学びたいこと

都知事選が終わりました。

もちろん無残な結果でした。

あんなにもいかがわしい人間がのうのうとのさばっているこの社会のしくみというのはほんとになんなのでしょう。

小池百合子がいかがわしいのは小池百合子の勝手だけど、それにうんざりしない現代人の心というのは、いったいどうなっているのでしょうね。

小池百合子がいかにいかがわしい人間かということはみんなわかっているくせに、それでも、小池百合子に入れておけば自分の人生は安泰だという、その自分の損得勘定を最優先させるこずるさというかエゴイズムというか、ほんとに世も末だと思います。

小池百合子に騙されたんじゃない、わかってて投票したのでしょう。

 

山本太郎だって、がっかりです。

たったあれだけの票しか取れなかったということは、彼や彼のまわりのスタッフたちの戦略が、何か決定的に間違っているのでしょうね。

たぶん、人間の集団性の本質というものがわかっていないのでしょう。

こうなったらもう、「れいわ新選組」という党名をみんなに差し出し、自分は裸一貫で出直せ、といいたい気分です。

まあ言いたいことは他にもたくさんあるけど、こんなところで言ってもしょうがないからやめておきます。

 

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僕は右翼も左翼もあまり好きではないし、そもそも政治などというものに興味は持ちたくありません。でも、文明社会で生きているかぎり、だれだってまったく無関心でいるということもできない。

言い換えれば、人間は政治に無関心でいられるのが、一番の幸せなのでしょうね。

 

政治のことであろうとあるまいと、学ぶことのよろこびが人を生きさせる、ということはあるように思えます。

生涯学習などといって、今どきの多くの老人が学びたがっています。

出世の望みも強くなる望みも美しくなる望みも快楽をむさぼる望みも持てない身になれば、あとはもう学ぶことのよろこびを求めるしかないし、学ぼうとする望みは生まれたばかりの赤ん坊のときから続いている人の一生の通奏低音だともいえます。

 

政治家のように死ぬまで成り上がろうとする上昇志向で生きてゆくのは、まああまり健康的な人生だとはいえないでしょう。

そのあげくに途中でぽきんと折れてぼけ老人になってしまったりする、ボケないためには上昇志向を生き続けるしかない、ということでしょうか。

 

生涯学習なんてあまり好きな言葉ではないけど、やっぱり学ぶことのよろこびが人を生かしているということはあるように思えます。

生きようとする欲望が人を生かしているのではない。生きようとする欲望は、そのまま成り上りたいという欲望になる。

それに対して学ぶことは、「もういつ死んでもいい」という勢いですることです。超一流の研究者とは、そういう勢いをだれよりも豊かに持っている人のことです。

山本太郎だって、そういう勢いで政治活動をしています。

 

生まれたばかりの赤ん坊はみな、「もういつ死んでもいい」という勢いで生きています。

人間の赤ん坊は、ほかの動物の赤ん坊に比べると超未熟な状態で生まれてきます。それは、明日も生きてある保証がない、ということです。

だから「もういつ死んでもいい」という勢いを待たなければ生きていられないし、その勢いで彼らは新しく出会った世界のことについて学ぼうとしています。

つまり人類は、歴史の無意識として、「もう死んでもいい」という勢いで学ぼうとしてゆく習性を持っている、ということです。

 

「学ぶ」とはどういうことでしょうか。

本に書いてあることをそのまま記憶すれば、あなたはそれで満足ですか。

「学ぶ」とは、「なんだろう?」と問う態度のことです。そして、ひとつのことを知れば、そこからさらにいくつかの疑問が生まれてきます。

そこには、「記憶することの満足」とか「達成感」のようなものはありません。

「学ぶ」とはひとつの「道」であり、「学び続けること」です。満足とか達成感をため込んでゆくことではなく、「なんだろう?」という欲求不満を紡ぎ続けることです。

 

こんなにもいかがわしい政治経済のシステムがまかり通ったり、あんなにもいかがわしい人間たちがのさばったりする世の中であっていいはずがない。どうしてこんなにもどんよりとした世の中になってしまったのでしょうか。

人間なんか、他愛なくときめいていればいいだけなのに。

 

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というわけで僕はまだ、ユーチューブをやってみたいと思っています。

先日家族に話したら、恥ずかしいからやめてくれ、と大反対されました。

こんなしょぼくれたジジイがぼそぼそ話している動画なんて誰も見ないだろうが、もし見られたたら恥さらしもいいとこだ、というわけです。

 

そりゃあそうです。それでも、人に聞いてほしいことがいっぱいあるわけです。

日本文化論からはじまって、最終的には直立二足歩行の起源からネアンデルタール人までの古人類学のことは世界に向けて発信したいのです。

今どきは英語に翻訳したテロップを入れることもかんたんにできるそうですね。

この国で古人類学のことなどあまり一般的ではないが、考古学や文化人類学の歴史が古い欧米ではもっとたくさんの人が興味を持っていると聞きます。

 

いずれにせよ本に書いてあることなら僕があらためて言うこともないけど、書いてないことで僕の腹にたまにたまっていることがたくさんあるのです。

僕の言うことをヒントにして本格的な研究に取り組んでくれる若い人が、この世界のどこかにいるかもしれないじゃないですか。

 

こちらはしょぼくれたジジイだからこそ、残された時間はあとほんのわずかです。

聞いてもらいたいことがいっぱいあるのです。

 

さて、どうなることやら。

今、話す原稿を書き貯めています。

とりあえず3か月は毎日発信できるくらいの量を書き溜めて最初に準備しておかないとそのあとも続かないだろう、などと考えたりしています。

ようやく更新

更新が久しぶりになってしまいました。

この数か月、コロナのことしか書いてはいけないような強迫観念がずっと続いていて、だんだん書くのが面倒になってきてしまいました。

僕なんかもう、いつ死んでしまっても文句を言えない身だし、とくにコロナのことを書きたいというわけでもないのに、なんだか知らないが書かなければならないように責められている気分でした。

 

コロナ騒ぎは終わったのか。まだ終わっていないのか。

終わった後の世の中は、変わるのか。変わらないのか。

いったいどうなるのでしょうね。

 

アフターコロナの時代はどのようにして活性化してゆくのでしょうか。

「祭りの賑わい」は、そうかんたんには戻らないでしょう。

そして、「自粛警察」騒ぎをはじめとして、人と人の関係がどんなに荒んでいってしまっているかということを、あらためて思い知らされました。

われわれは、おそらく縄文以来の伝統である、日本人特有の他愛なくときめき合い助け合うという関係を取り戻すことができるでしょうか。

 

今どきは、ネットでも書籍でも、「ハウツーもの」とか「自己啓発もの」とかの、いわゆる「役立つ情報」ばかりが求められる時代になっています。

それはそのまま人と人の関係が荒んでいることを意味しています。

コストパフォーマンス、というのでしょうか。上手に生きてゆくためにはどうすればいいかとか、何が正義かとか、そんなところで競争したり争ったりすることばかりで世の中が動いてきたのでしょう。

それをどう克服してゆくかということが試されている時代なのでしょうか。

 

ネトウヨどうしとか、オタクどうしとか、市民運動家どうしとか、それ以外のところでも、今までは妙にカルトっぽくて予定調和的な集団がたくさんつくられていたのだろうが、それらが解体され、これからはもっとニュートラルな関係のコミュニティが模索されてゆくのでしょうね。

ただもう他愛なくときめき合っているだけの関係で集まっている場があればいいのに、と思ったりします。

 

じつをいうと、今ちょっとユーチューブをはじめてみようかと思ったりしています。

こんなしょぼくれたジジイが人前に顔を晒してたどたどしくしゃべってみても、ただの恥さらし以外の何ものでもないのだけれど、日本文化論や古人類学のことに関して、人に聞いてもらいたいことがたくさんあります。無限にある、といってもいいかもしれません。

 

家族からは、恥ずかしいからお願いだからやめてくれ、といわれるのでしょうね。

 

今すぐ決心のつくことではないが、なんとなくそんなことを考えたりしています。

「あいまい」の文化

この国の政府のコロナ対策は、いぜんとして迷走を続けている。民衆の態度だって、僕自身も含めて「なんだかなあ」という感じで、いまいちはっきりしない。日本人のダメなところが一挙に噴き出している、ということだろうか。

自粛のための補償など何もせずに自粛を「要請」してくる。従わない者には「同調圧力」を演出・醸成して脅しにかかる。うんざりするほど醜悪な景色だが、「空気」というあいまいなものだけで世の中が動いてしまう文化風土があり、政府も民衆も無意識のうちにそういう思考態度になってしまう。だれがどうだという以前に、権力社会も民衆社会も、みんな「空気」に動かされている。あんな愚劣な男に7年も8年も総理大臣にさせてきたこの国の「空気」がある。

