ヨーロッパ女のヒステリーはネアンデルタール以来の伝統である、ということを、もう少し考えてみます。
前回は、ヒステリーを起こす契機のひとつとして、寒さからくる頭痛を挙げましたが、もちろんそれだけではない。
なぜ彼女らは、感情の起伏が激しかったのか、
けっきょくそのことのもっとも大きな契機は、人間関係にあるはずです。
精神の病は、共同体による圧迫からもたらされる、という言い方をされることもあるが、それだってまあ人との関係の問題です。他者との関係がスムーズであれば、頭は混乱しない。
そして人格とか性格とかいう問題を考えるとき、近頃はよく「遺伝子」という概念を持ち出して、それであらかた答えが出てしまっているように考えられる場合が多い。
たとえば、感情の起伏が激しい遺伝子を持っていたからだ、と。
しかしこれは、正確ではない。
人格や性格のほとんどは後天的なものでしょう。
子供は、親のレプリカではない。こんなこと、当たり前のことです。二人の親の血を掛け合わせて生まれてきたのだから、どちらとも違う。二つの血を別々にして持っているのではない。
親の血なんか関係ない、しかし親から育てられたという事実は、けっして軽くない。東大を出た親が息子のできの悪さに「俺の血を引いた子なんだから、そんなはずない」といっても、そんなの関係ない。つまるところそれは、親の育て方の問題なのだから。
また子供のほうにしても、自分の能力や人格が「遺伝子」で決まっていると、いい気になったり不安になったりしているが、それもまた関係ない。親とは違う血で、親とは違う人生を生きているのだから。
自分の人格が遺伝子で決まっていたら、生きてゆく張り合いなんかないではないか。
何もかも遺伝子で決まりだなんて、一種のニヒリズムだと思う。
あるロマン主義小説に登場する貴婦人は「明日何が起こるかわかっていたら、誰が明日まで生きていてやるものですか」と言ったが、自分のことだって、わかっているなら誰が自分と付き合ってやるものですか、ということになる。
百万人いれば、百万の人格がある。それは、百万の人生があるからだ。
たとえば、女二人の姉妹の家ではたいてい妹のほうが感情の起伏が激しい。そうして「同じ親から生まれて(遺伝子的には大して違いないのに)、どうしてこうも性格が違うのだろう」という感想をまわりが抱くことになる。
このとき姉と妹との決定的な違いは、遺伝子ではなく、生まれてからの人間関係にある。
姉は、妹が生まれるまでのしばらくのあいだ、親と自分だけの安定した関係の中で育つが、妹は、生まれたときからすでに、姉と親と自分というやっかいな三角関係中で育ってゆかねばならない。そうして嫉妬や疎外感という、子供が味わわなくてもいいような感情を味わいながら、喜怒哀楽の振幅を大きくしてゆく。
大きな群れを形成していたネアンデルタールは、家族的小集団で行動していたアフリカのホモ・サピエンスよりも、はるかにややこしい人間関係の中におかれていた。なにしろネアンデルタールは、それまでの人類史上最も大きな規模の群れを維持するという実験的な歴史を歩んできたわけだから、そこでの人間関係でうまく感情をコントロールできない場面は、さまざまにあったはずです。
とくに女は、狩というストレス発散の場がなかったし、生理的にも、男に比べて体温や体調の変化ははるかに大きい生き物です。すなわちネアンデルタールによる大きな群れを維持してゆくという実験のプレッシャーは、女にもっとも強くのしかかっていた、ということでしょうか。
しかしネアンデルタールの女をヒステリーにする契機は、まだまだこれだけではない。
長くなりすぎたので、続きは次回に、ということで。

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