閑話休題・「5万年前」

「5万年前」という本が出回っています。ゲノム研究のことは僕も気になっているから、この本を読んで感想を語りたいところですが、そうしたら「まれびと」どころではなくなってしまうから、今は読むのを我慢しています。
ところでこの本の新聞広告のキャッチコピーは、「このとき人類の壮大な旅が始まった」というものです。これがこの本の実質的な内容なのか、コピーライターが勝手にでっち上げただけなのかはよくわからないのだけれど、まったく、何をくだらないこといってやがる、という感じです。
5万年前の原始人がそんな「壮大な旅」をするはずないじゃないですか。
原始人の集団が、その先に何があるのかわからないまま道なき道をどこまでも分け入ってゆくだなんて、彼らにそんな能力や意欲があるはずないじゃないですか。
人間は、実現可能なことしか願わない生きものです。現代人がやれアマゾンだのヒマラヤだのといっているのは、アマゾンやヒマラヤがあることをすでに知っているからです。何が「好奇心」だ。ただのスケベ根性じゃないか。
人間は、未知(非知)のものなど知ろうとはしない。知らないものを知ろうとするなんて、論理矛盾です。知ろうと思いようがないことが「知らないこと」なのだ。われわれはただ、出会って、知ってしまうだけだ。スピノザもいっている。歴史に「原因」などない、「結果」があるだけだ、と。
われわれは、すでに知っているからそこに向かって旅をしているだけなのだ。
アマゾンやヒマラヤのことなど、ちゃんと知っているじゃないですか。死の世界だって、ちゃんと知っているつもりだから、自殺するのでしょう。死の世界のことをまったく知らないで自殺した人がいるのなら、お目にかかりたいものだ。そしたら僕も、こんなくだらない人生とさっさとおさらばできるかもしれない。
近ごろの、死の世界がどうちゃらこうちゃらとわめいている「スピリチュアル」ブームなんて、ほんとに愚劣だと思う。おまえらが自殺を煽動しているのだぞ、と僕はいいたい。
とにかく原始人は、自分の視界の外の世界をいっさい知らなかったのです。誰もが、この視界の中にあるものだけが世界のすべてだと思っていたのです。
「壮大な旅」なんかするわけないじゃないですか。
べつに「旅」をしようとなんか思わなくても、群れから追い出されたり逃げ出したりするものは生まれてくる。そういうものたちによって、群れのテリトリーのすぐ外に新しい群れができていっただけでしょう。
なぜ新しい群れになっていったかといえば、男も女も「出会い」を求めているからだ。「出会い」をもとめて群れをとび出すのだし、出会った相手を迎え入れるから、その新しい小集団がだんだん大きな群れになってゆくのでしょう。
男は、女の中に入ってゆこうとするし、女は、男を迎え入れようとする。原始人の行動はたぶん、そういう原理にしたがって決定されていた。ちんちんとおまんこの問題です。「好奇心」でも「食」の問題でもないのだ。
知らない土地に旅をしようとしたのではなく、あそこに人が住んでいるとわかったときに、会ってみたくなったからそこまで行っただけのことでしょう。
たとえば、みんなで狩に出かけ、俺たちはもう帰らない、ここで暮らす、といい出すものたちがいたとします。すると近在の群れの者たちは、そこに煙が上がっているのを見て、彼らに会いたいと思う。そうやって、あくまで視界のうちにそれをとらえるから、その小集団がやがて新しい群れになってゆくことができる。そんな行動が無限に積み重なって、人類拡散が実現していったのだ。
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したがって、寒い寒い5万年前の氷河期に、アフリカのホモ・サピエンスがネアンデルタールの住む北ヨーロッパに旅していったということもありえない話です。遺伝子だけがリレー式に伝播していっただけでしょう。北ヨーロッパネアンデルタールは、アフリカのホモ・サピエンスに出会ってなどいないのだ。
この本では、ホモ・サピエンスが「攻め入った」と言っているらしいのだが、ほんとにそんなことをしたら、かんたんにネアンデルタールに蹴散らされるだけでしょう。ネアンデルタールのほうが、闘争心もチームワークも体力も、ずっと豊かにそなえていたのです。何をばかなことを言ってやがる。ネアンデルタールはそうやってマンモスやオオツノジカなどの大型草食獣に命がけの狩を挑んで暮らしていたし、アフリカのホモ・サピエンスはといえば、小型の草食獣を投げ槍でしとめたり魚を取ったりして暮らしていただけです。両者の石器の違いにもそれが現れています。ネアンデルタールのムスティエ石器は、接近した肉弾戦のための頑丈なものだし、アフリカのホモ・サピエンスのそれは、あくまで投げ槍用の細長く繊細なかたちをしています。
ネアンデルタールは、縄文人が海に閉じ込められていたように、彼らもまた氷河期の厳しい気候に閉じ込められていた。だから、男たちはむやみに歩き回って狩りをしたり、行き倒れになった草食獣の死体を捜したりしていた。氷河期の北ヨーロッパでは天然の冷蔵庫状態だから死体は腐らないし、彼らじしんだって歩き回れば体は温まる。
そして女たちも、男に抱きしめてもらわないと寒くて寝られなかったし、そんな環境だから乳幼児の死亡率が高くて群れの個体数を維持するためには、つねに妊娠と子育てを繰り返していなければならなかった。