決定してしまうよりも「あいまい」なままにしておきたい歴史風土がある。

「決定する」のは文明社会の文化で、原始社会には、そのための善悪とか正しいとかまちがっているというような基準はなかった。それはまあ宗教もなかったということで、人類は文明社会(国家)が生まれてくることによって、法制度とか宗教の教義とかを物差しにして善悪とか正しいかとか間違っているかというようなことを考えるようになった。

日本列島の精神風土の伝統においては、そういう基準がきわめて「あいまい」である。それは日本列島の文化の伝統が原始的であることと「神」という絶対的な基準を持っていないことを意味する。

原始時代に宗教などなかった。日本列島の縄文時代にも宗教はなかった。それは、縄文社会に都市集落などなかったし、文明国家の法制度も文字も戦争もなかった、ということが証明している。その1万年の歴史が伝統文化の基礎になっているから、いまだに宗教心の薄い民族のままなのであり、なのに今どきの歴史家たちはどうして縄文社会が原始宗教に支配されていたなどと語りたがるのだろう。この国の歴史家であろうと世界の歴史家であろうと、原始時代を原始宗教で語りたがるのは、ほんとに愚劣だ。

日本人は、歴史とともに宗教意識が薄くなってきたのではない。明治以降の国家神道に支配されていたときこそ、日本人が史上もっとも宗教的で迷信深い時代だったのだ。そうして太平洋戦争が終われば、憑き物が落ちたように元に戻ってしまった。日本人にとって宗教なんてたんなるおもちゃであり、おもちゃとしてどんな宗教でもかんたんに受け入れてしまうし、受け入れながらおもちゃとして骨抜きにしてしまう。

日本人は、縄文以来の伝統として、心の底には宗教意識を持っていない。日本列島に入ってきた宗教は、すべておもちゃとして「あいまい」なものになってしまう。

それに対して欧米人は「神」に対する意識を心の底に持っているから、「あいまい」なままにしておくことを許さないし、それを持たない日本人は「あいまい」なままにしておこうとする。

東京裁判A級戦犯になった戦時中の国の指導者たちは、口をそろえて「自分は積極的に戦争をしたかったわけではないが、そのときの会議や国民の声のなりゆきで賛成するしかなかった」というようなことをいっている。それはたぶん、彼らの率直な述懐で、それが日本人なのだ。

「あいまいさ」が伝統文化の民族に文明社会の善悪や正邪の物差しを持たせると、ろくなことにならない。そうやって「こんなときに営業をするパチンコ屋は許せない」とヒステリックに騒ぎ出す。

 

「あいまいさ」は、日本文化の伝統である。だからよくないということもあれば、だからこそ豊かなニュアンスが生まれてくる、ということもある。

この、日本文化の「あいまいさ」について考えてみたい。そしてそれは、日本文化の原始性について考えることでもある。

文明社会は「あいまいさ」を排除して、善悪や正邪や意味や価値を決定してゆく。そのための制度として、「法」が生まれ「宗教」が生まれ「文字」が生まれてきた。

すべてのものごとにはいい面もあれば悪い面もあるし表もあれば裏もある。文明社会は、「あいまいさ」を排除して意味や価値を決定してゆくことによって、そういうさまざまニュアンスを見失うことになっていった。

しかしわれわれは、親しい相手とは社会の決まりを超えた関係を持つことができるし、文字に支配されたり文字に頼ったりすることから離れて音声の言葉だけで会話をする習慣も持っている。そのときは、どんなありふれた言葉でも、その場の「空気」、すなわちその言葉や音声の「ニュアンス」だけで大きく相手の心を動かしたりする。つまりそれは、たとえ現代人であれ、だれもが原始的な部分を残している、ということだ。

とくに日本文化は、原始的な部分を色濃く残している。

西洋の知識人のほとんどは「日本文化は原始的である」という認識を持っているのだが、おそらくそれは当たっている。そこから「われわれが失ったものがこの国には残っている」と好意的に見てくれる人もいれば、侮蔑的な視線を投げかけてくる人もいる。

ロラン・バルトは、日本文化の印象を語った『表徴の帝国』という著書で、「日本人の視線は、他者を傷つけることも責めることもないとてもあいまいで空虚なもので、それによって集団の調和が保たれているのだろう」というようなことをいっている。そしてこれを読んだある日本人がヨーロッパに行って、知り合ったばかりの女性に「試しに私の顔を20秒間じっと見つめてみてくれないか」と頼んでみたところ、その視線のあまりの濃密さにどぎまぎして見つめ返すことができなくなってしまったのだとか。

僕は若いころ、女房から「どうして私のことをいつもそんな、物を見るような目で見るのか」となじられたことがある。そんなことをいわれてもこちらは日本人で、愛する視線も憎んだり怒ったりする視線も持ち合わせていない。

氷河期が明けて大陸から切り離されてしまった日本列島では、縄文時代の1万年を原始時代の「あいまいさ」の文化をそのまま洗練させてゆく歴史を歩んできたし、現在においてもなおその原始性を色濃く残している。

人類は、文明社会の法や宗教や文字を持ったことによって、何を獲得し、何を失ったか?

 

 

日本文化のあいまいさはいたるところに見つけることができるが、とりあえずここでは「言葉」の問題について考えてみよう。

「かみ」というやまとことばについて考えてみよう。この言葉ほどあいまいな日本語もないだろうと思えるし、だからこそ日本語=やまとことばの本質を考える上でのもっとも重要な言葉だともいえる。

もちろん世界中の人間が抱いている「神」のイメージそのものが千差万別で、限りなくあいまいだ。それは、たんなるフィクションにすぎない。真実であると信じられているフィクションにすぎない。それはともかくとして、キリスト教ユダヤ教イスラム教で語られる「神(ゴッド・エホバ・アラー)」という言葉は「神」以外の何ものも意味しないが、やまとことばの「かみ」は、「神」以外のさまざまな意味にも使われている。尻を拭くトイレットペーパーだって「紙=かみ」なのだ。われわれは「かみ」という言葉に対する畏れや執着などあまりない。平気で「<かみ>で尻を拭く」ということができる。

やまとことばの「かみ」は、もともとたんなる「言葉」にすぎない。べつに「神」をイメージして生まれてきた言葉ではない。そしてこのことは、仏教とともに「神」という概念が伝わってきた以前の日本列島には「神」も「宗教」も存在しなかったことの重要な状況証拠になっている。

縄文・弥生時代に「神」も「宗教」も存在しなかった。それでもおそらく「かみ」という言葉はあった。それだけのこと。

飛鳥時代のころに仏の弟子であるらしい「神(しん)」を知った民衆は、自分たちも仏教に対抗する「宗教(のようなもの))=「神道」をつくろうとして、とりあえず「神」を祀り上げることにした。

「神」とは、もともと「仏」に対抗していた存在だから、それがいいだろうということになった。そして、「仏(ぶつ)」を「ほとけ」と言い換えたように、「神(しん)」も「かみ」と言い換えることにした。

なぜそう言い換えたかといえば、「仏」も「神」も「天空=上(かみ)」の存在だからだろうか。原初の人類は二本の足で立ち上がったときに、頭上の青い空を見上げた。それ以来「天空=上(かみ)」に「遠いあこがれ」を抱く存在になった。つまりやまとことばの「上(かみ)」は、とても普遍的で原始的な感性が込められた言葉であり、その語源においては「遠いあこがれ」というようなニュアンスの感慨をあらわす言葉だった。

原初の言葉はすべて、「おや?」とか「へえ」とか「よう」とか「おい」とか「なあ」とか「あーあ」とか「ふーん」とか、感慨のニュアンスをあらわす音声だった。そこから進化発展して「かみ=遠いあこがれ」という言葉になった。したがってそれはもともと「感慨のニュアンス」をあらわすものだったから、何も「天空=上(かみ)」でなくとも、「遠いあこがれ」の対象であるのなら何でもよかった。

「懐かしい昔」のことも「上(かみ)」=「かみよ(上代・神代)」といったし、昔の人すなわち死んだ人のことも「かみ」といった。

古事記」とは「神の物語」であると同時に「昔の人=死んだ人=先祖」の物語でもある。そこでは、天皇や貴族の先祖を確定し記述している。とすれば、「かみ」とは「人」のことだ、ということになる。

まあ「かみ」はたんなる言葉なのだから、何でもいいのだ。「鰯の頭」だって「かみ・ほとけ」になる。

「おかみ」といえば、権力者のことだし、家の女房や旅館・料亭の女主人のこともいう。日本文化の伝統においては「女」は「かみ」である、ともいえる。男が家の中心であったとしても、女は隠れたところからその男を支配している。

