「まれびと論」・6 神の訪れ

前回での折口信夫の「国文学の発生・まれびとの意義」から引用した部分は、さらに「神の訪れ」について、こんなふうに念を押しています。
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 誰(たれ)ぞ この家の戸押(おそ)ふるに 「にふなみ」に我が夫(せ)を行(や)りて 斎(いは)うこの戸を
(・・・中略・・・)「にへ」する夜の物忌みに、家人は出払うて、特定の女だけ残っている。処女であることも、主婦であることもあったであろう。家人の外に避けているのは、神の来訪があるためである。
(・・・中略・・・)「戸おそふる」といい、「外に立つ」と謡うのは、戸を叩いてその来訪を告げた印象が、深く記憶せられていたからである。「とふ」は「こたふる」の対で、言ひかけるであり、「たずぬ」は「さぐる」を原義としている。人の家を訪問する義を持った語としては、「おとなふ・おとづる」がある。音を語根とした「おとを立てる」を本義とするが、戸の音にばかり連想が偏奇して、訪問する義を持つようになったのは、長い民間伝承を背景に持っていたからである。祭りの夜に神の来て、ほとほとと叩く「おとなひ」に豊かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬に縮みあがった村幾代の生活が、産んだ語であった。だから、訪問する義の語自体が、神を外にして出来なかったことが知れるのである。
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「訪問する義の語自体が、神を外にして出来なかった」という言い方が、まず、気に食わない。日本列島における「訪問する」ことは、縄文時代からさかんに行われていたのです。山野をさすらう男たちは、山間地に点在する女たちの小さな集落を訪ね歩いて暮らしていたのだ。
「訪問する」ことが神の専売特許だなんて、古代人・原始人を甘く見すぎている。それは、原始時代からすでに人間にそなわっていた本性であり、そういう習性が人類の地球拡散を実現させたのです。
そのとき古代人はほんとに「神」の訪れを信じきって、「豊かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬に縮み上がっていた」のか。あほらしい。古代人だって、神など来ないことくらい知っていますよ。
だから、「誰ぞ」と誰何したんじゃないですか。それは、明らかに「人間」に向かって問いかけられている。そういう夜に、よその奥さんを寝取ってやろうとたくらむものはいるでしょう。
というか、新嘗の祭りの夜に神が来るというこの習俗は、以外にしたたかかもしれない。そのとき、女を家にひとり残して、男たちはどこへ出かけて行ったのか。まさか田んぼや原っぱに出て11月の寒空の下で、ぼんやり星を眺めていたわけではないでしょう。
だったら、よその奥さんの家に行ったのかもしれないですよ。新嘗の夜に浮気をしよう、と前から約束していたかもしれない。とにかく、どこの家も男は出払っているのです。それは、どこに忍んでゆこうと自由だ、ということです。この夜だけは、誰もが見て見ぬふりする合意ができていた。
男も女も、神が来たのだから、と許しあった。神が来たのだもの、誰が誰を責めることもできない。そういう一年に一度だけのフリーセックスの夜をつくるために、新嘗の夜に神がやってくるという合意をつくっていったのかもしれない。
日本人は、以外に貞操観念が薄いのです。特に縄文時代の女は、女子供だけの集落で、つねに不特定多数の男の来訪を受けて暮らしていたのです。そういう男女の関係を8千年も続けてきたのであれば、古代にもその伝統は残っていたはずです。
つまりこれは、フリーセックスの「ツマドイ婚」から一夫一婦制に移行してゆく過渡期の習俗だったのかもしれない。
神なんか来るわけがない。たぶんそれは、停滞した村の暮らしに刺激や変化をもたらす習俗として定着していたのだと思います。男も女も、古代から中世にかけての共同体の制度が強化されてゆく歴史の中で、たまにはそんなことがなければ、その停滞した暮らしや人生に耐えられなかったのでしょう。
「恐怖と畏敬に縮み上がって神を待っていた」だなんて、折口信夫ともあろう人が。どうしてそんなステレオタイプで薄っぺらな分析をするのか。小松和彦氏と同じように、村びとなんて臆病で迷信深いだけの人種だといいたいのか。
神や異人に対する「畏れ」は「ときめき」でもある。その「ほとほとと叩くおとなひ」に、体を火照らせる女もいたにちがいない。「恐怖と畏敬に縮み上がっていた」のなら、そんな習俗は「幾代」も続くはずがない。
だいたい神に対する「恐怖と畏敬」が「物忌み」だというのも変です。神は「もの」ではないのです。「もの」とは妖怪や悪霊のことです。新嘗祭の夜にやってくるのは、そんなたちの悪い神なのか。たちの悪いのは、他人の女房を寝取ろうと、家のまわりをうろうろしている人間ばかりでしょう。上に引用されている「誰ぞ・・・・・・」の歌は、そういう習俗の中で自分だけは違うといいたい女の、自意識だろうか。まあ、新婚時代ならそんな気分にもなるだろうが、10年20年たてば、男も女もそれではすまない。古代の庶民社会は、江戸時代の儒教思想に汚染されて停滞しきった武家社会とは違うのです。
