女たちのサバイバル・ここだけの女性論6


女たちが「いい女」になることを競争する時代になってきた。
「いい女」になれば、いい男をつかまえられるし、会社に入って仕事をするにもそれが武器になる。
昔はそうやって男たちが競争し、そのための「男性論」がたくさん出回っていました。
今、一周遅れで女たちがその競争にさらされている。
あんなつまらない「女性論」のあれこれにすがってゆくなんてなんだかみすぼらしい景色でもあるのだが、ひとまずそういう時代なのでしょうね。
「戦後」という時代の問題なのだろうと思います。
昔は、男でも女でも、ぼんやり生きていてもなんとか結婚することができた。町内会のまわりの大人たちが見合いの場をセッティングしてくれたりして、それで当人たちもたいして高望みもせずに結婚していった。そうやってみんなに相手が行き渡っていった。
だからまあ、あまり苛烈な競争もなかった。それぞれが自分の分に合った相手と結婚していった。
しかし、戦後になってたくさんの若者が地方から都市に流入してくる時代になった。そうした若者たちはもう、自分の結婚相手は自分で探さないといけなくなった。そのための「男性論」だったのでしょう。団塊世代が20代になっていったころから、急速に「男性論」が増えていった。そしてそれは、会社で出世するとか、とにかく都市生活を上手に生きてゆくためのマニュアルでもあった。
まあ最初のころの都市の若い女たちは、身近な寄ってくる男と恋をしたり結婚したりしていたのだろうが、男たちの競争が激しくなってくれば、ぼんやりしている娘は売れ残ってしまうことになる。
どこでも何人かの男がひとりの女を奪い合うようになってくれば、とうぜんそうなります。そしてほかの女たちが、その競争からおちこぼれてきた男を待っているという立場で満足できるはずがない。自分だって奪い合われる立場になりたいし、よりランクの高い男を奪い合いたい。
フェミニズムがブームになってきたのもそのころからでしょう。1970年代後半から80年代にかけてのころ、このころに団塊世代の女たちのあいだでは、有利な専業主婦に納まったグループと、独身のままできたり夫婦共稼ぎだったりする女たちのグループとに分かれてきた。そうして、働く女たちを中心にフェミニズムが起きてきたのだが、もう働いて生きてゆくしかないのだから職場や社会の性差別に対する抵抗(異議申し立て)がスローガンになっていった。
で、やがて勝ち組(犬)・負け組(犬)というような言葉まで流行ってきて、もう女たちの競争はどんどん複雑(重層的)で苛烈になっていった。
そうやって今、なんだかわけのわからない「女性論」が花盛りになっている。とにかく女どうしの競争に勝ち抜くための「女性論」なのでしょう。
専業主婦であろうとキャリアウーマンだろうと、都会で成功した女たちが煽って煽って、今、多くの女たちがそれに踊らされているらしい。
「いい女」になればいっぱい得することがありますよ、と扇動しまくっている。



そういう世の中なんですね。
つまり「いい女」であることは、都会生活の「正義」なのですね。
女たちはもう、「女とは何か」とか「人間とは何か」というような問いなど振り捨てて、ひたすら「いい女」であることの「正義」を得ようとしている。
競争に勝ち抜くためには、相手を振り落としてもかまわないという「正義」が必要です。
馬は、競走することが本能なのではなく、みんなで走ることが本能なのでしょう。おそらくそれは、人間だって同じのはずです。競争という不自然なことをするためには、どうしたって「正義」が必要になる。まあそれが共同体の制度性の本能であり、ひとりの人間としては、他者と協力し合い他者を生かし合おうとしてゆくのが本能というか自然です。
競争して相手を振り落としてしまうことは、自分は正しくて相手は間違っていると主張することです。「私は悪くない。悪いのはみんなまわりの人間だ」……いつもそんな態度や口ぶりばかりする人間が、男も女も、このごろすごく増えてきていますよね。そういう人間にさせられてしまう世の中であり、「いい女」になろうとがんばることだって、ようするにそういっているのと同じなのです。
「いい女」という「正義」を手に入れようとがんばっているだけのことです。そしてそんなことをしたって、当人がうぬぼれるほどには男たちは評価していない。
「いい女」になろうとがんばることなんか、女の本質でも自然でもなんでない。それは、女どうしで競争し合うためのスローガンにすぎない。なんであんなに「私は悪くない、悪いのはまわりのみんなだ」といいたがるのか。そう思いこんでそういっていれば最強ですけどね。それは、共同体の制度性の論理であって、自立したひとりの人間の考えていることではない。共同体の制度性にへばりついているから、「いい女」だの「幸せ」だのという正義が欲しくなる。
そうやってみんなが、社会や時代に煽られてしまっている。
女は、生きてあることにも女であることにもうんざりしている存在です。したがって、女であることに執着して「いい女」になろうとする衝動など根源的には持っていない。
人間であることからも女であることからも離れて「非日常」の世界に入っていってしまうのが女の自然です。そこから生きはじめるのが女の自然です。
あなたたたちがどんなにうぬぼれようと、男にとっては裸の心で体ごと反応してゆける女が魅力なのであり、そういう女は「いい女」になろうとなんかしていないし、自分が「いい女」であるとも思っていない。