自分の女房のことを「うちの山の神」などといったりもする。これは、連戦連勝のヤマトタケルが最後に侮っていた滋賀の伊吹山の神である白い猪に敗れて死んでしまった、という古事記の話からきていて、それくらい女房は強くて怖いし、粗末に扱ってはならない、という教訓も込められているのだろう。

「噛(か)む」ことは食べ物の「味=本質」に気づく体験である。だから「森羅万象の本質」のことも「かみ」という。そして「かむ」は「組み合わさる」ことでもある。上の歯と下の歯を組み合わせて「かむ」という行為が成り立っている。すなわち「かみ」は、山や森や石と「組み合わさる」ようにしてそこに宿っている。

そんなさまざまなニュアンスを思い浮かべながら、いつとはなしにそれを「かみ」というようになっていった。もう「かみ」というしかほかに名付けようがない、と思うようになっていった。そうしてもともとあいまいで多様なニュアンスの概念だから、そのなりゆきによって「神(しん・じん)」という読み方を使うのも、たいして抵抗がなかった。

 

ともあれ「神道(しんとう・じんどう)」という漢字読みの名称が生まれてきたのは平安時代のころからだし、それ以前には名称などなく、宗教として名乗ってもいなかった。ただそのような、それこそあいまいで混沌として原始的な「祭りの賑わい」のイベントがよく行われていた、というだけのことだ。

神道の「かみ」は、仏教伝来以後に編纂された「古事記」によって生み出されていったのであり、「それ以前に存在していた」といわれる「かみ」も、「それ以前に存在していた」という前提のもとに古事記によって生み出されていっただけのことだ。まあ仏教伝来から古事記の編纂を思い立つまでに150年くらいたっているのだから、そのあいだにさまざまな「かみ」が日本列島の各地で生み出されていった、ということはある。ともあれそれ以前には、「かみ」という言葉はあっても、「神」という宗教概念は存在しなかった。

日本列島はもともと神=宗教が存在しない土地柄で、外来のすべての宗教は「宗教ではない宗教」にして受け入れていった。現在のこの国の宗教なんて、おおむねたんなる習慣行事であって、ほとんどの人がキリスト教徒やユダヤ教徒イスラム教徒やヒンズー教徒ほどの本格的な信仰心を持っていない。

ただ人は、天空の向こうに対する「遠いあこがれ」とともに「超越的」な心の動きをする生きものであり、そのことが宗教に向かうこともあれば、そうでないこともある。たとえば、「死」というものを宗教的に考える人もいれば、哲学的に考える人もいれば、科学的に考える人もいる。また、何かに「ひらめく」とか、どんなにつまらない女(男)でも好きで好きでたまらなくなるとか、そういうことだって「超越的」な心の動きのひとつであり、猿にはない。

この国には、「かみ」はいても「神」はいない。ひらがなの「かみ」には、たとえ「超越的」な思考やイマジネーションが宿っているとしても、宗教=信仰などという文明社会の制度観念ははたらいていない。もっと別の、原始的で無原則的な「あいまいさ」の上に成り立っている言葉なのだ。

そして現在のヨーロッパの知識人の多くは、どうやって宗教を克服するかと模索し続けており、その先に「ポストモダン」があるという。彼らは、日本人の宗教心の薄さを不思議ともうらやましいとも感じており、この日本的な原始性は、宗教心がけっして普遍的な人間性ではないことの証しになっている。

今どきは政治も経済も、集団幻想という一種の「迷信」の上に成り立っている。

われわれ文明社会に生きる者たちは、だれもが避けがたく宗教的制度的な観念に縛られており、それによって社会に適合しているわけだが、無神論者は欧米にもいくらでもいるのだし、宗教的制度的な観念があいまいでいいかげんな社会不適合者という原始的人種がこの世にいることだって、まったく無意味というわけでもあるまい。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』・下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

知識をため込むことと思考をすること

非常事態宣言になってYoutubeを見る人が増えているらしい。このまま続けば配信する側に回る人も増えてくるのだろうか。

僕もこのごろ歴史とか哲学思想の学術系ジャンルをよく見るのだが、読んだ本の解説をしているだけのものが多い。で、売れるか売れないかは、内容ではなく、喋りの能力によるものだったりする。あるお笑い芸人が歴史の解説をしている番組などは、200万人以上のチャンネル登録を獲得してカリスマのように祀り上げられているが、喋りの上手さだけで、その人の個性的な思考など何も感じられない。こちらの心の中に遠慮会釈なくずかずかと入り込んでくるような、あのなれなれしいしゃべり方は、なんだかわざとらしくもあり、どうも苦手だ。とにかく歴史の教科書丸写しのようなないような話の内容で、彼以上の読書量や知見を持っている人はいくらでもいるのに、誰も彼にはかなわない。

しゃべり方のおもしろさについつい引き込まれる。そうやって心をいじくりまわされることが心地よいのだろうか、聞いているあいだ何も考えないですむ。人間はもともと怠惰な生きものなのだ。

今回のコロナウイルス騒ぎで「三蜜禁止」などというお触れが出たりして、人と人の関係のむやみななれなれしさが反省される時代になってくるのだろうか。

たしかに、なれなれしくして相手を思考停止に陥らせるのは上手な「口説き」のテクニックのひとつだし、今どきはなれなれしくされたいさびしがり屋がたくさんいる世の中なのだろうか。愛されたい症候群……それはきっと、現代社会の病だ。

人の心の中なんかわからない。自分が愛されているかどうかということは永遠にわからないし、愛されることの鬱陶しさというのもある。ただ、人間性の自然として「愛さずにいられない」という心の動きが起きているだけのことだろう。「愛し合う」といっても、たがいに一方的な「愛さずにいられない」気持ちを差し出し合っているだけで、「愛されるよろこび」などといっても、愛されている自分に酔っているだけだろう。

つまり、あんなふうにしゃべられると、視聴者は自分が愛されているような心地になってゆくのだろうか。愛されたい症候群というか、自己愛症候群というか、「三蜜禁止」になればそういう心理が満たされなくなってしまい、最近ではそのフラストレーションがあちこちで起き始めているらしい。

満たされなくてもいいのだ。そんな自己愛のらせん階段はさっさと下りてしまったほうがいい。人と人の関係は、つねに「一方的」なのだ。「助け合う」といっても、助けずにいられない気持ちを一方的に差し出し合っているだけのこと。奢られるよりも奢ったほうが気持ちいではないか。人間性の自然・本質においては、「交換」などという関係はない、一方的な「贈与・献身」があるだけのこと。少なくともそれが原始人の集団の関係性だったし、そういう原始性は現代の文明社会を生きるわれわれの中にも残っている。

アフターコロナには、現在の文明社会の高度で複雑なシステムの中に置かれていることに疲れた人々の心に、そういう人間性の自然・本質、=原始性がよみがえってくる……ともいわれている。

「コロナ鬱」というようなことも起きているのだろうか。終わりのない自己愛のらせん階段にはまると、そういうことになりやすい。「三蜜禁止」とは、なれなれしい関係になるな、ということで、自己愛の強い者ほどなれなれしい関係をつくりたがるし、なれなれしい関係になれないことに強いストレス覚え、逆に他者との関係を避けてますます自分の世界に閉じこもっていったりする。いじめとはひとつのなれなれしさであり、集団暴行は集団鬱という自己愛の共同体だ。

まあ、読書に耽溺するのも一種の自己愛だったりする。自分の知識の量が増えたら、人間としてのステージが一段上がったような気分になるわけで、発信者と視聴者がそういう自己愛を共有しているようなYoutubeの番組がある。

 

本を読んでインプットするのはたんなる「記憶」という脳はたらきであって、「思考」することではない。寺山修司は「書を捨てて町に出よう」といったが、それは、本を読む必要なんかない、といっているのではない。本を読んだ後からはじめて「思考」がはじまる、といいたいのだ。

たとえば、その人がカラスについて書いた本を読んだとする。そうすると一般の読書経ユーチューバーはそのままカラスという黒い鳥についてのあれこれを語ってゆくわけだが、本に書かれてあったことを「それは違うだろう」と批判的直観的に反応する人もいて、じゃあどこが違うのかと考えてゆく。あるいは、黒い動物は他にもいると考えたり、さらに黒い動物はなぜ不吉なものの象徴のようにされているのだろうと展開して考えてゆく人もいる。

