日本学術会議騒動についてのもうひとつの感想

ネトウヨは、すぐ金の話を持ち出す。

日本学術会議はわれわれの血税10億円を不正に使っているとかなんとか。

でも、起源としての税は、見返りなんか求めない純粋な「捧げもの」であったのです。その始まりは死者を埋葬するときの副葬品だったわけで、そこから発展して祭りのときの神への捧げものになり、さらにそれを横取りするようにして権力者による税を徴収するという制度が生まれてきたのです。

税は見返りのない「捧げもの」であるという歴史の無意識は、今でもだれの心の中にも息づいているのではないでしょうか。

だからほんものの保守主義者伝統主義者であるのなら、税金がどうのこうのというようなみみっちいことをいうなという話です。

人類社会に、税は「捧げもの」であるという無意識がはたらいていなければ、大金持ちがたくさんの税金を払うという慣習は成り立たないでしょう。

今回の日本学術会議の問題は、税金がどうのとか科学者たちの思想や活動がどうのとかというような問題ではないはずです。

学者たちの思想や活動なんて千差万別だし、それでいいのでしょう。

問題は、政府は学者たちの思想や活動に介入しない、という現行の法慣習を守るか守らないか、ということにあるはずです。

半端な脳みそのインテリや庶民が学者たちに対するコンプレックスやルサンチマンをぶつけているなんて、醜悪そのものです。何が正義かなんてどうでもいい。半端な脳みそで正義を振り回していい気になっているなんて、どうしようもなく醜悪でグロテスクです。

 

まあいちばんグロテスクなのは、今回のようなことを発想した菅内閣のメンバーである政治家や官僚たちでしょう。

そしてその醜悪なファシズムにプロテストできるかどうかと、われわれ民衆がいま試されています。

しかし庶民は知らんぷりしていてもいいのです。権力社会に対して知らんぷりするのは、この国の民衆社会の伝統です。

でも、世の中には政治に対して関心を寄せている人たちはいつの時代も一定数います。今回のことはそういう人たちどうしのバトルであり、菅内閣のしたことに批判的な考えの人々は擁護しているグループに勝つことができるか、という問題でしょう。

おそらく民衆は、有利な方につきます。ひたむきで熱っぽい方につきます。

 

菅内閣やそれを擁護している者たちはもう徹底的に無知で醜悪で倒錯的なのだけれど、それでも彼らは彼らなりの屁理屈で正義を主張しているわけで、どちらが正義かと争っても声高で熱烈な方が勝つに決まっています。

正しさを主張し証明することも大切だけど、それ以上に大切なのは、「戦う」という心意気というかひたむきさです。それが民衆の心を動かすのではないでしょうか。

当の学者たちが象牙の塔にこもって、もごもごと正論をつぶやいているだけでは、勝ち目はないでしょう。

そこで、おまえらみんな死ぬ気で戦え、といったらいけないのでしょうか。それくらいでないと勝てるはずがないし、そうやって戦うことの恍惚というのはあるでしょう。

世界や人類にわが身を捧げて死ねるなら、本望でしょう。

長生きしたあげくに、死ぬことにおびえまくりながら病院のベッドで寝たきりになってゆくことよりましかもしれません。

いや、どちらがいいかということなどわからないけど、「もう死んでもいい」という勢いで何かをしようとする気になれるのは、人間の本性であろうと思えます。戦う、というのは、そういう心意気を持つことだし、持つことができるのが人間なのでしょう。

学問であれ芸術であれスポーツであれ仕事であれ遊びであれ、人間の思考や行動は、限界を超えてゆこうとします。それが「もう死んでもいい」という勢いです。

「もう死んでもいい」という勢いを持っていない学者なんか学者じゃない、ともいえます。

本気で死ぬ気で戦う学者はいないのでしょうか。

まあ、それくらいの覚悟を見せないと、相手はひるまないでしょう。

相手は、したたかで傲慢で狡猾です。そんな人間ばかりがのさばる世の中であっていいはずがありません。

学者たちには、これが人間だ、というところを見せてもらいたいものです。

この世の中にほんとに尊敬できる学者がどれだけいるのか知らないけれど、学問というのはもっとも人間的な営為のひとつだと僕は思っています。

あの総理大臣ごときに学問の何がわかるかと思うけど、わからないからあんな恥知らずなことができるのでしょうね。

この世の中は、権力持ったらいけない人間が権力を持ってしまうようにできているのでしょうか。権力を持ったらいけない人間とは、権力を欲しがる人間のことです。

政治の世界が正しい知識や教養で動かせるなんて、インテリの幻想です。それは、あくなき権力欲と執念深さで動いている世界なのでしょう。

あの総理大臣は、権力闘争のひとつとして日本学術会議への人事介入をしているのであって、学問とは何かということなどどうでもいいのですよね。そこが彼の恐ろしいところだし、学問とは何かという問題だから一般の庶民が関心を持たないのはしょうがないことです。

だからこの問題を大きくするためには、学者自身や政治に関心がある者たちが戦わないといけない。

政治に関心がないわれわれ庶民だって、命を懸けて戦う人がいれば応援しようという気になります。

 

戦う人は美しい。この国の民衆社会にだって、権力社会に対するプロテストの伝統はあります。

古代の仏教伝来に際し、権力社会が押し付けてくる仏教に対するカウンターカルチャーとして民衆は神道を生み出しました。この国の民衆社会のプロテストの伝統は、そこからはじまっているのです。