新嘗祭の夜にとれたばかりの新米を神に饗応する。神を畏れる祭りだったのではない。彼らは、恵みを与えてくれた神をひたすら祝福してゆく気分でフリーセックスをしていただけのことで、したたかというか無邪気なというか、そういう心性が、「まれびと」の文化として「村幾代」も続いていったのだ。
神の訪れに恐れおののいていること、それが「にへのいみ=にひなめ」である、だなんて、まったく強引過ぎるこじつけです。そんなことを言っているから、「異人論」の小松和彦氏に「妖怪だってまれびとのうちだ」なんてけちをつけられてしまうのだし、けっきょく自分で「まれびと」の心性を掬い損なっていることをさらけ出しているだけじゃないか。
そのときなぜ女ひとりだけが待っていたのか。それは、縄文時代の女たちがひとり自分の家で男の来訪を待って暮らしていたことの名残であり、また古代の来訪する神がすべて男だったということも同じ伝統に由来するはずです。
男が女の住む家を訪ねてゆくという「ツマドイ婚」の習俗は、縄文時代に始まり、この歌のころも続いていたのです。
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縄文人の「ツマドイ」は、基本的に知らないものどうしの出会いだった。男たちは山野をさすらう旅人であり、女たちは集落の外に出ようとしなかった。
縄文時代の集落は、ほとんどが20人前後の小さなものばかりです。それは、集落どうしの往来がほとんどなかったことを意味する。もし頻繁に往来していれば、住みよい地域に大きな集落が生まれてくるはずです。そして住みにくい地域の集落は、どんどん消えてゆく。しかしそうはならず、住みにくくてもちゃんと暮らしていた。住みにくくても、そこがさすらう男たちの通り道にあれば、たくさんの来訪が受けられる。そして、ほかの集落の女がそこの暮らしに参加してくることを拒んだ。
日本列島の山間地の村は、伝統的に、旅人の来訪を歓迎しても、よそ者に住み着かれるのを嫌う傾向がある。
縄文時代は8千年も続いてそれなりに土木技術も向上していったのに、ちゃんとした道はほとんどつくられていない。それは、道をつくってほかの集落と往来しようとする意欲がなかったことと、大勢の人間が集まるという機会がなかったことを意味する。
日本列島で本格的に道がつくられるようになってきたのは、奈良時代行基という指導者が現れてからです。それまでは、けもの道のようなものばかりだった。
山野をさすらう10人前後の男たちの集団が、女子供だけの20人くらいの集落を訪ねてゆく。そこで一夜もしくは、雪に閉じ込められるひと冬の交歓をする。
秋の終わりに、冬を一緒に過ごしてくれる「神」がやってくるのです。
縄文人は、雪に閉じ込められる冬が嫌いでもなかった。エッチをやりまくることができるからでしょう。縄文時代は、そういう条件の北の地方のほうが圧倒的に人口が多かったのです。
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新嘗祭は、田の刈り入れが終わり、そろそろ冬の準備をはじめようかとするころに行われます。縄文時代に田の刈り入れはなかったが、冬の準備はあった。食料を蓄えておかないといけない。雪に押しつぶされないように、家の修理もしておかないといけない。それは、男たちも手伝ったでしょう。そういう男たちがやってくる時期というのは、女たちの集落がいちばん活気づくときだったにちがいない。新嘗祭はたぶん、この伝統の上につくられた。べつに縄文時代でなくとも、北の地方の冬は、雪に閉じ込められて男と女が寝床にこもりきりになる季節だった。秋祭りは、冬に向けたそういう昂揚感を祝う祭りでもある。
この時期誰もが昂揚して、いっとき村の性風俗が乱れがちになる。その混乱を収拾するために、新嘗祭の夜だけに限定し、「神とのまぐわい」をする、という大義名分を与えていった。やるもんだなあ、と思います。
そうしてそれを体験して夫婦の仲が一新され、冬は新しい気持ちでやりまくるのだ。
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また折口信夫は、こうした秋祭りを、神に対する収穫の感謝だけでなく春からはじまる生産の無事を願う意味もあった、といっています。つまり、ほんらいは春祭りだけがあって、秋祭りはその「予祝」にすぎないのだとか。彼の考えでは、神という「まれびと」は一年に一回しか来ない、という原則があるから、そうやって春の代わりに秋にするようになっただけだ、というわけです。
そうだろうか。古代人は神とともに暮らし、神は何度でもやって来たのではないだろうか。秋と春のあいだの暮れから正月にかけてだって、神がやってくるさまざまな行事がある。それらのことをすべて春に向けての「予祝」だといい、神は一回しか来ないといわれても、われわれは首を傾げるばかりだ。
古代人が神が来訪すると考えたのは、常世(とこよ)の国をイメージしていたからではなく、人が来訪するという実生活の伝統があったからだ。神なんかではなく、人が神のようにしてやってくる時代があったからだ。