批判=懐疑あるいは展開、そうやって人の脳のはたらきは「思考」の旅に出てゆく。

しかし今どきの読書系学術系Youtubeには、そういう「思考の醍醐味」を追体験させてくれる番組はほとんどない。

しゃべりがおもしろければ、それでいいのだろうか。情報過多の世の中で、とりあえず手っ取り早くおもしろおかしく情報を収集することができればそれでいいのだろうか。あまり苦労をせず良質な情報を収集してゆく。発信する側も視聴する側も、そういうコスパ主義的志向を共有しているらしい。それはきっと「思考する」という人間性の自然・本質の衰弱だと思えるのだが、それでいいのだろうか。

「思考する」とは知らない世界に分け入ってゆくことであって、彼らのように既存の知識体系にもたれかかってゆくことではない。彼らは変わりたがらない者たちで、アフターコロナには新しい時代がやってくるとは思っていない。インターネットを主戦場にする自分たちがもっと活躍できる時代になる、と思っているだけだろう。

彼らは、既存の知識体系にもたれかかることをやめない。Youtubeをそこに挑戦してゆく場にしようとは思わない。学者であろうとおしゃべり上手の芸人だろうと、アフターコロナでこのゲームへの参加者が増えるということは、自分たちの既得権益が脅かされるかもしれないということでもある。今まで通り知識をひけらかしているだけではすまなくなるとは思わないのだろうか。知ったかぶりのおしゃべり上手が百花繚乱になって、ますますわが世の春を謳歌してゆくのだろうか。

 

このままスノッブな知ったかぶりが幅を利かす時代が続くのだろうか。

孔子の「論語」には次のような一節がある。

人不知而不慍不亦君子乎(不知にして不慍の人、また君子ならずや)

これを、一般的には「人に知られていないことを怒らないのは君子である」とか「知らない(無知な)人を怒らないのは君子である」というような解釈がなされているが、これはまったく違う。

「不知」とは、この世には知りえないことがあるのを深く自覚すること。

「不慍」の「慍」は仏教でいう「増上慢」のことで、この場合は「知ったかぶりをしない」とか「虚勢を張らない」というような意味。

ゆえに「この世には知りえないことがあるのを深く自覚してむやみに知ったかぶりをしない人もまた君子ではないだろうか」と訳す。

論語における「不知」という言葉はとても重い意味に使われており、「人に知られていない」とか「無知」とか、そんな安っぽい意味ではない。いわば哲学者としての孔子の魂から絞り出された言葉であり、同時代のギリシャソクラテスも同じことをいっている。そのころの中国もギリシャも、国家文明の発達とともに無文字社会から文字社会へと急速に移行しつつあった時代で、まあ今どきの読書系ユーチューバーのように知ったかぶりをする人間が増えてきていたわけで、そんな時代の風潮に対して孔子ソクラテスも「それでも人が永遠に知りえないことがある」と説いたのだ。

「不知」と「不慍」……この「不」という言葉は、とうぜん後になって「すでにある」ものを打ち消す機能として生まれてきたのであり、人類の「(哲学的)思考」によって生み出された言葉なのだ。「否定」とか「批判」とか「超越」とか、ヘーゲルの「弁証法止揚アウフヘーベン)」を今風の言葉に直せば「オルタナティブ」というようなことだろうか。そうやって批判的否定的に乗り越えてゆくことが人類の普遍的な「知」のいとなみであり、古来から哲学者はずっとそういうことを主張してきた。

知ったかぶりをして読んだ本のことをそのまま解説しているだけでは、「オルタナティブ」も「イノベーション」も生まれてこない。

 

アフターコロナの時代は2年後からはじまる、と言われている。そのころには、人々の生活様式や価値観が大きく変わってくるのだろうか。

変わってくれば面白いと思うが、変わりたくない人がたくさんいるから、はたしてそうなるかどうか。

僕は政治経済のことはよくわからないが、日本文化論や古人類学の通説の多くは変更されるべきだ、と10年くらい前からずっと考えてきた。それらの通説がなぜ間違ったまま変更されないかといえば、多くの研究者が既存の近代合理主義に洗脳された頭で思考しているからだし、既存の情報を収集してまとめるというだけのことしかしていないからだ。「文献にたよるものは文献につまずく」とは小林秀雄の名言だが、多くの研究者がそのようなことばかり繰り返している。

ほんとうの思考は、頭の中をいったん白紙にしたところからはじまる。それが孔子の言う「不知」という概念であり、思考停止こそが思考なのだ、ともいえる。

たとえば、「魏志倭人伝」はただの伝聞情報をもとにした捏造文書である、ということになれば、「魏志倭人伝」の研究者は職を失ってしまう。それが捏造文書である可能性は大いに高いのだが、というわけでそれが学問の世界で認められることはない。学問の世界だってそうした既得権益の上に動かされているから、変更されないまま残されている誤った通説がたくさんある。

インターネットの世界は、その「壁」を打ち壊すことができるか?

アフターコロナのユーチューバーにはそのことを期待したいが、現在活躍している知ったかぶりのカリスマたちでは無理だろう。彼らだって既得権益層でしかない。

現在のコロナ騒ぎによって既得権益がどんどん壊れていっている、と言われているが、政治経済の世界だろうと僕の関心領域の日本文化論や古人類学の学問の世界だろうと、けっきょくその既得権益は頭の中を「近代合理主義」に染め上げられた者たちによって守られている。「近代合理主義」によって積み上げられたがんじがらめのシステムは、実社会の政治経済の世界だけではなく象牙の塔の学問の世界にも浸透している。

新しい時代は、知識優先の「近代合理主義」の「外」に出ることによって現れてくる。資本主義も共産主義も関係ない。ものの考え方感じ方の問題だし、ほんとうに人々が「考える」ということをするようになってくるか、という問題だ。

考えることは、知識の外に出ることだ。それを孔子は「不知」といった。考えることは、知識をため込んで満足することではなく、行方の分からない地平に向かって分け入ってゆくスリリングな体験であり、「たどり着く」ことではなく「歩み出す」ことだ。

孔子はまた「朝(あした)に道を問わば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」ともいった。この「道を問う」ということの一般的な解釈は「悟りを開く」ということになっているのだが、これも違う。「死んでもいい」という境地になれるのなら当然「悟りを開く」ということがあるはずだ、と注釈家が勝手に解釈してしまっているだけのことで、孔子はそんなことはいっていない。「問う」は、あくまで「問う」ということ、「なんだろう?」と思うこと。孔子にとっての「道」とは「問う」ものであって「悟る」ものではなかった。「道」とは問い続ける「過程」のことをいうのであって、到達点のことではない。たとえ百年先まで生きたとしても、そのときもなお「なんだろう?」と問うている。だから彼は「不知」といったのであり、「考える=探求する」という「道」を歩みはじめたらもういつ死んでもかまわない、といっているのであり、それは、この生はつねに「今ここ」が到達点だ、ということでもある。まあ古代の人々は、だれもが明日も生きてあることが保証されていな条件に置かれていたから、そういう「切羽詰まったところに立って生きよ」という話はだれにでも通じたにちがいない。

親鸞や一遍だって「今ここで南無阿弥陀仏と一回唱えればそれでよい」といった。南無阿弥陀仏と唱えることは「道を問う」ことだ。

今回のコロナ騒動を通過すれば、われわれもまたそういうところに思いをいたすことができるだろうか。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

「民衆」とはだれか?

 1

民衆とは愚か存在である。しかしその「愚かさ」の向こうに、この世でもっとも深く豊かな知性や感性が生成している。

このブログの目的というかモチベーションは、十代のバカギャルから東大教授までを対象に問題提起してゆくことにある。

人類学や日本文化論の世界で多くの研究者が依拠している通説に対して「それは違うだろう」と異議申し立てをしてゆきたいし、バカギャルからは学べることが多い。僕は、そのへんの凡庸なインテリに比べたらバカギャルの方がずっと偉い、と思っている。バカギャルは原始人だし、原始人はわれわれ現代人よりももっと確かに人間性の自然・本質をそなえていたにちがいない。そして今どきの人類学者が語る原始人像は、あきれるくらい薄っぺらで陳腐だ。だから、「それは違うだろう」といいたくなる。

ドストエフスキーは「哲学者の語る高邁な真理は、無知な農民だってすでに分かっていることでもある」といった。それはきっとそうだ。無知な農民は、それを言葉にできないだけのこと。とすれば哲学者の仕事は、言葉にできないことを言葉にすることだ、といえる。

原始人だって、現代の哲学者の認識と同じレベルでこの世界や生命の真理=本質を感知しながら生きていたはずだ。ほんとうはだれだって、無意識のところですでにそれを認識している。根源的には、だれが賢いとかバカだということはないし、世間的にはバカだといわれている人間のほうが、よけいな知識・観念のバイアスがかかっていなぶん、じつはもっと深く率直に何かを感知していたりする。

