フェイクニュースの水源

現在のこの社会にはなぜフェイクニュースがはびこるか、という問題は、どのようにして克服してゆけばいいのでしょうか。

人間は「嘘」が好きな生きものです。

彼らは、きちんとファクトチェックされても、全然へこたれない。

 

なんだか、神は存在するかどうかという議論と似てなくもないですよね。

神の存在なんて、この世のもっとも大きく、しかもいつまでも続いているフェイクニュースのひとつなのではないでしょうか。

神は99・9パーセントの確率で存在しない、といわれても、彼らはその0・1パーセントにすがりついてびくともしない。

この世界の宗教者たちは、そういう歴史を2000年以上続けてきたわけで、フェイクニュースにはそういう人類の歴史の無意識がはたらいているのでしょうか。

そうして今や、この世界のほとんどの人が、神を信じていなくても心のどこかしらに否定しきれない気持ちが疼いている。

フェイクデマなんか嘘だと分かっていても、それに飛びついてしまう人がたくさんいる。

 

だから、この国の右翼の人たちだって、いつまでも歴史修正主義フェイクニュースをいい続けていれば世の中もだんだんそれを否定できなくなってくる、と目論んでいるのかもしれません。

 

神なんか存在しない、といったって駄目なのです。

リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』という本を書いたが、それですむ話じゃないのです。

そんなことをいっても、「人間は嘘や妄想が好きである」という問題は依然として残るわけじゃないですか。

 

だれだって、真実だけをよすがに生きているわけではない。

たとえば、もしも自分が美人だったらとかお金持ちだったらとか、だれだってそう思う瞬間はあるでしょう。

あの青い空の向こうにはどんな世界があるのだろうとか、泣いている人を見たらきっとかなしいんだろうなとか、死んだらどこに行くのだろうとか、人の心が非現実の世界にさまよい出てしまうことは避けられないでしょう。

想像力も妄想のひとつだし、妄想は想像力のひとつです。

 

神がいようといまいと人は神を思う気持ちを持ってしまったし、だったら「神とは何か」ということを考えたほうがもっと知的だし建設的だともいえます。

だからスピノザは、神とは究極の無限である、というようなことをいった。

 

「究極の無限」とは、「何もない」ということでもあります。

日本列島の神道は、「神が神であることの証しは存在しないことにある」という認識になっています。もしかしたらこれは、スピノザと同じ思考回路かもしれません。

 

存在しないことこそが神なのだ、ということ、これに対してドーキンスはどう応えるのでしょう。

「ある」か「ない」かの二項対立で答えを決定してしまうのではなく、心がどちらでもないさらに向こうの世界にさまよい出ていってしまうこと、それだって人間的な脳のはたらきでしょう。

 

死後の世界は天国でも地獄でもなく、だれもが何もない真っ暗闇の「黄泉の世界」に行くのだ、というのが神道の死生観です。それは、死後の世界はこうだと説明しつつ、死後の世界などないといっていることでもあります。

 

日本列島の神道は、無神論でも有神論でもないのです。

日本人がはじめて神という概念を知ったのは、仏教伝来によってです。それまでの日本列島に神という概念などなかったのです。

 

この国では、トイレットペーパーだって「かみ」といいます。

古事記という神の物語は、縄文以来の土着の神を語っているのではなく、人々がみんなで「神とは何か」と問うていった結果として生まれてきた話なのです。

つまりこの国の歴史において、仏教伝来以前の土着の原始的な宗教なんかなかったのです。

 

そのときみんな、神とは何かということを知らなかったのです。

だから、あんなにも多種多様で奇想天外な神々が生まれてきたわけで、その思考の根本には「神が神であることの証しは存在しないことにある」という思考が流れています。それは、嘘っぽくあればあるほど本当っぽいのです。

 

日本文化の伝統は嘘をもてあそぶことにある、と言い換えてもいいです。

そうやってオルタナティブな答えを探究してゆくというか、そうやって心が異次元の世界にさまよい出てゆくことの恍惚がある。それがこの国の伝統的な民衆の心である、と僕は考えています。

 

良くも悪くもそうなのですよね。

だから、かんたんにフェイクニュースにしてやられてしまうし、フェイクニュースを振り回して意地汚いことをしようとする者たちも生まれてくる。

そうして総理大臣や官僚たちは、際限なく嘘をつき続ける。彼らは、この国のオルタナティブな精神風土というか、民衆が正義や神などを本気で信じていないことに付け込んで好き勝手に支配しにかかってくる。

そうやってあの無謀な戦争に突入し、あの無残な敗戦に至ったのでしょう。

 

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ようやく一回目のユーチューブを配信することができたみたいです。

できる限り毎日配信してゆこうと思っています。

でも、やっつけ仕事であわてて発信しただけだから、けっして完全なかたちではなく、サムネイルもつくっていないし、チャンネルの名前とかどういう主旨のどういうジャンルかということなどの説明もまだ設定していません。

 

スマホで簡便に撮っただけだし、たぶんほとんど検索に引っかからないだろうと思います。

何しろ見かけも話し方もみすぼらしくてぶざまなだけの動画だから、半分は見られたくないという気持ちもあります。

いましばらくは、ひっそりと配信してゆこうと思っています。

人並みのまともなかたちになってくるのはいつのことやら、と少々暗澹たる思いですが、「いい年こいてもまだ恥さらしなことをしてやがる」というのは、それなりに傷口をぼりぼり掻いているようなというか、そんな自虐的な心地よさもほんの少しはなくもないです。

こうやって僕は、恥をかき続けて死んでゆくのでしょう

 

恥をかいても、どうしても発信したいことがあります。

僕が負けたら、日本列島の民衆の伝統としてのシンプルで直截的な思考が滅びる、という思いも、じつはなくもないです。

今どきは、人間とは何かとか日本人とは何かということの認識があまりにも歪んでしまっている世の中で、「そんなことあるものか」と反論したくなることがいっぱいあります。ありすぎるくらいあります。

どんなに恥ずかしくても、一人か二人でも話を聞いてくれる人がいるかぎり、発信し続けていこうと思っています。