市民社会とはどんよりとした人々の群れのことか?

 

コロナ第三波の到来、やばそうですね。

寒くなってきたのだからとうぜんで、この先どうなってゆくのでしょうか。

僕のようなみすぼらしいジジイは、もし罹ったらもう死ぬことを覚悟するしかありません。

おまえみたいな役立たずの年寄りの命なんか何の値打ちもないのだから死んだって構やしないんだよ、といわれれば、まあそうかもしれません。

それはたしかにそうでしょう。

でも僕は、自分以外の人の命は、20才だろうと90才だろうと同じだけ尊いものだと思っています。

人間なんか、だれであろうといつ死んだってかまわない存在であるし、同時にこの世のだれ一人死なせるわけにいかない存在でもあるのでしょう。

どうでもいい命だからこそ、誰の命も大切だ、ということになる。若かろうと年寄りだろうと、賢かろうとバカだろうと、世の中の役に立っていようといまいと、どの命が大切だということなどない。どんな命だってどうでもいい代物だからこそ、どんな命も大切だ、ということです。

 

人間はこんなにも自然破壊を進めてきてしまった。人間のせいで、今なお死なないでいいたくさんの人間以外の命がどんどん死んでいっている。人間がこの地球に存在すること自体が害悪だ、ということはあるはずです。

だから、人類滅亡はめでたいことなのです。

そしてだからこそ、滅んでゆく弱くはかない命こそもっと美しい、ということにもなるわけじゃないですか。それは、人類滅亡のめでたさの上に成り立った美意識であり、生命観であり、それが人類共有の無意識であるのではないでしょうか。

 

そういう無意識が世界中のだれの中に息づいているから、今回のコロナウィルスのことで世界中が右往左往しているのではないでしょうか。

政治家も庶民もみんな慌てふためきました。

慌てふためかなかったのは、この国の政府や官僚ばかりです。彼らは、大変だと慌てることも大したことはないと居直ることもなく、すっかり思考停止してしまっています。

それは、彼らの無意識が汚れてしまっているからで、命というものに対する人間的な感情や感受性をすっかり失ってしまっているのでしょう。

 

トランプやボリス・ジョンソンだって、ひとまずあわてふためいたのです。そうしてトランプは、たいしたことない、と居直った。

でもこの国の政府や官僚たちは、どちらを選択することもなく、虎の穴に潜り込んだままです。

たぶんすっかり思考停止してしまって、どちらも選択できないでいるのでしょう。彼らは、人間的な命や心のはたらきを失ってしまっているのでしょう。

そしてそれはまさに、現在のこの国の民衆の姿でもあるのかもしれません。

 

怖がることも勇敢になることもできない、どんよりとした心の人の群れがこの国にうごめいているのかもしれません。

ヒルというのかなんというのか、いったいこの国は、そんな心を抱いていったいどこに向かおうとしているでしょうか。

 

自分が生き延びることができればそれでいい、ということでしょうか。

自分が生き延びることなんか、基本的にはどうでもいいことなのです。

今この瞬間にどこかのだれかが死んでいっているということに対する想像力の問題です。そのうえで、心を痛めて慌てふためくか、知ったこっちゃないとかざまあみやがれと居直るかのどちらかにしろ、といいたくなります。

 

現在の政府や官僚の対応なんか、死体を眺めながら薄笑いを浮かべているような、そういうどんよりとした感情を連想させます。

そして、多くの日本人がどんよりしてしまっているのでしょうか。

あれほど「自粛警察」がどうのと騒いだのに、GO TOキャンペーンにはホイホイ乗せられてしまっている。

乗せる方も乗せられる方も、どうかしています。自分の損得や楽しみよりも、ほかにもっとやることがあるだろう、というのがコロナによって人類が気づかされていることではないでしょうか。

 

そしてそれは、災害列島に住む日本人こそ真っ先に気づくべきことであるはずです。

災害に襲われたら、みんな自分の損得や楽しみのことなんかひとまずそっちのけになるでしょう。

 

そして、どうせ民衆がみんなでおろおろ嘆きながら助け合うだろうからこちらは何もしなくてもよい、というのがこの国権力社会の伝統です。

それはもう、大和朝廷の発生以来の伝統なのです。

 