数年前、哲学思想系の知識人である東浩紀が主宰する批評家養成塾というようなサークルがあって、有名知識人を講師に呼んで生徒の優秀作品のいくつかを講評する、というイベントがYoutubeにあげられていた。そのとき、二十代の女子の生徒が『苦界浄土(石牟礼道子)』の感想批評文を提出し、「現在のこの本に対する多くの知識人の評価は<希望>の書というような内容だが、それは違う。ここに書かれてあるのはあくまで<絶望>であり、絶望をかみしめた向こうにしか希望はない」というようなことを主張していた。

これに対して、講師や東浩紀たちは、「あなたの絶望という言葉に対する扱い方は幼稚であり、これではだめだ」というようなことを口々に評していた。

で、そのとき僕は、何を偉そうなことをほざいていやがる、という感じで、ちょっと不愉快になった。

女がいったん「絶望」とか「かなしみ」という言葉を口にしたとき、男はあんまりなめたことをいわないほうがよい。そういうことに関しては、どんな立派な知識人であろうと、男なんかそのへんのバカギャルの10分の1もわかっていないのだ。女は、女であるというそのことにおいて、男よりもはるかに深くその内実を体感している。

もちろん批評文を書くテクニックの問題というのはあるにちがいないが、若い娘に対して「ほんとの絶望というのはあなたがいうほどかんたんなことじゃないんだよ」といわんばかりの、そのしゃらくさい口ぶりがどうにも鬱陶しかった。だったらこちらも、女はみんな、おまえらみたいな尻軽なインテリよりもずっとよく知っているんだよ……といいたくなってしまう。

そしてそれはまあ、現在のこの国の大人の男たち全般の軽薄さと横着さの問題でもあるのかもしれない。

 

この国のコロナ対策において、政府・官僚という権力社会の伝統の愚劣さと醜悪さがこんなにもあからさまに露呈してくるなんて、大きな驚きと嫌悪感とともに、われわれはまったくもって途方に暮れてしまう。死んでしまうのは仕方ないとしても、多くの人々があんな連中に殺されねばならないというのは、愉快であるはずがない。この国の権力社会の愚劣と醜悪さの伝統がここに極まれりという感じだ。

この国の民衆は、さしあたって食うに困らなければ、あんな醜い政権でも許してしまう。今回のコロナ禍によって食うに困る人が増えたのだろうが、それでも今のところはこの国の大多数でもないのだろうし、政府・官僚は「だったら構やしない」と多寡をくくっている。もっとひどい状況にならなければ、あの連中は目が覚めない。

連休が明ければこのままではすまない……といっている人は多い。それでも政府は、なおもごまかしごまかしグダグダとやり過ごそうとするかもしれない。もはや彼らが心を入れ替えることなど当てにはできない。どうにもならなくなって勝手に逃げ出してくれるのを願うしかない。そうしてわれわれは、あの敗戦直後のような焦土と化した景色の中からやり直してゆかねばならないのだろうか。そのとき僕は、生きているのだろうか。

僕は、社会においても個人の人生においても、「どうすればいいのか?」というような問題などないと思っている。「どうなってゆくのか?」という問題があるだけだ。「地獄でなぜ悪い?」というようなタイトルの映画があったが、あってはならない社会もあってはならない人生もないと思っている。うんざりするだけの現在のこの社会だって、それが現実に存在しているかぎり、ひとつの歴史の必然だ。取り返しのつかない歴史の必然だ。人それぞれ、社会それぞれ、せずにいられないことをしながら歴史を歩んでいる。

現在のこの国においてこんなにも醜い政権が生まれてきてしまったのも、すでにそれが存在しているということにおいて、まぎれもなく歴史の必然なのだ。

生まれてすぐに死んでゆく子供を見送るのは、とてもかなしい。死かそれがその子の人生の必然だったのであって、今さら取り返しのつくことではない。

この歴史の流れにおいて、だれの力も信じない、だれの罪も問わない……それが日本列島の「なりゆき」の文化の伝統であり、世界中の原始人の世界観や生命観だったのではないだろうか。原始時代の人類は、それほどに弱い猿だったし、すでにそれほどに高度な思考を持っていた。そしてそれが、究極の未来の人類の世界観や生命観でもあるのではないだろうか。

 

東浩紀は、こういっていた。「これからの思想・哲学は、知識の豊富さだけでも地頭(じあたま)のよさだけでもだめで、歴史に対する<教養>の大切さを見直す必要がある(教養主義の復活)」と。

まあ、現代の浮ついた思想・哲学の世界に対する批判としては、たしかにもっともらしい意見だが、ただ歴史をお勉強してインプットすればよいというようなものでもなく、歴史とどう向き合うのか、という問題もある。

ユダヤ教に対してキリスト教が登場し、天動説に対して地動説が生まれてきたとき、それぞれ既存の千年の歴史を批判し乗り越えてゆこうとする動きがあった。

東浩紀はたしかに現在の薄っぺらな思想・哲学の世界と戦っているが、戦う相手は、歴史そのものでもある。歴史を乗り越えてゆかねばならない。

原始時代は700万年続いたし、それなりに目覚ましい進化もあったが、文明社会の歴史は、わずか5千年にすぎない。そしてそのあいだに目まぐるしく変更され乗り越えられてきたのは、つねに人間性=自然から逸脱してゆく歴史であったからで、つねに人間性=自然によって変更され乗り越えられてきたのだ。したがってそれは、最終的には人間性=自然に還ってゆく歴史である、ということになる。

自然に還ることがいかに困難であることか。そして人は、永遠に自然に還ることを夢見ている。

生きものの誕生と死は、自然そのものである。そのことをよろこびかなしむ感情が人の心から消えてなくなることはない。

なんのかのといっても文明社会の歴史は、民主主義を目指すかたちに収まってきた。それは、権力社会が、民衆がそなえている「(人間性の)自然」によってたえず照射され淘汰されてきた、ということだ。

 

ただ、この国の民衆社会は、権力社会を監視しないという伝統がある。つまり、権力社会とは別の民衆社会独自の自治運営の歴史を歩んできた。そしてそれは、原始的であると同時に、未来的民主主義的なシステムでもあった。つまり、原始的だからかんたんに権力社会から支配されてしまうし、原始的だからこそ高度に未来的でもあった。したがってなんのかのといっていっても、政治的にも文化的にも、民衆社会が先駆けとなって権力社会も変わってきたのだ。

たとえば古代において、漢文が主流の権力社会に和歌の文化を浸透させていったのは、「詠み人知らず」の民衆社会だった。そうして、権力社会においては下層であったはずの、額田王をはじめとする有能な女流歌人が登場してきた。和歌は、民衆社会から生まれ育ってきたのだ。

また、平安末期の武士階級の台頭も、地方の民衆社会の集団性によって押し上げられていったのだし、明治維新だって、まず民衆社会の胎動があったから下級武士が台頭していったのであり、薩長の下級武士はもとより、新選組にいたっては農民が出自の近藤勇がリーダーになったりしていた。

そうして太平洋戦争のみじめな敗戦に打ちひしがれていたこの国がたちまち目覚ましい復興を遂げていったのも、民衆社会のダイナミズムに先導されてのことだった。

この国の民衆社会はたやすく権力社会に支配されてしまうが、同時に、民衆社会の盛り上がりに先導されて新しい時代や新しい権力社会が生まれてくることにもなる。

現在のこの国にあんなにも愚劣で醜悪な政権がのさばっているのも、けっきょく民衆社会の活力が衰退していることにあるのかもしれない。こんな民衆にはあんな総理大臣がお似合いだ、といわれても仕方がない。権力社会に抵抗するのではない。権力社会を置き去りにしてしまうくらい民衆社会が独自に盛り上がっていかなければ、新しい時代は生まれてこない。

 

よりよい時代とは何か、というような議論をしてもしょうがない。人類の歴史は、よりよい時代に向かって流れてきたのではない。「どうなってもいい」というのが基本だから変遷してゆくのであり、それが、直立二足歩行の起源以来の人類の歴史の無意識である。

言えることはただ、最終的には直立二足歩行の起源に向かい、人類滅亡に向かっている、ということ。原初の人類は「う死んでもいい」という勢いで立ち上がったのだし、人類の歴史は「滅亡」に向かって流れてゆく。

原初の人類は、二本の足で立ち上がったときに青い空を見上げ、その「遠いあこがれ」を抱いて歴史を歩みはじめた。その空漠として何もないことへの「遠いあこがれ」、それが「もう死んでもいい」という勢いであり、「どうなってもいい」ということだ。すなわち「死へのあこがれ」……原初の人類は何か目的があって二本の足で立ち上がったのではない。気がついたら立ち上がっていただけだ。

われわれの人生だって、気がついたらこんなしょうもない人生を生きてしまっていただけだし、しかしそれが人類普遍というか、この世の中のほとんどの人の人生のかたちではないだろうか。