何も知らない赤ん坊のような心で体ごと反応してゆける輝きこそが魅力です。その輝きこそが、もうワンランク上の魅力です。赤ん坊の愛らしさには、誰もかなわないのです。
大人の女のまねをするようになったらおしまいです。
自分が「いい女」のつもりでいるから、人と別れることに耐えられなくなってむやみな嫉妬や執着がふくらんでくるということもある。
「いい女」のつもりになってしまうなんてブサイクだし、それによってあなたから輝きが消えてゆく。
この世界の現実=日常からはぐれてしまっているのが女です。まあ、そういう気配を持っている女は魅力的だし、男だって現実=日常から解放された気分になりたくて女に引き寄せられてゆくのです。
シンデレラストーリーじゃないけれど、現実=日常からはぐれてしまっている女こそが、たとえブスでも王子様を引き寄せてしまうのです。
人間の世界には、ブスでも王子様を引き寄せてしまう男と女の「関係性」の構造があるのです。そういう人類の無意識が、シンデレラというおとぎ話を生み出した。
だからこそ、男と同じ土俵に立って男を飼いならそうとしてくる女なんか、どんなにお上品に振舞ってもだんだん鬱陶しくなってくるわけです。



「いい女」の基準なんかわかりません。
それに、女たちの基準がそのまま男が見ているものでもあるとはかぎらない。
そのへんの不安があるから、成功した女の自慢話に飛びついてゆくのでしょうかね。
まあ、男のがわからいわせていただくなら、男は、女が思うほど「いい女」かどうかなど気にしていないし、何が「いい女」かということもよくわからないのです。
美人であれば男をつかまえるのに有利であるのかもしれないが、一緒に暮らせば、美人であることなんか飽きてきます。それに、誰だっていつまでも若くはいられない。子供を産めば、体型だって崩れる。
それでも男は、女に引き寄せられる存在なのです。長く一緒に暮らして男に飽きられるのは、若くなくなったせいでも体型が崩れたせいでもない。何に引き寄せられるかといえば、その女の品性とか存在そのものの輝きのようなものを感じるわけで、それはもう美人とかいい女とか性格がいいとか、そんな問題じゃない。
その女の存在そのものの気配の輝きというようなものがあるのですよね。
どれほど精神的にも「いい女」であっても、男の世話や扱いがうまくても、飽きられるときはある。



成功した女の自慢話を参考にしても、それがそのままあなたの人生にも当てはまるとはかぎらない。その女が世界中のすべての男を相手にしてきたわけではないし、あなたが相手にしている男のことなど知らないのです。
そして世界中の男がその成功した女を「いい女」だと思うともいえない。
人それぞれ、人生のなりゆきで、女と男が出会う。それはもう、この世でたったひとつのあなただけの体験であり、その関係をよその女の成功パターンに当てはめてしまうなんて、相手の男に対して失礼です。
よその女の成功のおこぼれを拾おうなんて、やること考えることがみみっちいじゃないですか。
あなたにだって女としてのプライドがあるのなら、この世にたったひとつのあなただけの体験として体験しきってみせないといけない。まあ誰だって、いざとなったらそういう体験の世界に入り込んでしまうのではないでしょうか。
よその女の成功体験を拝借して目の前の男をつかまえ飼いならそうとするなんて、男をなめているし、人間そのものをなめている。
あなたが成功するかどうかなんてどうでもいいことです。相手の男だって、あなたにつかまらないといけない義理なんかない。ただもう、そこに男がいるということそれ自体にときめくことができるかどうかという問題があるだけです。
あなたに男をつかまえる権利があると思っているとしたら、あつかましいにもほどがある。
この世の中に、相手をつかまえる権利を持っている人間なんかどこにもいないのです。
もしそこでときめき合うという関係が生まれるとすれば、それはもうあなたの人生のなりゆきの問題であって、あなたがつくりだすことじゃない。