平将門の乱とか島原の乱とか大塩平八郎の乱とか、それらはけっきょく民衆の蜂起の上に起きてきたことだろうし、中世における一遍の念仏踊りや幕末のええじゃないか騒動や大正の米騒動だって、つまりは民衆によるプロテスト運動だったはずです。

政治のことなんか知ったこっちゃないからこそ、プロテストの運動も起きる。戦うことの恍惚や美しさは、民衆のほうがよく知っています。というか、民衆は権力を奪おうとする「闘争」なんかしないが、権力に対する「抵抗」はする、ということでしょうか。

権力闘争が他者から何かを「奪う」戦いだとすれば、民衆によるプロテストは、他者に自分の命を「捧げる」戦いです。

この世界の生贄になろうとする心意気がなければ、民衆のプロテスト運動なんか成り立ちません。現在のアメリカのブラック・ライブズ・マター運動には、まさしくそうした動きを感じさせるものがあります。彼らは、自分のためというより、殺された黒人のために戦っているのです。しかも多くの若者たちが立ち上がっている。これは、たくさんの年寄りが偉そうにのさばっているこの国の現状とは大きな違いかもしれません。

とはいえ、自分のためではなく他者との連帯のために立ち上がるというのは、世界共通の民衆社会の伝統かもしれません。

 

で、現在のこの国はといえば民衆社会の伝統が危うくなっている状況で、それを取り戻すことができるのはきっと女子供や若者たちなのだろうと思います。

右翼であれ左翼であれ、女子供や若者にマウントを取ろうとする今どきのオヤジやジジイたちはみんなだめです。どうしようもない老害です。

マウントを取りたがるなんて、猿のすることです。猿の社会は、そういう順位制のヒエラルキーの上に成り立っています。

それに対して人間は、他者に献身し、「もう死んでもいい」という勢いでこの世界の生贄になろうとする生きものです。人間が二本の足で立ち上がっているのは、そういう姿勢なのです。そうやって原初の人類は、猿であることから決別したのです。

それはきわめて不安定で危険な姿勢であり、猿よりも弱い猿になってしまうことだったのです。つまりそのとき、だれもがわが身を捨てて他者に献身してゆかなければ集団が成り立たなかったのです。

 

というわけで学者たちは、自分たちがこの世界の生贄として学問をしているということをちゃんと認識していただきたい。学問を志すからには、あなたたちはただのサラリーマンやマイホームパパであってはいけないのですよ。さらには、本格的な学問というのは、「善良な市民」のすることでもないのです。「朝(あした)に道を問わば夕べに死すとも可なり」です。あなたたちには、死ぬ気で戦っていただきたい。それは、孔子の教えでもあるのです。

死ぬ気で戦わないと、あの狡猾で傲慢で醜悪極まりないジジイやオヤジたちに勝てるはずがないじゃないですか。

でも今回の件は、内閣支持率が大幅にダウンしたりして、最初の予想以上に政権に対するダメージはあるのかもしれません。

やっぱり、菅野完氏がハンストをはじめたことは大きかったと思います。それによって広く認知され、批判的な人の声以上に政権を擁護する人たちの多くが慌ててフェイクニュースをたれ流したりして、かえって騒ぎを大きくしてしまったということもあるのでしょう。

政権を批判するものは、命を懸けて立ち上がる。政権にすり寄る者たちは、政権の庇護のもとでぬくぬくと商売をしている。橋下徹だろうと百田尚樹だろうと、そういういささかの後ろめたさがあるのかもしれない。彼らは声高に命を懸けて戦うポーズだけはするが、性根はただのこずるい日和見主義者にすぎない。民衆はいつだって命を懸けて戦う者の味方だ、ということを彼らだって知っているのでしょう。知っているけど、本性の部分においてはそんな度胸はさらさらない。だから菅野完のそういう命がけの行動を前にしてあわてふためき、大騒ぎして攻撃したり知らんぷりを決め込んだりしている。

まあ、今やあのバカ騒ぎする右翼たちも、わけしり顔で人格者ぶったりしている左翼的な知識人たちも、菅野完というひとりの作家によって「お前らみんなただの日和見主義者じゃないか」と告発されているのでしょう。

 

菅内閣にすれば、警察やマスコミをコントロールしておけば法律を無視した強権的なことをしてもそれほど支持率は下がらない、という楽観的な予測があったのかもしれません。

民衆は支配し搾り取るための対象であって、助ける必要はない……これが大和朝廷発生以来の、この国の権力社会の本能であり伝統です。

だから民衆は、国家権力に対する関心がない。民衆の関心は天皇にあるのであって、国家権力ではない。それが民衆社会の伝統であり、ほんらいの神道のコンセプトです。

神道の神はだれも助けないし、だれも罰しない。そうやって日本列島の神は、この世の向こう側の世界に「隠れている」対象なのです。

神道の神の「他界性」、その「他界」に対する「遠いあこがれ」こそが、日本列島の民衆社会における精神風土の伝統なのです。

だから民衆が、あくまで現世的な存在であるお上のことに無関心であるのを責めることはできない。

であればこの問題は、世の学者たちが体を張って決着をつけないといけないのでしょう。菅野完だって、おそらくそういうことを訴えているのであって、自分の行動によって内閣を改心させることができるなんて、つゆほども思っていないはずです。