まあ、いいこともあれば、悪いこともあった。過ぎてしまえば「何もなかった」のと同じこと。民衆は、そういうことを本能的に知っている存在だから、権力者にたやすく支配されてしまうし、権力者を置き去りにして新しい時代に分け入っていったりもする。原初の人類が二本の足で立ち上がったときのように、新しい時代がどんな時代になるかもわからないまま「もう死んでもいい」という勢いで分け入ってゆく。そういう「愚かさ」こそ人が人であることの証しであり、民衆とはそういう存在なのだし、その勢いで人類史のさまざまなイノベーションが生まれてきたのだ。

民衆とは主体性を持たない有象無象であり、それこそが人間性の自然・本質であり、その有象無象の「祭りの賑わい」に先導されて新しい時代が生まれてくる。したがって人類の集団性が最終的には原始時代の集団性に向かってゆくのは当然のことで、原初の人類は有象無象の「祭りの賑わい」で立ち上がっていったのだ。こんな革命的なことは、有象無象にしかできない。

人類のもっとも豊かな知性や感性は、有象無象の「愚かさ」の中にある。その「愚かさ」は偉大な科学者や哲学者や芸術家の中にもあるわけで、知ったかぶりの中途半端な知識人に「よりよい未来の社会像」なんか説かれても「なんのこっちゃ」と思っておけばいいだけで、彼らの計画する通りの社会がやってくるはずもない。

人は可能なことしか計画できない。しかしイノベーションとは、不可能なことが可能になることである。新しい時代とは、前の時代において不可能だったことが可能になることだ。したがって、「計画」よって生まれてくるのではない。新しい時代は、予期せぬ出来事としてやってくる。

まあ哲学者が言葉にできないことを言葉にする人であるように、計画できない世界に分け入ってゆくのが人の知性や感性であり、凡庸なインテリの「未来の計画」が何ほどのものか。「計画する」とか「予想する」というそのことが凡庸なのだ。

つまり、新しい時代とか新しい知見は「計画=予想」によってではなく、予期せぬ出来事と遭遇する「発見」によってもたらされる、ということであり、それは計画や予想ができない「愚かな」ものによって体験される、ということだ。そして偉大な哲学者や科学者はみな、そのような「愚かな」部分を持っている。

「愚かな」民衆こそ、じつはもっとも深く豊かな知性や感性の持ち主なのだ。その代表選手として、僕は、十七歳のバカギャルを想定している。同じ民衆でも、大人の男の頭の中身なんか、こざかしい観念で汚れ切っている。

 

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初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

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初音ミクの日本文化論』前編……250円

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コロナと直立二足歩行の起源

こんなご時世だからコロナウイルスのことを書かねばという強迫観念は依然として続いているのだけれど、僕に書けることなどたかが知れているから、途方に暮れてしまう。

どうすればいいかとということなどまるでわからないし、これからどんな世の中になるのかということも、僕がいえば、ただの希望的観測になってしまう。

ただ僕自身は、この十年以上、何もかも打ち捨てて精神的にも身体的にも経済的にも「アフターコロナ」の世界を生きてきたという思いはある。一日中家にじっとしていても、知りたいことに向かって思考実験を繰り返していれば、退屈なんかぜんぜんしない。

僕にとっての思考実験とは、パソコンの画面に向かって言葉を置いてゆくこと。そこから「人間とは何か?」とか「日本人とは何か?」ということの思考の、新しい展開や新しい発見が生まれてくる。

寺山修司は「書を捨てて町に出よう」といった。それは、本を読む必要なんかない、ということではない。本を読んだということだけで満足したり自慢したりしてそこで終わっているのではなく、そこから思考や感性が旅立ってゆかねばならない、といいたかったのだろう。

吉行淳之介は、どんな大家や権威の言うことだって何かしらの限界がある、そこに気づかねばならない、というようなことをいっている。その通りだと思う。どれほど尊敬している著者の書いたものでも、何度も読んでいるうちに、「それはちょっと違うのではないか」とか「そんなことあるものか」という疑問や批判が生まれてくる。それはもう、夢中になって読んだからこその話で、そうやって思考がはじまるのだし、そうやって科学も人類の歴史も進歩してきた。

というわけで、人類学や日本文化論においても、腑に落ちないことがたくさんある。そこから先はもう本に書いてないのだから、自分で考えてみるしかない。そうやって僕は、書を捨てて思考の旅に出ることをはじめた。

古代のソクラテス孔子がどれだけの本を読んだかといえば、現在の読書家たちよりもずっと少ないにちがいない。それでもソクラテス孔子は、彼らよりもずっと深く豊かに考えていたはずだ。

だれでもとは言わないが、中途半端な読書自慢なんて、みずからの思考の薄っぺらさをさらしているだけだったりする。極端なことをいえば、1冊も読んでいなくてもわれわれよりずっと深く豊かに思索している人はいる。

「現在の地球上の人類はすべてホモ・サピエンスである」という人類学の通説は極めて疑わしい、と僕は考えている。言い換えれば人類なんて原始時代からすべて「ヒト」というひとつの人類種だったのであり、滅びていった人類種などあるものか。7万年前の地球上に共存していた「ホモ・エレクトス」も「ホモ・サピエンス」も「ホモ・ネアンデルターレンシス」も、みんな同じ「ヒト」だったのであり「ホモ・サピエンス」だけが生き残ったのではない。旅をするサルである人類の血なんか、いずれは地球全体で混じり合ってしまう。それはもう、原始時代からそうだったのだ。どうして『サピエンス全史』とかというクソみたいな本に多くの人が感動しているのだろう、僕にはわからない。

ただインプットするだけでは「思考」とは言わない。それだけでは、たんなる「記憶」にすぎない。「思考」とは、言葉をアウトプットしてゆくことだ。

人は「言葉」で思考しているのではない。「思考」とは言葉にならないものと向き合うことであり、そこから言葉に向かって分け入ってゆくことだ。言い換えれば、言葉にできなくても「思考」は成り立つということ、言葉にできないことと向き合っているその過程を「思考」という。だから、どこかのバカギャルだって、われわれよりずっと深く豊かに考えている部分を持っていたりする。

『サピエンス全史』を書いた人だって、どれほど博学で聡明であろうと、「現在の地球上の人類はすべてホモ・サピエンスである」といっている部分だけは、僕からすればただのアホなのですよ。そのことに対する反論はもう、何冊も本にできるくらいこのブログに書きましたよ。そうやってこの十数年、何もかも打ち捨てて思考実験を積み重ねてきた。

結論だけをいえば、アフリカのホモ・サピエンスはアフリカの暑い環境に順応するように進化し完成されていった人種で、7~5万年前はアフリカの外には一歩も出ていっていない。ケニアが嫌ならタンザニアに行けばいいだけのことで、どうしてわざわざ氷河期のヨーロッパに移住してゆくものか。ネアンデルタール人がアフリカの出口でホモ・サピエンスの遺伝子を拾い、それを世界中にばらまいていっただけのこと。まあ、現在に残る状況証拠からは、そうとしか考えられない。遺伝子解析の結果に対する解釈なんか、彼らは初めにホモ・サピエンスの拡散ありきでそのようにこじつけているだけのこと。

今どきの古人類学者なんか、状況証拠に関しては「それは謎である」と逃げていることがたくさんあり、僕はそこのところを必死に考えた。

ろくに本を読んだこともないような庶民をなめて知ったかぶりされても、そうかんたんにひれ伏すつもりはない。どれほど知識の量に差があろうと、思考の能力は五分と五分なのだ。知識を詰め込むことは、思考することとはまた別の能力であり、たとえ東大教授だろうと、その専門領域においても、そのていどのことしか考えられないのか、といいたくなる部分はある。

 

僕が現在の人類学や日本文化論の学問世界に対して反論したいことのモチーフを挙げると、おおよそ次のようなことだろうか。

 

 

直立二足歩行の起源

人類拡散

ホモ・サピエンスネアンデルタール人

火の使用の起源

貨幣の起源……きらきら光るもの

都市の起源

縄文文化

天皇の起源

枕詞論

やまとことばの起源

まれびと論

古事記

やまとなでしこ

「かわいい」の伝統……土偶から初音ミクまで

 

 

すべて、一冊の本にできるくらいの分量はブログに書いてきた。基本的には、人類学と日本文化論に関する事柄で、世の中の政治経済のことは何も知らないし、ほとんど考えたこともない。

だからコロナウイルスのことは、どうすればいいかというようなヴィジョンなどさらさらない。

ただ、現在のこの国にこんなにも醜悪な政府・官僚が存在するというのはどういうことだろう、その歴史的な本質はどこにあるのだろう、ということは気になる。この国ならではの権力社会と民衆社会の二重構造についてはもっとよく考えてみたい。