問題は、成功できるかどうかということじゃない。
あなたが出会うあなただけの人生のなりゆきを、体験しきることができるかどうか、味わいきることができるかどうか、ということでしょう。
何もかも自分の思うとおりに自分の人生をつくってゆくなんて、なにごとにも出会っていないのと同じです。
人生の体験は、向こうからやってくる。それと出会って、ときめいたりかなしんだりしてゆく。ほんのささやかな人や物事との出会いにだって、最初から決まっていることも自分でつくれることもない。
一日一日一瞬一瞬のすべてが、あらかじめ予測のつかない「不意の出来事」として出会ってゆくのが人生のなりゆきというものでしょう。
すべてが自分の思い通りになる幸せが、そんなにすばらしいですか。思い通りになる幸せにしてしまいたいですか。
しかし、いくらそんな気持ちでいても、やっぱり人は自分の思う通りにはならない予測のつかないいろんなことと出会いながら生きてゆくわけじゃないですか。
そういうことにちゃんと反応ができる女のほうが魅力的ですよ。
ものごとを自分の思うとおりにできる能力があって思うとおりにしようとする意欲が旺盛なことは、そんなにすばらしいことですか。まあ、鈍感でふてぶてしい女ほどそんな意欲が強いですよ。そうしないと生きられないのだろうし。
そんな女の自慢話が、そんなにありがたいですか。
そのようにしか生きられないのならそのようにして生きてゆけばいいのだけれど、それでだんだん反応する心が鈍磨してゆくということはあるのでしょうね。
道を歩いていて、かわいいものを見つけてときめいたり、風の気配にふと心が和むとか、そういう体験ができなくなってぼけてゆく老人がけっこうたくさんいて、すでにその予備軍になってしまっている女もけっして少なくはないのかもしれない。



生まれたばかりの子供のようなまっさらの心でこの世界や人との出会いに体ごと反応してゆく……そういうことができる女は、いい女になる方法や男の扱い方なんか研究しない。彼女にとってはこの世のすべては予測のつかない不意の出来事であり、いつだって出たとこ勝負です。
まあ女なら誰だってそういう瞬間は持っているわけで、そういう気配に男は引き寄せられる。好きな男の前に立てば、予測不能に陥って心は震えていることでしょう。そうなったらもう、何もかも忘れて子供のような裸の心で反応してゆくしかない。
そんな事態になってもまだ、どうすればこの男をたらしこめるかと計算していられるなんて、なんかふてぶてしいし、そんな気配はなんとなく男にもわかる。そうして男はもう「やれそうかどうか」ということしか考えていない。
かんたんに体を許してはいけません、などといっても、さんざんもったいをつけてからやらせてあげたのにそのとたんに男が逃げていった、という例はいくらでもあることでしょう。
好きになったのなら、やらせてあげるもあげないもなりゆきしだいのことで、計算してどうこうするということではないはずです。
なりゆきしだいだ、と無防備になっている女のほうがあんがい大事にされたりする場合だってある。
まあ男だって、出たとこ勝負に出てくる女のほうが予測不能で相手にしておもしろい。それに、自分を「いい女」だと思っている気配ほど男にとって鬱陶しいこともありません。何様か、という感じですね。「いい女」になろうとがんばりすぎると、努力の成果の確認として、どうしてもそう意識を持ってしまうし、持ちたくなる。
いい女になるにはどうすればいいかという今どきの女性論を一冊読んだだけでも、自分がワンランク上のいい女になったつもりになれるのでしょう。
ひといちばいいい女のつもりの女が書いているのだから、どうしたって洗脳されてしまう。そうして、まっさらの心で体ごと反応してゆくという感性をどんどん失ってゆく。
いい年した大人の女が若い娘をそうやってたぶらかしてばかりいていいのですかね。
幸せになるかならないなんて人生のなりゆきしだいのことでしょう。なる人もいれば、ならない人もいる。ならなくても、ならないことの人生の味わいもある。いつだって体ごと反応して生きていられるのなら、どんな人生からでも真実もよろこびも発見できるし、あなたは存在そのものにおいて輝いている。
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