「まれびと論」・3 祝福の構造

折口氏の「まれびと論」の何が気に入らないかといえば、「まれびと」のことを「貴人=神」という先入観で考えていることです。
「貴人」なんて、いやらしい言葉です。
義経がどうして民衆に愛されるかといえば、「貴人」でありながら、自分たちよりももっとみすぼらしい山伏の姿でさすらっていったからでしょう。いじましいといえばいじましいのだけれど、民衆は、その「落ちぶれた姿」を祝福しているのです。貴人であるからというよりも、「深く嘆いている人」だからです。
「身をやつす」ということ、この世のいちばん底に降りていって深く嘆く人になってみたい・・・・・・日本列島に住む人間は、どこかしらにそういう気分を抱えている。なぜなら、嘆くことこそがこの生の充足だからです。やまとことばは、嘆きの上に花開いてゆく。われわれは、そういう言葉を使って生きているのです。そういう観念性からは、もはやそうかんたんには逃げられない。蓑笠をまとう乞食姿が神および旅する異人のユニホームになっていったのも、そのためであろうと思えます。
われわれは、自分ではそうなれないから、そうやって落ちぶれて嘆いている人を祝福してゆく。われわれ庶民が落ちぶれてもみじめなだけだけど、高貴な魂を持った人が落ちぶれていったときの深い嘆きは、祝福したい。それは、高貴な魂を祝福しているのではない。あくまで「深い嘆き」に思いを寄せているのだ。
みじめな気分を味わってしまった人間は、そうかんたんには落ちぶれてゆくことはできない。なんとかもっといい暮らしをしようと気を揉んで、いじましく生きてゆくばかりだ。それが情けない。情けないから、義経を贔屓する。義経は、どんなに深く嘆いても、みじめな存在にはならない心を持っている。
深く嘆いている人は、すべての他者を祝福してゆくことができる。われわれ庶民のように、いじましく人を選別するようなことはしない。義経でなくとも、そういう人となら、しんそこから祝福しあう「出会い」を持つことができるかもしれない、と庶民は想像する。
べつに貴人でなくても、遊行僧や旅芸人などのように、はじめから乞食姿で旅をすることが自分の人生だと思っている人たちがいる。そういう落ちぶれて深い嘆きを持ったものたちとの「出会い」こそ、民俗社会の人々の慰めであり充足だった。
海に閉じ込められた日本列島の住民は、先験的に関係にたいする閉塞感を抱えている。日本列島で暮らす限り、もう「向こうがわ」には行けない。この生きにくい生から逃れることのできる場所は、こちらとあちらの「間」にしかない。
他者との出会いの瞬間、たがいのあいだに「間」が生まれる。つながっているのでも離れているのでもない「間」。「向こうがわ」に行けない者たちは、そういう「間」を発見してしまう。
義経は、権力という「向こうがわ」にいけなくなってしまった人です。そうして、民衆の世界である「こちらがわ」との「間」に下りてきた。この世界やこの生は、さまざまな「間」をはらんで成り立っている。そういう「間」において、民衆は義経と出会っている。
祝福しあう「出会い」を体験したい・・・・・・日本列島の住民のそういう願いは、縄文時代から続いてきている。それは、尊い人や神の姿を拝みたいからでも、福や富を得たいからでもなく、祝福し合うということそれじたいを体験したかったからだ。だから村びとが、乞食姿の旅する異人を泊めてやったりしていたのだ。貧しい村びとほど、進んでそうしてやったのだ。そうすればのちのちご利益が授かる、という言い習わしがあったとしても、それ以上に身にしみた習性として「祝福しあいたい」という心の動きはたしかにはたらいていたのだ。
何度でも言います。貴人だからではない。落ちぶれて深い嘆きを身にまとったものこそ、村びとにとっての心を洗って(解放して)くれる相手だったのだ。彼らは、死と生の「間」に存在している。日本列島で暮らす人々には、そういう「間」を探索する心の動きがあった。
これは、金ぴかの仏像を拝むのとは、また別のことだ。言い換えれば、金ぴかの仏像に向かってご利益をお願いするようないじましい生きかたをしていたからこそ、死と生の「間」を探索し、そこを住処としている落ちぶれて深い嘆きを身にまとったものたちとの出会いを切に願ってしまうのだ。