権力社会なんか世界中どこでも醜悪なものだろうが、この国独自のいじましさ意地汚さというのがある。

それと、明治以降に受けた西洋的近代合理主義の洗礼によって、この国全体のかたちがしだいに歪んでいったということもある。

もしも「国体」なるものがあるのなら、それは明治以降に形成されたものではなく、縄文時代以来の1万年の歴史において再検証されねばならない。さらには、人類700万年の歴史から問い直すことだって無駄ではない、と僕は考えている。

 

直立二足歩行の起源、という問題設定は正確ではない。二本の足で立って歩くことくらい、サルでもかんたんにできる。サルがヒトになったことの証明は、つねに二本の足で立っている存在になったことにある。

猿にとっての二本の足で立つ姿勢は、べつに難しいことではないが、身体に大きく負荷がかかる上にとても不安定で、サルとしての俊敏な動きを失う。だからサルは、その姿勢をすぐにやめてしまう。

それでも原初の人類は、その姿勢を常態化していった。それは、世の人類学者がいうように、そのことによる何かのアドバンテージがあったからではない。アドバンテージがあるのなら、ほかのサルでもいずれするようになるはずだが、チンパンジーはいまだにそれをしようとしない。アドバンテージなんか、いくつ並べ立てても無駄なのだ。だから、人類学者の考える仮説は、ぜんぶまちがっている。

アドバンテージは何もなかったが、それでも立ち上がった。それによって身体の大きな負荷と不安定と、精神的な不安を引き受けながら立ち上がっていった。それでも立ち上がったのは、立ち上がるほかないような状況があったからであり、それらのハンデキャップを背負ってもなお立ち上がることを余儀なくさせられたのだ。

つまり、立ち上がるほかないような集団の状況と人と人の関係があったのだ。

たとえば密集した集団になったとき、その密集の圧力(=鬱陶しさ)によって、自然に立ち上がってゆく。立ち上がれば、ひとりひとりの占める地面のスペースは最小限になり、たがいの身体のあいだに空間の余裕が生まれる。そうして、鬱陶しかった他者の身体に対する親密観も芽生えてくる。また、その不安定な姿勢は、他者の身体を心理的な壁とすることによって安定する。

そのとき人類は、たがいの身体から影響を受け合いながら二本の足で立ち上がり、そして影響を受け合いながらその不安定な姿勢を安定化させていった。

すなわち人類が二本の足で立つ存在であるということは、たがいの身体が影響し合って関係を結んだり集団をいとなんだりしている存在である、ということだ。

他者の身体が存在しなければ、うまく立っていられない。このことを敷衍すれば、他者が生きていてくれなければ自分も生きていられない、ということであり、そのようにして人はけんめいに他者を生きさせようとする存在になっていった。

 

二本の足で立つ姿勢を常態にしている人類は、存在そのものにおいてすでに集団から影響=圧力を受けている。もともとそれが集団を成り立たせるための姿勢として生まれてきたのであれば、集団を成り立たせようとする本能を持っている、ということでもある。

また、集団から影響=圧力を受けているということは、見えないところにいる他者からも影響=圧力を受けている、ということだ。このとき人の心には、上空から集団全体を見下ろすような無意識がはたらいている。いわゆる「幽体離脱」というような心的現象が起きていて、それはたとえば入眠時に「金縛り」にあうとかの身体が危機的な状況に立たされたときにもたらされるのだが、原初の人類が二本の足で立ち上がったときだって集団の密集状態が鬱陶しくて身動きできないという身体の危機的状況だったのだ。

彼らは、立ち上がったときに、解き放たれた気分で頭上の青い空を見上げた。人が青い空に対する遠いあこがれを持っているということは、青い空から見下ろす視線を無意識のところに持っているということでもある。「幽体離脱」の心的現象は、べつにオカルト的な神秘体験でもなんでもない。世界中のだれの心の中でもあたりまえに起きている、人類史の無意識なのだ。

原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、ひとつの「幽体離脱」の体験だった。つまりそのとき、集団の密集状態からの圧迫を受けて身体が危機に瀕したのだが、彼らはそこで混乱して散り散りに逃げ出すのではなく、一種の集団催眠にかかったような状態になって固まってしまった。そうして脳が、四本足で立っているみずからの身体のことを忘れてしまった。であればもう、その密集状態の圧迫から逃れるすべは二本の足で立ち上がることしかなかったのであり、無意識のままに気がついたらその姿勢になっていた。それはまあ、現象的には、天上からの視線に引っ張り上げられた、ともいえる。そういう「幽体離脱」の体験だったのだ。すなわち人が二本の足で立っていることは「幽体離脱」している状態であり、われわれはだれもがそのような心的現象の無意識を持っている。

だから人類は、だれもが遠くの「どこかのだれか」のことを想いつつ無際限に大きな集団になってゆくことができる。そしてそれは、自分のことを忘れてもうひとりの自分になることであり、そうやって心は想像力をはばたかせる。

われわれの意識は、頭の中の脳で起きているのではなく、頭の外のどこかわけのわからない空間で起きているように感じられる。イヤホンをつけてテレビを見るとき、その音声はイヤホンをつけた耳の中ではなく、画面から発せられているように聞こえている。こういうことだって、ひとつの「幽体離脱」であり、われわれの意識はすでに自分および自分の身体から離れてしまっている。

逆にいえば、自分および自分の身体に対する執着、すなわち「自意識」が強い人ほど、あるいは病気などをして身体の危機に落ちったときほど、「金縛り」になったり「幽体離脱」が意識の表面に現れてしまったりする。

通常は、だれにおいても無意識のところで「幽体離脱」が起きている。それはもう、生きものの「意識」のはたらきの属性なのだ。

 

疫病が蔓延すれば、人は、ふだんは意識しない「どこかのだれか」の死に大きく心を揺さぶられてしまう。それが、二本の足で立っている猿である人間の本性なのだもの。そうやって今、世界中が大騒ぎしている。

なのにこの国の政府・官僚をはじめとする権力者たちばかりが、そうした人間性を喪失したまま、ぐずぐずとあいまいな対応に終始している。自分および自分の立場に執着する彼らには、「民衆」という「どこかのだれか」を想う心が、決定的に欠落している。まあ、迷信深くて、意識の表面での「幽体離脱」を起こしやすい連中なのだ。彼らは今、「このまま収まってくれ」と、必死に祈祷している。しているのはそれだけだ、ともいえる。まあそれがこの国の権力社会の伝統なのだからしょうがない。

愚劣で醜悪なのは、総理大臣ひとりだけではない。この国の権力社会の伝統のそうした部分をそのまま抱え込んだ者たちがどんどんそのまわりに集まってきて、現在の政府・官僚を形成している。

なんとおぞましいことかと思う。

僕なんかどんなに困っても「助けてくれ」とおもうしかくもさけぶしかくもないにんげんだとじかくしているが、それでも、「そんなものさ」と心を素通りさせてしまうためには、僕は「人間とは何か?」という問いを放棄しなければならない。

文明社会というか権力社会は、人間の心を忘れた人間を生み出してしまう。だれだって人間で、だれだって人間の心を持っているはずなのに、まるで人間の心を持っていないかのような思考や行動をしてしまう。

つまり、人間の思考や行動なんて、人間としての本性とは関係なく、生きてきた「なりゆき」としての環境世界という条件によって決定されている。であれば、「人間とは何か?」と問うことこそが、あの人間たちの愚劣さと醜悪さの横を素通りしてゆくことができる道であるのかもしれない。あんな人間たちの思考や行動に人間の本性が現れているのなら、人間なんか滅びてしまったほうがよい。

たとえ軽薄で強欲な支配者であっても、ひとたび疫病が蔓延すれば心を揺さぶられ、「どこかのだれか」という他者に救いの手を差しのべようとしてゆくのが、二本の足で立っている存在である人間の本性なのだ。それはもう、善意とかヒューマニズムというようなことではない。四本足の猿が二本の足で立ち上がっているという、そのこと自体にそういう心の動きが生まれてくるような仕組みがはたらいているのだ。

 

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疫病と祈祷

コロナウイルスのことを考えると、この国の政府・官僚の醜悪さばかり気になってうんざりしてしまう。それでも考えるのが人としてのたしなみだという強迫観念も付きまとうのだが、ひとまずこのブログのテーマである「人間とは何か」とか「日本人とは何か」という問題に立ち戻ってみることにする。

