「まれびと論」・7  家と戸の文化

「まれびと」の文化のキーワードは、「戸(と)」という言葉です。「訪(おと)なふ」の「と=戸」です。この言葉にこそ、「まれびと」の文化の本質と根源が隠されている。
「訪(おと)なふ」は、「おと」を「なふ」ということでしょう。
「おと」は「音」。「なふ」は、縄を綯(な)うの「なふ」。つまり、音を立てて来訪を知らせること。「ほとほと」と戸を叩いて来訪を知らせること。
なんだかもっともらしいが、「おとなふ」という言葉が生まれてきたとき、ほんとうに「戸を叩いて」いただろうか。おおいに疑問です。
なぜ「叩く」ではなく、「綯(な)ふ」なのか、ということが問題です。「おとなふ」の音は、「叩く」音ではなく、「縒(よ)り上げる」音なのです。
「叩く」とは言っていないのです。
「縒(な)ふ」なんて、ずいぶん念の入った言い方だと思いませんか。
ただの「知らせる」ではなく、「音」を「縒り上げる」のです。
縄文時代の戸は、板戸ではなく、ほそい竹か木の枝を編んだだけのものでしょう。だから、叩いてもあまりいい音は立たなかった。たぶん、戸を叩く習慣などなかった。
じゃあ、戸を押したのかといえば、それでは知らせてなんかいない。すでに入ってきているのだから、「縒り上げる」という微妙な行為になっていない。
「おと」とは、戸を押すことでも叩くことでもなかったのではないか。
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「お」は、「おや?」といったりするように、微妙な気分の表出です。「お」と発声するとき、体じゅうの血の巡りが停滞してしまっているような感覚がある。そういう停滞感の、「お」です。
つまり、戸の前で立ち止まっていることを「おと」といったのではないか。
では、立ち止まって何をするのか。
来訪を知らせるために、「歌を謡う」、「手を叩く」、「ごめんくださいという」、まあそんなところでしょう。神社に参拝するときに手を叩くことからすると、縄文時代からすでにそんなことをしていたかもしれない。
女の家を訪ねてきた男は、まず手を叩き、ごめんくださいといい、それから祝福の歌を謡いはじめる。そのあとにやっと家の中の女が戸を開け、男を迎え入れる。縄文時代の「ツマドイ」の習俗は、そんなふうにしてなされていたのではないだろうか。
すなわち「訪(おと)なふ」とは、戸の前に立って来訪の祝福を縒り上げること。「手続きを踏む」というような意味でしょうか。戸を押すことでも叩くことでもない。そのように手を叩いたり謡ったりする祝福の手続きの上に、はじめて「なふ=縒り上げる」という言葉が与えられたのではないでしょうか。
最初「おと」と言う言葉は、「戸の前に立つ」というだけの意味で、それがやがて、戸の前に立ってそうした音や声を上げている状態のことを指すようになっていったのではないだろうか。いずれにせよ、たんなる「音」のことではない。
「おと」は、「声」でも「音(ね)」でもない、とくべつの言葉だったのではないだろうか。
だから古代人は、むやみに「おと」とは言わなかった。
それを言うときは、たとえば、
「秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風の<おと>にぞおどろかれぬる」
この場合の「おと」は、たんなる木の葉を揺らす音というよりも、空気感として「秋が訪れの気配として縒り上げられている」、という感想を表現しているのではないだろうか。
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縄文時代だろうと古代だろうと、「ツマドイ」の習俗は、「戸」をはさんでなされていた。
現在でも、家を数える単位は「戸」です。家のアイデンティティは、「戸」にある。
日本列島における家のアイデンティティは、そこで人が寝起きしていることではなく、人が出て行ったり訪ねて来たりすることにあった。
「戸」は、家の外と内の「間(ま)」である。
日本列島の住民は、つねにそういう「間」という場にこだわって生きてきた。それは、人間が「衣装」という身体の内と外の「間」にこだわって存在しているのと同じくらい根源的・実存的なことであるはずです。衣装は、身体の「戸」なのだ。