ネアンデルタールが洞窟の中に乳幼児の死体を埋葬していたのは、それによって女の気持が落ち着いてスムーズに性欲が回復するからか、あるいはそうでもしなければ女のヒステリーが治まらなかったからでしょう。つまり、死んだ子供を抱きしめて離そうとしなかった。何しろ、つぎつぎに乳幼児が死んでゆく環境だったのだから、女のヒステリーはもう、何万年何十万年も受け継がれていった種としての属性だったにちがいない。今でも、ヨーロッパの女にその痕跡は残っているはずです。
5万年前のネアンデルタールが、シャニダールの洞窟で花とともに埋葬していた話は有名だけど、じつはその30万年前くらいからすでに彼らは洞窟に埋葬するということをしていたのです。人類の埋葬という行為の起源は、死を悼むためではなく、女のヒステリーをなんとかするためだったらしい。
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ネアンデルタールは、寒さに震えるみずからの身体を忘れるために、男たちはむやみに歩き回っていたし、女たちはいつも抱きしめられたがっていた。ヨーロッパの抱きしめ合う挨拶のかたちは、ここから始まっているのでしょう。男たちは歩き回って最後には女の体にたどり着く、そして女はその体を迎え入れる。縄文社会と、ある意味で同じです。
歩き回るという行為は、その果てに「出会い」をもたらす。それにたいしてアフリカのサバンナで暮らすホモ・サピエンスは、そこいらに大型の肉食獣がうじゃうじゃいるから、むやみに歩き回ることができなかった。彼らが移動生活をしていたといっても、毎日歩きつづけていたわけではなく、たまに肉食獣が出没しない決められたコースを移動するだけだった。移動生活をしていたホモ・サピエンスより、じつは定住生活をしていたネアンデルタールのほうがずっと歩き回っていたのです。
おそらく、5万年前から始まった人類拡散の原動力は、ネアンデルタールの、男たちはむやみに歩き回り女たちは抱きしめられたがるという習性にあったのではないかと思えます。つまり、ホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子を持ったネアンデルタールが拡散していったことが起点になっているのではないだろうか。
まずネアンデルタールの遺伝子を持った人種が北アフリカまで拡散してゆき、そこでホモ・サピエンスのミトコンドリア遺伝子を拾った。それが、考古学的に知られている5万年前の状況です。
ミトコンドリア遺伝子は女親からしか伝わらない。そして、人類でもっとも短命なネアンデルタールの遺伝子のキャリアの群れの中に、ひとりでももっとも長命であるホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアがまぎれこんでゆけば、やがてその群れは、すべてがホモ・サピエンスのミトコンドリア遺伝子のキャリアになってしまう。
つまり、ホモ・サピエンスのミトコンドリア遺伝子を持ったネアンデルタールばかりになってしまう、ということです。
ヨーロッパ的人種、すなわち「コーカソイド」は、現在インドから中西アジア北アフリカまで広がって分布しています。そしてインド、西アジア北アフリカコーカソイドは、黒人と白人の中間的な形質を持っており、北ヨーロッパの白人は、黒人とは似ても似つかない。北ヨーロッパの白人は、ネアンデルタールの末裔なのだ。ただ、この5万年のあいだに、ホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子は世界中に行き渡ったということ、それだけのことです。それは、人類の体の中で、長命な遺伝子が短命な遺伝子を駆逐していった、というだけのことです。べつに、人が人を駆逐していったわけではない。最初に、境界あたりで混血があった、というだけのことです。北ヨーロッパにおいては、混血すらしていない。
人類拡散は、ネアンデルタールのようにむやみに歩き回ったり、群れを飛び出そうとしたり、男に抱かれたがったり、そういう習性が世界中に伝播していったからであって、アフリカのホモ・サピエンスのような部族ネットワークからけっして出ようとしない習性が世界中に伝播してゆくことによって実現するということは論理的にありえないのです。
サバンナの黒人女と、北ヨーロッパの白人女と、どちらが男に抱かれたがる欲求が強いか。一夫多妻制の社会で毎日セックスしないでもいられる黒人女と、毎日でも一日中でも男に抱かれていたい白人女。女がそういう気持になってくれないことには人類拡散は実現しないのです。女がそういう気持になってくれないことには、男だって行くところがないのです。女のそういう欲求が、拡散のダイナミズムを生んだのだ。
男たちは女のいるところに出かけていっただけなのであって、好奇心とやらで「壮大な旅」を計画したのではない。
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そのとき原始人は、「まれびと」たる他者と出会おうとし、迎え入れようとした。それだけのことです。ちんちんとおまんこの問題です。知らない土地に対する「好奇心」とか「壮大な旅」とか、そんな低俗な物語などなかったのだ。
人間は、知らないことを知ろうとはしない。実現可能なことだけを願う。どんな新しい行動も、過去の記憶をもとにして起こされる。つまり、この生の根源的ないとなみの痕跡を持っている、ということです。
あなたたちは、そうやって「壮大な旅」とやらのロマンに浸りたいのかもしれないが、僕だって、そん旅など一切なかったのだということの根拠を、それこそ素手で土を掘るような思いをして探っていったのです。そうかんたんには譲れない。
まあいい、いずれこの本とは決着をつけようと思っています。