としての解き放たれる道というのもあるにちがいない。

日本人の可能性と限界というのがあるし、それはもう世界中どこの国でもそうだろうし、「日本人に生まれてよかった」などというのはただの思考停止だ。そんな自意識過剰のことを合唱しながら、ろくなコロナウイルス対策もできない国になってしまったのだ。

「日本人に生まれてよかった」などということをいわないのが日本人なのだ。日本人にとっては自分も自分の国も「あはれ・はかなし」のものでしかないのであり、たしかな存在は「他者」であり「どこかのだれか」なのだ。いや、それはたぶん、日本人だけではない。そうやって人の心は、世界中に広がり繋がってゆく。その想いをもっとも豊かにそなえているのが日本列島の伝統であり、同時に、近代合理主義に洗脳されてその想いをもっとも忘れ果てているのが現在の日本人であるのかもしれない。

現在の政府官僚がコロナウイルス感染の実態をできるかぎり隠蔽してやり過ごそうとしているのは、オリンピックとかインバウンドの経済問題とかを考えた「政治的判断」であるのだろうし、彼らはそれをもっとも「合理的」だと信じている。それがもっとも「合理的」な「国体護持」の方策で、もっとも「合理的」な「既得権益の維持」の方策だ、ということだろうか。

今回のコロナウイルスの騒ぎは、彼らの目論見通りこの先の1~2か月で無事に終息するのだろうか。そうはいかないような気もするが、いずれにせよこの国の政府官僚の無為で不誠実な態度は、自国の民衆からも世界からも大いに幻滅されたにちがいない。

その対策をどれだけ厳密にするかということは、さまざまな意見があるのだろう。厳密にしなければいけないのか、しなくても大丈夫なのか、僕にはそういうことはよくわからない。そしてできるかぎり厳密にしようというのは必要以上に「不安」や「恐怖」に駆られているからだという意見もあるのだろうが、人間はもともと存在そのものに「不安」を負っている存在であり、できるかぎり厳密にしようとするのもひとつの人間性の自然だともいえる。

自分が生き延びるためではない、人間とは「どこかのだれか」を想っている存在であり、「どこかのだれか」を生かそうとしている。そうやって地球規模の防疫態勢の構想が共有されてゆくのは、現在のようなグローバル世界ならとうぜんの成り行きであるのかもしれない。

現代人は金のこととか人間関係とかさまざまな不安や不満を抱えて生きているからその「強迫観念」を水源にしてそうした必要以上の「不安や恐怖」が噴出しているのだというようなうがった意見もあるが、そういうこと以前のもっと根深く本質的な実存の問題がある。幸せでストレスなど何もない人だって地球規模の厳密な貿易体制を願っているし、だれよりも純粋で清らかな魂の持ち主の人ならなおのこと、「どこかのだれか」が死なないですむことを深く願わずにいられない。

良くも悪くも人の心は、地球規模に広がってゆく。地球規模で防疫体制を取ろうとするのは人間性の自然であり、この国の政府官僚ばかりが知らぬ半兵衛を決め込んで、世界からも国内からもひんしゅくと幻滅を買っている。

 

今回のコロナウイルスのことに関しては、現政権の身内である右翼の側からも批判の声が上がっている。それはまあ、自意識過剰で強迫観念の強い彼らの「不安と恐怖」を刺激しているからだろう。

しかし問題の本質はそのような強迫観念だけにあるのではない。

もしかしたら今回のことに対しては、世界中のだれもが漠然と「人類滅亡の危機」というような怖れを感じているのかもしれない。そこで「ノアの箱舟」の選民思想ではないが、一部の西洋人は東洋人排除の感情に走ったりしているし、この国の右翼だってますます中国人に対する憎悪を募らせている。それはきっと「不安と恐怖」から逃れようとする強迫観念にちがいない。

とはいえ人は、その一方で「不安と恐怖」を抱きすくめてゆく心も持っている。「人類滅亡」はめでたいことで、女のオルガスムスがそうであるように、快楽とは「滅亡=消失」の体験のことだ。

人と人は「不安と恐怖」を共有しながらつながってゆく。現在の世界のコロナウイルス対策は、なんのかのといっても、だれもが「どこかのだれか」を生きさせようとしてなされていることにちがいない。

北海道のだれかが死にそうだといっても、自分のこととは何の関係もないはずなのに、自分のことのような「不安と恐怖」を覚える。そのとき、自分が自分ではなくなって、自分が「北海道のだれか」になってしまっている。

「知らぬ間に広く伝染してゆく」とは、どういうことだろう?それは、「どこかのだれか」の心が自分に憑依し、自分の心が「どこかのだれか」に憑依してゆく、ということでもある。そのときだれもが、「どこかのだれか」のことを想っている。そして「どこかのだれか」とは、「死者」のことでもある。人は、「死者」のことを想うように「どこかのだれか」のことを想っている。

「疫病」は、人類最大の悲劇のひとつであると同時に、人類の集団性の本質がもっともあらわになる現象でもある。伝染すなわちネットワーク、人類は地球規模のネットワークを持っている。それはもう原始時代からそうだったのであり、今回のコロナウイルス問題であらためて思い知らされる。不安や恐怖がどうのということ以前に、人はつねに「どこかのだれか」のことを想っているということ。不安や恐怖が強いから広い範囲の防疫体制(ネットワーク)を取ろうとしている、というだけではすまない人間性の本質がある。なんのかのといっても心やさしい人ほど防疫に対する意識が高いのであり、それは彼らが心の中に「どこかのだれか」とのネットワークをより深く確かに持っているからだ。

そりゃあ、仲間内の既得権益のことばかり考えている現在のこの国の政府官僚たちが本気でやりたがらないのは当然のことで、いざとなったら彼らこそ人一倍大げさな「不安と恐怖」に駆られてうろたえるにちがいない。

「不安と恐怖」だけで感染防止ができるわけではない、それだけなら「パニック」を起こすだけなのだ。

「どこかのだれか」を想う心こそが、この事態を収束させる。

 

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