原節子・今どきの女性論7


いまどきはサッカーで「なでしこジャパン」といわれたりして、大和撫子やまとなでしこ)という言葉の意味合いも少し変わってきているのでしょうか。
世界中女は女だけど、よその国の女と日本人の女の違いというのもあるらしく、それはもう、女自身がそう思っている。
日本人の女の輝きというのは、いったいどこにあるのか。
これは、日本人論の問題でしょうか。
今どきのマスコミのインテリが語る日本人論とか日本文化論とか、ぜんぶくだらないなあと思います。『日本辺境論』をはじめとして、ほんとに、お前らみんなアホかといいたくなってしまう。
こんなことをいうと、おまえのその態度はよくない、と批判してくる人がいるのだけれど、僕だってふだんの暮らしの中では目の前の出会った人にときめいたりして生きているわけで、ただ、そういう時代の風潮に乗った言説を無批判に受け入れる趣味はないし、時代そのものに対する違和感は誰にだってあるはずです。おまえらみたいに時代に踊らされているだけの薄っぺらな脳みその人間の正義ぶった批判などちゃんちゃらおかしいだけで、どうして俺がおまえらを見習って生きねばならないのか、といいたくなります。
こっちは、おまえらの何倍何十倍も、日本人とは何か、日本文化とは何かと考え続けているんだよ。
僕は、時代からもこの生からもはぐれてしまっていますよ。でも女は、もっとラディカルにはぐれてしまっている存在であるわけで、その孤立性にこそ女の輝きがある。そこのところをどう語ればいいのか。それが、僕の女性論および日本文化論の課題でもあります。



女の持つ本質的な品性と輝きは、美貌とか教養とか性格というようなものでは語れない。そこのところで恋愛小説家はいろいろ苦心しているのでしょうね。
すくなくともそのへんの思い上がった女の自慢たらしい女性論などほんとにくだらないし、そんな女性論にしてやられている女がたくさんいるというのも、なんだかわびしい景色です。
小津安二郎という映画監督は女を美しく撮ることの名手で、戦後はずっと日本の女の普遍的な姿というものを追求してきました。
その「姿」の体現者として、最初のころはずっと原節子にこだわって使っていました。
原節子は、わりと大づくりの顔で、日本的な美人というわけではありません。それでも、原節子でないといけないわけがあったらしい。
原節子より美人の女優はいくらでもいました。でも、どんな女優と競演しても原節子のほうが輝いているのですよね。そういう華やかで上品な輝きを持っていました。
華やかなだけの女優だったらほかにいくらでいます。女優ならみんな華やかだともいえる。今でいえば叶姉妹だって、じゅうぶんその範疇に当てはまるでしょう。しかし叶姉妹には、原節子のような「品性」はありません。
まあ、とびきりの笑顔を持っている女優でした。ただはにかんだだけでも楽しそうに笑っても、きらきら輝いて上品でした。王女のように華やか、というのではありません。そんな身分など超越したところで宝石のように輝いていた。
小津作品ではないが、「安城家の舞踏会」という映画では貴族の令嬢を演じ、「青い山脈」では庶民的な田舎町の高校教師を演じたのですが、どちらの原節子が輝いていたかといえば、後者の映画の中でした。
しかしそれでも、小津作品の中の原節子の輝きはもう、別格でした。黒澤明(「白痴」)も成瀬巳喜男(「山の音」「めし」)も原節子主演の映画を撮っているが、小津作品の中ほどには輝いていない。
まあ、映画を撮るときの小津安二郎には俳優や景色に対する愛が第一にあったが、ほかの監督は、まず自分の作品に対するこだわりを優先していた。映画そのものの評価は別として、そういう映画作りの流儀の差はあったと思います。



戦後すぐの「晩春」という小津映画はもう原節子のためにつくられたといってもいいくらいだが、原節子の存在そのものが醸し出す上品な輝きは、その次の「麦秋」という作品でいちばんみごとにあらわれていたように思えます。
原節子は、おそらく自分のことを美人だと意識していなかったのでしょう。自分のことを美人だと意識していない美人なんて、そうめったにいるものじゃありません。だから、自分を見せようという作意がない。見せられるものを持っているという意識はない。美人のくせに美人だと思っていない、そこに原節子の品性と輝きがあった。普通の美人女優なら、どうしてもそういう自意識が入ってきてしまいます。
原節子のあの顔は、戦前までの日本美人の基準からは外れてしまっています。だから、自分を美人だと意識しないまま育っていった。それはまあ、奇跡のようなことだったのかもしれない。そして原節子自身からしたら、自分の品性とか輝きなんかわかるはずもありません。それはあくまで他人が見て感じるものなのだから、鏡で自分の顔をじっと見てもわからない。きっと、鼻が大きめで変な顔だなあと思っていただけでしょう。それでも、他人からは一目置かれ賞賛されるから、自分の知らないところで他人には感じる何かがあるのだろうということはわかってくる。とすれば、自分はもう自分をつくって変えてゆこうとしたらきっと他人から見捨てられる、というような意識にもなっていったことでしょう。自分が自分のままでいることしか女優であるすべはない、というのか。
というわけで原節子は、悲しんだり怒ったりというようなわざと自分をつくって見せる演技が下手でした。演技派ではなかった。しかし、存在そのものの輝きと品性においては、誰にも負けなかった。女優として、その輝きと品性は、けっして失わなかった。そして小津監督は、誰よりもみごとにその魅力を引き出して見せた。



