「まれびと論」・4  海の向こうからやってくる神

キリスト教徒やイスラム教徒に比べて、日本人は、どうしてこうも信仰心が薄いのだろうか。それだけでも、折口信夫の「まれびとの文化は(来訪する)神のイメージとして始まった」という説がいかに危なっかしいかがわかります。「まれびと」の文化が神のイメージのうえに成り立っているのだとしたら、こんなにも深くわれわれの生活と関わっている文化には育ってこなかったはずです。
キリスト教徒やイスラム教徒は、その生活や思想が信仰と深く関わっているが、われわれの暮らしが彼らほどの神への信仰によって彩られているとは、とうてい考えられない。
「人はパンのみに生きるにあらず」といったのは、キリストです。
だから、神への信仰なしに人生は成り立たない、という。
では、彼らよりも神への信仰が薄いわれわれは彼らよりも即物的で現実的かといえば、そうともいえない。むしろ、彼らのほうがそうした事態をちゃんと処理して生きてゆける能力を持っている。とくに人間関係においては、われわれは彼らよりそうとうとろい。
だから、外交が下手だ、といわれる。
日本人の外交が下手なのは、日本人ほど神への信仰が薄い民族もそうはいない、ということもあるのでしょう。日本人どうしの関係においてなら、それなりに高度で複雑でしたたかな処理の仕方を持っているのだもの。
われわれが外国と外交交渉をするときには、相手と同じ方法論(=世界観)を持っていないというハンデがある。
パンというこの世と、神というあの世、彼らはその両義性のうえで生きている。
われわれだって「パンのみで生きている」わけでもないのだけれど、だからといって神への信仰をたのみとする生き方もできない。
われわれは、神というあの世の信じ方が足りないから、この世で生きてゆくための原則もうまく立てられない。
われわれは、この世とあの世の「間(ま)」に神をイメージし、そこにみずからの生の落ち着き先を見出そうとする。
だから、この世のことも、いつも行き当たりばったりなのだ。われわれの顔つきが外国人に比べて呆けているのは、この世で生きてゆくための原則を持っていないからだ。
そういうことは、いつも外国から借りてくる。それでいい、と思っている。クリスマスもバレンタインも大歓迎。
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海の向こうに神が住む「常世(とこよ)の国」があるということだって、仏教伝来とともに外国人が教えてくれたことだ。
この国の国家としての歴史は、とりあえずそういうかたちで始まった。
しかしもともとそういう世界観を持っていないから、国としてつくられたそういうイメージも、民衆のところまで降りてくるころには、いつだって変質してしまっている。
かぐや姫竹取物語だって、ようするに権力社会の宮廷文学として完成されていったのであって、民衆は、相変わらず月では兎が杵をついている、と思っていただけでしょう。
まあ、海の向こうに神の住む常世の国があったっていい。それはそれでありがたく受け取るのが「まれびと」の文化です。しかし、それを体ごと納得するわけではない。
百歩譲って、海で暮らす人々には昔からそうイメージがあったとしてもいいです。しかし日本列島は、その成り立ちから、内陸部で暮らす人たちのほうが圧倒的に多かったのです。そういう人たちがどういう世界観を持っていたかということが、折口氏の「まれびと論」ではまったく考えられていない。海辺で暮らしていた人たちが大和朝廷のころに内陸部に入っていっただけだ、と言っているのです。
そうじゃない、古代の日本列島の海沿いの平地は、ほとんどが人の住めない湿地帯だったのです。原始・古代の日本列島は、内陸部の山の文化なのです。
その点では、柳田国男のほうが見誤っていないように思えます。
折口氏は、沖縄に残っている常世信仰を本土の先史時代にも当てはめようとしているのだが、沖縄と本土では風土が違うのです。沖縄は、ちょっと遠くに漕ぎ出せば、しばしば見たこともない島を発見したりするところです。そういう体験から、海の向こうの常世の国がイメージされていった。
しかし古代の本土は、海の民も少なかったし、そんな島が発見されることもなかった。本土の人びとがそんなイメージを持ったのは、仏教文化が入ってきてからのことです。本土の常世信仰なんて、借り物の文化です。そういう借り物のイメージを駆使して語り上げていったのが、竹取物語です。縄文時代以来の土着のイメージではない。
日本列島の伝統的な心性として、「あの世」のイメージなどなかった。神は、この視界の果て、すなわちあの世とこの世の「間(ま)」に存在していたのだ。
たとえば日が沈んでゆく山の端、神はそこに住んでいるのであって、その向こうのあの世には何もない、と思っていた。もちろん、実際にはその向こうにも人の住む土地がると知っていましたよ。しかし、それでも、山の端に沈む夕日は、そういう「あの向こうには何もない」という感慨とともに眺めていたのです。そういう感慨のぶんだけ、感動も深くなる。感動するとは、そういう感慨が意識の底ではたらいている、ということです。それは、西洋も日本もない。われわれは、天上の太陽を見上げているときよりも、夕日を眺めているときの方が、ずっと豊かに生々しく「はるかに遠い」という感慨を抱く。
「はるかに遠い」とは、「永遠」のことではない。永遠など「ない」と認識するから、視界の果てを、「はるかに遠い」と感慨するのだ。
地平線の向こうからやってくる大陸と違って、縄文時代の日本列島においては、どこか遠いところから知らない人が村にやってくることはあっても、海の向こうから神がやってくるなんて、誰も思っていなかった。そしてそういう世界観の伝統が、古代人だけでなく、われわれ現代人の感受性の基礎ともなっているのです。
海に閉じ込められた日本列島の住民は、水平線の向こうという決定的な「その向こうには何もない」という体験をしているからこそ、この視界の果ての「はるかに遠い」という感慨も深いのです。旅する異人や神は、この視界の果ての「はるかに遠い」ところからやってくるのであって、海の向こうの「何もない」ところからやってくるのではない。
古代の村にやってくる旅する異人は、すべて「山人」だった。山の向こうの平地からやってきても「山人」だった。とりあえず、この世の果ては、山の端だったのであり、よそ者はすべて、いちばん遠いあの山の住人だとみなしたのです。古代に山人がいたということだけでなく、よそ者を山人だとみなす人々の視線があった、ということもあるのです。
この視界の果ての「はるかに遠い」ところに、この世とあの世の「間(ま)」がある。
中世には、海の向こうに永遠の楽土があると信じて船で漂流していった僧侶がときどきいたらしいけど、それは、仏教思想に洗脳されたひとつの精神病理であって、民衆の日常的な世界観とはまた別のものです。そういうエピソードで中世の民衆の世界観を語るなんて、乱暴すぎます。
「あの世」とか「神」のイメージで日本列島の伝統的な文化が育ってきたのではない。われわれは、のうてんきにクリスマスにもかぼちゃの祭りにも浮れてしまう国民なのです。海の向こうの「あの世」なんか、仏教思想に洗脳された支配者や僧侶たちが信じていただけです。民衆にとっては、よその土地からやってくる人が「神」だった。そう思うのが、海に閉じ込められた日本列島で生きてゆく流儀だった。そしてそれは、縄文時代からずっと続いてきたことだったのです。