まあ、政府・官僚の醜悪さだって、そういう「日本人とは何か」という問題でもある。

僕の思想的なスタンスが右翼であるのか左翼であるのか、よくわからない。どちらでもないような気がするが、どちらでもあるような気もする。まあ、節操がないのだ。正義などというものは信じないし、信じないのが日本人だとも思う。だからあの連中のように思い切り醜悪な人間もいるし、逆にとても純粋で清らかな人もいる。

今どきの右翼が「日本人は特別だ」とか「日本人に生まれてよかった」などと合唱しているのはまさに醜悪そのものの光景だが、日本人が世界的に見てちょっと風変わりな民族であるという認識は、あながち的外れだともいえない。外国人が「日本人は異星人だ」といったりする。

ただそれは、「特別優秀だ」ということではない。その特異性は、氷河期以降に大陸から切り離されて四方を荒海に囲まれた島国で孤立した歴史を歩んできたために文明社会の洗礼を受けるのが遅れ、その間にひとり原始的な文化をそのまま洗練させてきたことにあるわけで、もとはといえば世界中のすべての地域で共有されていた文化なのだ。それが縄文時代の1万年だった。その1万年に育ってきた原始的な集団性や精神性や美意識の洗練があった。

おそらくその1万年によって、現在まで続くこの国の文化の基礎がつくられたわけで、それは世界中の人類が共有している歴史の無意識でもあり、何か「特別」というようなものではない。

 

コロナ後の人類世界は新しい時代に突入してゆく、といわれている。そうあってほしいが、本当にそうなるかどうかはわからない。ただ、人類の未来の文化は基礎的原始的なかたちになってゆくであろうことは想像がつく。

この宇宙は、何もないところから出現して、いつかは消えてゆく。古代ギリシャの哲学者のヘラクレイトスは、「宇宙の根源は<火>にある」といった。燃える「火」は出現と消滅が同時に起こっている現象である。現在の最先端の量子力学では、すべての物質は出現と消滅を繰り返す「現象」であって「存在」ではない、というようなことがいわれている。

生(誕生)と死、生は死であり、死は生である、ということ。宇宙の生成がそういう循環構造になっているとするなら、究極の未来は「消滅」であり、明日という未来は原初に還ってゆく、ということだろう。つまり、原始時代は人類の未来である、ということ。もちろん表層的なかたちが同じであるはずはないが、本質的にはそういうことなのだ。そして現在においても、もっとも発達した資本主義と原始時代が混在しているということであり、だからこそ未来は原始時代になってゆく。

現在の社会にも、個人の内面においても、すでに原始性は息づいている。

原始時代を知ることは「今ここ」を知ることであり、「今ここ」は、たえず原始性によって変更されてゆく。そうやって人の心も世の中のさまも移ろい流れてゆくのだし、移ろい流れてゆく先は原始時代なのだ。

まあ、年寄りはみな原始人である。歳をとればわかる。子供も原始人であるが、この世のもっとも豊かな知性や感性の持ち主だって、大いに原始人的である。

コロナ後の人々の心や行動は、今よりもっと原始人的であるにちがいない。そして日本列島の伝統もまた、原始的な心を洗練させるようにしてはぐくまれてきた。

つまり原始性を基礎にした日本列島の伝統は、もっとも世界中の人々と共有できるはずのものなのだ。なのに現在のこの国の政府のいい加減なコロナ対策は、皮肉なことに世界中の足並みからもっとも外れており、もっとも人間性の自然から逸脱してしまっている。

こういうときに命懸けで病に斃れた人を救おうとしてゆく人がいるのが人間の世界なのだ。中世以来のペストの蔓延でさんざん苦しめられてきたヨーロッパ人は、歴史の記憶としてそういうことをよく知っている。だから、国の支配者はそういう態度を示し、みんなはそれに協力する、という国民的合意を持っている。

しかしこの国の権力社会は、安全な場所で「祈祷」だけしておけばいい、というのが伝統で、じっさいの防疫活動は民衆自身の手に委ねられてきた。現在のこの国の政府が本気でコロナ対策に取り組もうとしないのも、けっきょくそういうことかもしれない。彼らは、大和朝廷の発生以来、ほとんど民衆とはかかわってこなかったわけで、ただの「雲上人」であり「お上」で通してきたのだ。

ほんとに情けないし、恥ずかしい政府だと思う。この国の権力社会の伝統のもっとも醜悪な部分がまるごと染みついている。

 

「日本人は」とか「日本社会は」と、ひとくくりにして論じることはできない。千数百万年前の大和朝廷発生以降の日本列島は、権力社会と民衆社会が大きく乖離した二重構造のまま歴史を歩んできた。

たとえば、

1500年前の大和朝廷は、朝鮮半島から仏教を輸入した。おそらく支配者が、民衆支配のためにはそれが必要だと判断したからだろう。そのころは大和朝廷が生まれて間もないころで、税の徴収をはじめとして、民衆支配がまだ本格化していなかった。本格化したのは、その100年後の大化の改新以降の律令制が整えられてきてからのことだ。

日本列島は、弥生時代からすでに朝鮮半島との交易をはじめていた。そこからの500年以上のあいだに、どうして仏教が入ってこなかったのだろう。

すでに神道があったからではない。神道は、仏教に対するカウンターカルチャーとして民衆のあいだから生まれてきたのであって、後発の仏教が土着の神道を凌駕したという歴史文書は、のちの権力者による捏造にすぎない。

弥生時代の日本列島に宗教などなかった。そのころの日本人には、宗教そのものに対する関心がなかったから、仏教を輸入しなかったのだ。宗教に関心がある風土であったのなら、仏教を試してみようとする者はかならず現れてくる。もともと宗教は何の現実的効果もないのだから、疫病や飢饉のときには、宗教心があるのなら新しい宗教にすがりたくなる。

弥生時代から古墳時代にかけての日本列島には、仏教を受け入れることができるような宗教的土壌がなかった。

 

日本列島ではどんな宗教でもファッションとして他愛なく受け入れてきたが、本格的な宗教心が日本人全体に根付くことはついになかった。仏教だって、歴史の水に洗われて、けっきょく今では有名無実化してしまっている。

神道が宗教らしい姿になってきたのは平安時代以降のことだが、本質的には宗教ではないし、宗教ではないところに神道の本質がある。神道が現在まで残ってきたのは、日本人には「宗教ではない宗教」が必要だったからだ、まあそれと天皇を想う心のよりどころにもなってきたわけだが、ほとんどの神社は天皇を祭神にしているわけではない。また多神教といっても、参拝者は祭神の名など気にしていない。神社は、神社の姿をしていればそれでよい。祭神が何であろうと、鳥居があって森があって、ときには参道に白い玉砂利が敷き詰められている、その清浄な気配こそ尊いのだ。

飛鳥・奈良時代の仏教であろうと、明治以降の国家神道だろうと、いつの時代も宗教にしがみついてきたのは権力者ばかりで、民衆にとっての宗教はいつだって華やいだ気持ちになるための口実にすぎなかった。

中世に浄土真宗日蓮宗が民衆社会に根付いたといっても、それらはタイやチベットのような本格的な仏教ではなく、日本的に換骨奪胎された「宗教ではない宗教」だった。禅宗にしても浄土真宗にしても、「救われたいという願いを持たなないことが救われる道だ」というようなことをいう。つまり、そういうかたちにしないと宗教心のない民衆社会に宗教を根付かせることができなかった、ということだ。

結婚式は神道キリスト教で行い、葬式は仏教でする。お寺で除夜の鐘を聴いて、そのまま神社に初詣に行く。日本人はこんなことに、なんの抵抗感もない。

民衆にとっては宗教なんか娯楽のひとつであり、そういうかたちで芸能や冠婚葬祭等の文化を育ててきた。それだけのことだが、権力者たちは宗教を民衆を支配するためのもっとも有効な道具として自覚しつつ、ミイラ取りがミイラになるようにすっかり迷信深い人間になってしまう歴史を歩んできた。まあ権力社会それ自体が、本質において宗教と別のものではない。

人は権力を持つと、不可避的に迷信深くなってしまう。権力者が「祈祷」にすがって疫病を克服しようとするのは、平安時代も現在の安倍政権も同じなのだ。しかもこの国は権力社会と民衆社会の「契約関係」がない伝統だから、この国の権力者たちは、ほかの国の権力者以上に迷信深い。

今どきのこの国は、政府も官僚もその他の右翼たちも屁理屈でごまかそうとするこずるい人間ばかりだが、その態度そのものが迷信深さなのだ。

日本人が迷信深いのではない。日本列島の権力社会がどこよりも迷信深い伝統を持っているだけなのだ。彼らだって日本人だけど、彼らのもとに日本列島の伝統が宿っているとは思わない。

われわれは、真の民衆社会の伝統を取り戻さねばならない。大和朝廷発生以前の日本列島は、とにもかくにも全員が「民衆」だったのだから。

 

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