日本的な美人というわけでもなかったのに小津監督にとっての原節子は、日本の女そのものだったのです。
日本の女とは何か?
日本の女の魅力はどこにあるのか?
「晩春」は、少し婚期が遅れている娘と妻に先立たれてやもめ暮らしの父親(笠智衆)との心の交流、というようなストーリーだったのですが、その映画の中の原節子は、正座することをけっしてしなかった。戦後すぐの時代だったから、中流以上の家庭では親の前とか食事のときは正座するという習俗は残っていたはずです。それでも監督は、あえてさせなかった。「新しい女」を描くためではありません。あくまで「女の普遍」にこだわった監督です。
たぶん、わざわざ正座するような自意識を持った女にしたくなかった。無防備でなんの作為もないのにそれでも品性がにじみ出ている女を描きたかった。この映画の原節子は、親に従順でもなんでもなく、平気ですねたり親をからかったりする。それでも父親と一緒に暮らすことにとても深い愛着を持っている。
まあ、自分を捨てていつも体ごと人や世界に反応している女を描きたかったわけです。ラスト近くで「結婚なんかしなくてもいい、お父さんの世話をして生きてゆければこれ以上の幸せはない」というせりふを吐くのだけれど、それはべつに父と娘の絆とかそんなこといっているのではなく、人生などというややこしいものに対する執着をさっぱり捨て「非日常」の世界に入り込んでしまっている女の輝きと気高さ(品性)みたいなものが描きたかったのでしょう。そういう浮世離れした女、というか。
日本の女は、現実の社会とか人生などというものを捨ててさっさと「非日常」の世界に入り込んでしまう。だから見合い結婚という習俗も成り立ってきたのだが、しかしその非日常性は女の普遍的な属性であり、そこにこそ女の輝きと品性がある。まあ、そういうことを存在そのもので表現できる女優は原節子をおいてほかにはいなかった。



その次の「麦秋」という作品での原節子は美人の重役秘書という役柄でしたが、セレブの奥さんになる縁談を持ちかけられたのを断って、じつに唐突に、それまで恋愛関係なんか何もなかった幼馴染の子持ちやもめの男と一緒になることを決心してしまいます。
この男のお母さんがあるとき、「息子にもあなたのような人がお嫁さんに来てくれたらねえ、私も心配しなくていいんだけど」と愚痴をこぼしたときに、「私でよかったら喜んで行かせてもらいます」と、なんだか発作的にという感じで答えてしまいます。あとでそのことを知らされた息子は、はじめから高嶺の花だとあきらめていた相手だから、よろこばないはずがありません。お母さんだって、そんなつもりでいったわけではない。しかしそのときこの女は、なんの迷いもなくいきなりそう決心してしまった。
つまり、生まれたばかりの子供のような裸の心で出たとこ勝負をし、体ごと反応していった、ということです。
もともと得か損かの計算ずくで生きることがいやな性分だったが、有利な条件と聞いていた縁談の相手よりもこの子持ちやもめの男のほうが信頼できる、と突然思った。それでいい、と思った。日本の女はそういう思い切りのよさを持っているし、女なんてもともと世界中どこでもそのような存在なのではないだろうか、と小津安二郎はいっているらしい。こういう女は、新しい女か、それとも古い女か、と問いかけている。
「新しいものとは古びないもののことだ」というのがこの監督の持論です。
そして世界中の多くの映画ファンが、この監督の映像世界に心酔している。たんなる「日本的」ということを描いているのではない。だから、原節子に正座させなかった。
フェミニストなら、そんな世界など小津安二郎という男のセンチな妄想だ、というかもしれない。しかしそれでも世界中が支持し、「小津映画と出会って自分の中のものを見せられたような気持ちになった」といっているフランスの女の映画監督もいるのです。
ともあれ、「品性」というのは生まれつきのもので、人格や教養のように努力すれば得られるというものではないですからね。そこがややこしいところで、しかし生まれつきのものだからこそ女なら誰でも持っている、ともいえます。
結婚なんて目の前の相手を見繕ってすればいいだけだということを「麦秋」という映画の中で絶世の美人を演じている原節子は実行して見せたが、今どきの女たちはネコも杓子もそれではすまなくてあれこれ広く男を物色しにかかかっている、なんとも皮肉なことに。
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