学びたいこと

都知事選が終わりました。

もちろん無残な結果でした。

あんなにもいかがわしい人間がのうのうとのさばっているこの社会のしくみというのはほんとになんなのでしょう。

小池百合子がいかがわしいのは小池百合子の勝手だけど、それにうんざりしない現代人の心というのは、いったいどうなっているのでしょうね。

小池百合子がいかにいかがわしい人間かということはみんなわかっているくせに、それでも、小池百合子に入れておけば自分の人生は安泰だという、その自分の損得勘定を最優先させるこずるさというかエゴイズムというか、ほんとに世も末だと思います。

小池百合子に騙されたんじゃない、わかってて投票したのでしょう。

 

山本太郎だって、がっかりです。

たったあれだけの票しか取れなかったということは、彼や彼のまわりのスタッフたちの戦略が、何か決定的に間違っているのでしょうね。

たぶん、人間の集団性の本質というものがわかっていないのでしょう。

こうなったらもう、「れいわ新選組」という党名をみんなに差し出し、自分は裸一貫で出直せ、といいたい気分です。

まあ言いたいことは他にもたくさんあるけど、こんなところで言ってもしょうがないからやめておきます。

 

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僕は右翼も左翼もあまり好きではないし、そもそも政治などというものに興味は持ちたくありません。でも、文明社会で生きているかぎり、だれだってまったく無関心でいるということもできない。

言い換えれば、人間は政治に無関心でいられるのが、一番の幸せなのでしょうね。

 

政治のことであろうとあるまいと、学ぶことのよろこびが人を生きさせる、ということはあるように思えます。

生涯学習などといって、今どきの多くの老人が学びたがっています。

出世の望みも強くなる望みも美しくなる望みも快楽をむさぼる望みも持てない身になれば、あとはもう学ぶことのよろこびを求めるしかないし、学ぼうとする望みは生まれたばかりの赤ん坊のときから続いている人の一生の通奏低音だともいえます。

 

政治家のように死ぬまで成り上がろうとする上昇志向で生きてゆくのは、まああまり健康的な人生だとはいえないでしょう。

そのあげくに途中でぽきんと折れてぼけ老人になってしまったりする、ボケないためには上昇志向を生き続けるしかない、ということでしょうか。

 

生涯学習なんてあまり好きな言葉ではないけど、やっぱり学ぶことのよろこびが人を生かしているということはあるように思えます。

生きようとする欲望が人を生かしているのではない。生きようとする欲望は、そのまま成り上りたいという欲望になる。

それに対して学ぶことは、「もういつ死んでもいい」という勢いですることです。超一流の研究者とは、そういう勢いをだれよりも豊かに持っている人のことです。

山本太郎だって、そういう勢いで政治活動をしています。

 

生まれたばかりの赤ん坊はみな、「もういつ死んでもいい」という勢いで生きています。

人間の赤ん坊は、ほかの動物の赤ん坊に比べると超未熟な状態で生まれてきます。それは、明日も生きてある保証がない、ということです。

だから「もういつ死んでもいい」という勢いを待たなければ生きていられないし、その勢いで彼らは新しく出会った世界のことについて学ぼうとしています。

つまり人類は、歴史の無意識として、「もう死んでもいい」という勢いで学ぼうとしてゆく習性を持っている、ということです。

 

「学ぶ」とはどういうことでしょうか。

本に書いてあることをそのまま記憶すれば、あなたはそれで満足ですか。

「学ぶ」とは、「なんだろう?」と問う態度のことです。そして、ひとつのことを知れば、そこからさらにいくつかの疑問が生まれてきます。

そこには、「記憶することの満足」とか「達成感」のようなものはありません。

「学ぶ」とはひとつの「道」であり、「学び続けること」です。満足とか達成感をため込んでゆくことではなく、「なんだろう?」という欲求不満を紡ぎ続けることです。

 

こんなにもいかがわしい政治経済のシステムがまかり通ったり、あんなにもいかがわしい人間たちがのさばったりする世の中であっていいはずがない。どうしてこんなにもどんよりとした世の中になってしまったのでしょうか。

人間なんか、他愛なくときめいていればいいだけなのに。

 

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というわけで僕はまだ、ユーチューブをやってみたいと思っています。

先日家族に話したら、恥ずかしいからやめてくれ、と大反対されました。

こんなしょぼくれたジジイがぼそぼそ話している動画なんて誰も見ないだろうが、もし見られたたら恥さらしもいいとこだ、というわけです。

 

そりゃあそうです。それでも、人に聞いてほしいことがいっぱいあるわけです。

日本文化論からはじまって、最終的には直立二足歩行の起源からネアンデルタール人までの古人類学のことは世界に向けて発信したいのです。

今どきは英語に翻訳したテロップを入れることもかんたんにできるそうですね。

この国で古人類学のことなどあまり一般的ではないが、考古学や文化人類学の歴史が古い欧米ではもっとたくさんの人が興味を持っていると聞きます。

 

いずれにせよ本に書いてあることなら僕があらためて言うこともないけど、書いてないことで僕の腹にたまにたまっていることがたくさんあるのです。

僕の言うことをヒントにして本格的な研究に取り組んでくれる若い人が、この世界のどこかにいるかもしれないじゃないですか。

 

こちらはしょぼくれたジジイだからこそ、残された時間はあとほんのわずかです。

聞いてもらいたいことがいっぱいあるのです。

 

さて、どうなることやら。

今、話す原稿を書き貯めています。

とりあえず3か月は毎日発信できるくらいの量を書き溜めて最初に準備しておかないとそのあとも続かないだろう、などと考えたりしています。