ネアンデルタールの女が抱えていたヒステリーのもうひとつのわけについて書きます。
ネアンデルタールの寿命は、ほとんどが30代で尽きていたらしい。それは、彼らが早く成長して早く老化する体質であったためだとか。
寒冷地においては、早く成長しないと乳幼児期を乗り切れない。その厳しい環境の影響をいちばん強く受けるのは、乳幼児です。
ネアンデルタールの乳幼児は、ゆっくり成長して長生きするネオテニー体質のホモ、サピエンスの乳幼児に比べると、ほぼ倍の速さで成長していったといいます。それでも、ネアンデルタールの乳幼児の死亡率はかなり高かったようで、これまで発掘されたネアンデルタールの骨の約半数は、子供のものであるのだとか。
もともと子供の骨は組織が弱くて残りにくいといわれているのに、それでもそんなに出てくるということは、ネアンデルタールは子供を埋葬することにとても熱心だった、ということを意味します。
そして彼らの寿命が三十代で尽きていたのであれば、ほとんどの子供が、成人する前に親の死を体験したはずです。よちよち歩きのときに親が死んでしまうということも、珍しくなかったことでしょう。彼らが家族を持たずに群れ単位で子供を育てていたというのも、そういう事情もあったにちがいない。
彼らの生存は、つねに死とともにあった。子供時代に親の死を体験し、親になってもまた、何度もわが子の死を見つめなければならない。
また、家族的小集団で移動生活をしていたホモ・サピエンスと違って大きな群れをつくって定住していたということも、彼らの死の体験を、より切実なものにしていた。
まず、ただでさえ寿命の短い人たちが大きな群れで暮らしていたのであれば、人の死と出会う機会は、さらに多くなる。
しかも、移動生活をしていたホモ・サピエンスなら、死体を置いてほかの場所に移動してゆくということもできるが、定住していたネアンデルタールは、死者とともに暮らしてゆかねばならない。
ネアンデルタールが歴史上いちはやく埋葬を始めたのも、そういう状況があったからでしょう。
彼らは、死を見つめることからも、死者からも、離れることができなかった。
それに氷河期なら死体はそうかんたんに腐らないから、子供をなくした母親は、いつまでもそばにおいておこうとしたでしょう。
しかし、それでは、男が困る。泣いてばかりいて発情しない女は、セックスの相手にならない。
女だって、子供がもう生き返らないことは知っているが、それでも腐ることもなくもとのままの姿をとどめているなら、あきらめきれない。
あきらめさせてやるにはもう、洞窟の中に埋めてやるしかない。子供は、どこにも行きはしない。しかしもう、生き返ることもない・・・そういう感慨をこめて、彼らは、洞窟の土の中に子供を埋めたのではないでしょうか。
ネアンデルタールが洞窟の中に死者を埋めたということは、死ねば天国に行くとか地獄に行くとかという死生観を持っていなかった、ということを意味します。あくまで死者とともにあろうとしていた。これは、日本古来の神道と似ています。日本の神道もまた、天国や地獄という、救済や脅しの世界観はつくらなかった。いい人も悪い人もみな、果てしない闇の「黄泉(よみ)の国」をさまよっているだけだ、と。それはつまり、逆説的に、どこにも行かない、といっているのと同じなのです。
ネアンデルタールの正体」(朝日選書)は、研究者たちがいかに中途半端なことしかか考えていないかということが、よくわかる本です。そこでの最後の章を担当した研究者は「ネアンデルタールは、ホモ・サピエンスに比べて知能が劣っていたから、埋葬するときの表情は、悲しいようなそうでもないような微妙な顔をしてただろう」といっています。
ちょいとひねった解釈を披露したつもりかもしれないが、こんなもの、ただの無知をさらしているだけです。
そのときネアンデルタールの女は、おもいきり慟哭していたに決まっている。泣いて泣いてどうしようもなかったから、洞窟の土の下に埋めたのだ。
ネアンデルタールの女の感情の激しさと感受性の豊かさ、それはもうホモ・サピエンスの比ではなかったははずです。彼らは、そういう「嘆き」がより豊かに生まれてくる世界を生きていたのです。

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