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折口信夫の「国文学の発生・まれびとの意義」の序論から、もうひとつ引用します。
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・・・・・・今日(こんにち)にもいたる処の田舎では、「ゐろり」の縁の正座なる「よこざ(横座)」を主人の座とし、その次に位する脇のがわを「客座(きゃくざ)」と称えている。これは、客を重んじなれた都会の人々には、会得のいかぬことである。しかし田舎屋の日常生活に訪(おとな)ふ者といえば、近隣の同格あるいは以下の人たちばかりである。もしたまに同等以上の客の来た時には、主人は、横座をその客に譲るのが常である。だから、第二位の座に客は座るものと考えられたことは、農村の家々に、真の賓客と称してよい者の、容易には来るものでなかったことを示している。
正当に賓客と称すべき貴人の光来の栄に接することになったのは、およそ、武家時代以後、しだいにさかんになったことと観察せられる。
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なんか、いやらしい書き方です。
「正当に賓客と称すべき貴人の光来の栄に接すること」が、この国の「まれびと」の文化を育んできたのでしょうか。折口氏は、ここでそういう言い方をしているのですよ。
僕は、そうは思わない。
古代の「神」は、蓑笠をまとった乞食姿でやってくるのが常だった。もちろん、正体を明かすわけでもない。そういう相手をどう迎え入れるか、つまりほんものの乞食でも「客」として迎え入れるのが、「まれびと」の文化だったのではないか。
折口氏がこの論稿を書いた大正時代はどういう状況だったのかは知らないが、かつての民俗社会には、高野聖や琵琶法師や旅芸人などが、旅する異人として蓑笠をまとった乞食姿で村にやってくる伝統があった。そして彼らは、村びとに一夜の宿を乞うた。
これが、村びとの心の底にある体験として生活習慣をかたちづくっていった伝統です。
そういう乞食姿の者が一夜の宿を乞う思いを胸に抱いて訪ねていったとき、いきなりどうぞどうぞと上座に座らされたら、かえって居心地が悪いでしょう。口から出かかっているものだって、引っ込んでしまう。
客はまず下座に座り、この家の造作や調度をほめて挨拶する。やくざだって「おひけえなすって」と門口の土間で体を低くしながら口上をいう。
そのとき主人は、宿を乞う言葉が出やすいように応対して見せるのがたしなみなのだ。そのためには、相手を上座に座らせてはいけない。村の者どうしのあいだでも、借金を申し込みに来たり、明日の畑仕事の加勢を頼みに来ることだってある。そういうとき、主人としても、上座に座ってしまったからにはいやとは言えないでしょう。彼らは、助け合って生きていたからこそ、来訪者を上座に座らせないのがたしなみだったのだ。
そして客も、頼むからには、へりくだってこの家をほめなければいけない。祝福しなければならない。琵琶法師なら、一席語ってみせなければならない。しかしそうなって家の者たちがまわりに集まってくれば、もう乞わなくても向こうから「泊まっていけ」と言ってくれる。
客は、祝福の芸を持っていなくてはいけない。主人はそれを拒んではいけない。ともに祝福し合わねばならない。だから主人が上座に座るのであり、それが民俗社会の文化だったのだ。
彼らは、どちらの身分が上かどうかとうかがい合う都会人のような、そんないじましいスケベ根性だけで暮らしていたわけではない。たとえ身分が上の者がやってきても、用件しだいでみずから下座に座るのであり、座らせてあげるのが主人のたしなみです。
言い換えれば、村びとどうしのあいだには、借金や畑仕事の加勢の申し込みを断ることができるような関係は存在しないのです。断るためには、付き合いをやめなければならない。だから「村八分」のような陰惨な事態も起きてくる。「まれびと」の文化の光と影、ですね。そういうことを、「異人論」の小松和彦氏なんか、なーんもわかっていない。
ともあれ、「まれびと」の文化にとって、「正当に賓客と称すべき貴人の光来」なんて関係ないのです。