われわれは、この身体が世界にぴったりとはめこまれてある安らかな状態を願いながら存在している。息苦しくなれば息をし、空腹になれば飯を食い、この身体をつねにそうした安らかな状態に置いておこうとして生きている。そういう身体意識の表現として、われわれは、衣装や家や共同体などの「輪郭=間」をつくってゆく。
身体が、この世界の中に、この世界との関係として置かれてあるということ。そういう「関係」の表象として、衣装や家や共同体という「輪郭=間」がつくられ、その「関係」を成り立たせるものとして「戸」がもうけられる。家に「戸」があるように、共同体には「関所」や「港」や「駅」があるし、衣装には「ボタン」や「ファスナー」や「ポケット」という「戸」がある。身体にだって、「目」や「耳」や「口」や「鼻」や「性器」や「肛門」という「戸」がある。そういう「戸」において、「輪郭」のアイデンティティが保証されている。
「帯」は、衣装の「戸」です。日本の衣装ほど大げさな「帯」も珍しい。女の着物なんか「帯」そのものが独立したアイデンティティを持っている。帯の結び方で着物の着方が決まるといってもいいくらいだ。「帯」が「着物」をしたがえている。日本列島では、それくらい「戸」に対するこだわりが強い。
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「国文学の発生・まれびとの意義」を書いた折口信夫は、「おとなふ」という言葉の起源は、神が来訪して「戸」を「ほとほと叩く」ことにあった、と言っている。
そうではない。「おとなふ」とは、たとえば「ツマドイ」にやって来た男が、女の家の「戸」の前に立って来訪=祝福の心を「縒(よ)り上げる=綯(な)う」ことにある。歌い上げることにある。日本列島における家を訪れるという行為の原初的なかたちは、折口氏のいうように「神が来訪する」ことにあるのではなく、男が女の家を訪ねてゆくことにあったのだ。それは、あくまで人の習俗であり、縄文時代から続いていた伝統なのだ。そこに「なふ」という言葉が挿入されていることは、その言葉が、板戸などなかった縄文時代からすでに使われていた可能性を示唆している。
「縄を綯(な)う」ということは、縄文人だってしていたはずです。「おとなふ」という言葉は、板戸を叩いて訪問するという習慣などなかった時代に生まれたのだ。
原初において、「戸」は「叩く」ものではなかったのだ。
「戸(と)」という言葉は、どのようにして生まれてきたのだろうか。
「と」という発声には、体じゅうに血が行き渡るような充実感と、体じゅうの血が停滞してしまうような閉塞感があります。「泊まる」「止まる」「留める」の「と」です。それは、停滞と充足の気分から発声される。そういう気分の表現として、「戸」と名づけられたのではないだろうか。
そして停滞する気分は、客の来訪によって充実した気分に変わる。
縄文時代の女たちは、集落のエリアの外には出て行かなかった。その代わり、たえず山野をさすらう男たちの来訪があった。彼女らにとって「戸」は、客の来訪そのものを意味した。つまり、「体じゅうの血が停滞してしまうような閉塞感」が「体じゅうに血が行き渡るような充足感」に変わる装置(象徴)として、「戸」があった。
「戸」それじたいが「来訪」を意味した。
「おとなふ」という言葉をよくよく検証してみれば、「戸の前に立って綯(な)う=縒(よ)り上げる」というだけで、来訪という行為の表現など何もない。それでよかったのです。なぜなら、その行為そのものが、来訪を意味していたのだから。そうしてしまいには、「おと」というだけで来訪を意味するようになっていった。
たとえば甲乙の「乙」は、やまとことばでは「おと」と発語します。つまり甲が「主」で、乙が「客」である、という意味です。
「おと」は、折口氏のいうような「戸を押す」という意味ではなく、「戸の前に立って来訪を告げる客」という意味です。日本列島に、「戸を押す」などという、そんな失礼な伝統はない。「戸」は、あくまで家の主人が開けるものなのだ。