古代の大和朝廷なんて、道路も橋も港も、ぜんぶ民衆社会にまかせて何もしなかったのです。

彼らは、民衆と天皇の関係に寄生して民衆を支配していたのです。今だって、そうでしょう。それが国家神道だったのです。

もともと民衆自治のよりどころとして機能していた古神道が、時代とともにだんだん権力者による民衆支配の道具に変質していったのであり、それが明治の大日本帝国が掲げた国家神道だったのです。

 

まあ現在はオリンピックをどうしても開催するんだというプロパガンダ国家神道の代わりになっているのでしょうか。おそらく構造的には同じのはずです。それによって無理やり国民の目をそらせ、国民の意識を均質化させようとしている。

 

まあせっかく手に入れた利権を手放したくないということもあるのだろうが、とにかくいまさらオリンピックをしたからといって国の景気が良くなるわけでもないのは百も承知で、一番の目的は戦争と同じように国民の気持ちを盛り上がらせて支配を強化するということでしょう。

核武装し軍備を強化してゆくための第一段階ということでしょうか。

 

そうしないと国は守れないというのが彼らの信念なのだろうが、滅びることを覚悟して生きはじめるというのがこの国の伝統なのではないでしょうか。

彼らがなぜ国を守る必要があると強く思うのかといえば、それが権力者の居場所を確保することだからでしょう。

 

彼らには、国民の命を守ろうとする意思なんかありません。国民の命を消費しながら国を守ろうとしているのでしょう。そして、因果なことにそういう気持ちは政治家以上に官僚の方が強く持っているのではないでしょうか。

それはもう、昭和の初めから太平洋戦争に突入していった時代だってそうだったはずだし、それこそが大和朝廷の発生以来のこの国の権力社会の伝統であるのかもしれません。

 

もちろんすべての官僚が、といいたいのではありません。ただ、この国の官僚組織は、大和朝廷の発生以来、そうした人種を生み出しやすい構造になっているのではないでしょうか。その気になればもっとも無責任になることができるような構造になっている、というか。

 

ハンナ・アーレントが「凡庸な悪」といったように、表に立っている政治家よりも陰に回っている一部の官僚の意識の方がもっと陰険でたちが悪いのだろうと僕は考えています。

政治家なんて、どんなに悪くてもたいていは知能指数の低い単細胞だし、頭のいい政治家はそこまでの悪にはなれないでしょう。なんといっても、大衆に見られているというプレッシャーがありますからね。

頭が悪いから大衆を甘く見ることができるのだし、しかしそれ以上に「見られている」という意識を持たないですむ官僚こそが、なんといっても、いちばんの悪でしょう。

そして最近の安倍・菅政権においては、そのような官僚ばかりが重用される傾向になっている、と聞きます。

 

とにかく日本列島の伝統には、ほかの国以上に権力社会が腐ってしまう構造があるようです。

これから本格的な冬がやってきて、この国のコロナ対策は、経済においても防疫においてもどのように推移してゆくのでしょうか。ほとんどの民衆が不安に思っているのかもしれません。

そしてこの不安が、世の中をますます停滞させてしまうのでしょう。

 

日本人にとっての永遠の理想とは何でしょうか。

たぶん、人と人が他愛なくときめき合うという原始的な関係性をどこまでも洗練発展させてゆくということにあるのではないか、とこのごろなんとなく考えています。

もっとも単純なことが、もっとも複雑で困難なのですよね。ほんとうにピュアな人がめったにいないように。

 

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いよいよ明日(12月4日))にユーチューブデビューできそうです。

でも、もろ手を挙げて人に見てもらいたいという気持ちにはなれません。

何しろ、みすぼらしいジジイがもたもたしゃべっているだけの動画ですからね。

見返すと、ものすごく恥ずかしく、ものすごく自己嫌悪です。最低です。

まわりの者たちが「やめておいた方がいい」とか「どうかやめてくれ」といってくる気持ちが、あらためてよくわかりました。

ほかの人の10分の1もまともに話すことができていません。

ふつう以下なのだから、いやになります。

 

何しろこちらは、世捨て人だから。

中島みゆきの歌に「捨ててやるのはこちらの方だ、と追われながらほざいたやつがいる」というようなフレーズがあったけど、僕はまあ、捨てられ人です。

それじゃあ捨てられるわなあ、というようなぶざまな動画です。

 

でも、つくり続け発信し続けていかないことには進歩もないのだし、とりあえず思い切って恥をさらし続けていこうと思います。

そうして、とにかく人並みに話せるようになることを目指します。