知識をため込むことと思考をすること

非常事態宣言になってYoutubeを見る人が増えているらしい。このまま続けば配信する側に回る人も増えてくるのだろうか。

僕もこのごろ歴史とか哲学思想の学術系ジャンルをよく見るのだが、読んだ本の解説をしているだけのものが多い。で、売れるか売れないかは、内容ではなく、喋りの能力によるものだったりする。あるお笑い芸人が歴史の解説をしている番組などは、200万人以上のチャンネル登録を獲得してカリスマのように祀り上げられているが、喋りの上手さだけで、その人の個性的な思考など何も感じられない。こちらの心の中に遠慮会釈なくずかずかと入り込んでくるような、あのなれなれしいしゃべり方は、なんだかわざとらしくもあり、どうも苦手だ。とにかく歴史の教科書丸写しのようなないような話の内容で、彼以上の読書量や知見を持っている人はいくらでもいるのに、誰も彼にはかなわない。

しゃべり方のおもしろさについつい引き込まれる。そうやって心をいじくりまわされることが心地よいのだろうか、聞いているあいだ何も考えないですむ。人間はもともと怠惰な生きものなのだ。

今回のコロナウイルス騒ぎで「三蜜禁止」などというお触れが出たりして、人と人の関係のむやみななれなれしさが反省される時代になってくるのだろうか。

たしかに、なれなれしくして相手を思考停止に陥らせるのは上手な「口説き」のテクニックのひとつだし、今どきはなれなれしくされたいさびしがり屋がたくさんいる世の中なのだろうか。愛されたい症候群……それはきっと、現代社会の病だ。

人の心の中なんかわからない。自分が愛されているかどうかということは永遠にわからないし、愛されることの鬱陶しさというのもある。ただ、人間性の自然として「愛さずにいられない」という心の動きが起きているだけのことだろう。「愛し合う」といっても、たがいに一方的な「愛さずにいられない」気持ちを差し出し合っているだけで、「愛されるよろこび」などといっても、愛されている自分に酔っているだけだろう。

つまり、あんなふうにしゃべられると、視聴者は自分が愛されているような心地になってゆくのだろうか。愛されたい症候群というか、自己愛症候群というか、「三蜜禁止」になればそういう心理が満たされなくなってしまい、最近ではそのフラストレーションがあちこちで起き始めているらしい。

満たされなくてもいいのだ。そんな自己愛のらせん階段はさっさと下りてしまったほうがいい。人と人の関係は、つねに「一方的」なのだ。「助け合う」といっても、助けずにいられない気持ちを一方的に差し出し合っているだけのこと。奢られるよりも奢ったほうが気持ちいではないか。人間性の自然・本質においては、「交換」などという関係はない、一方的な「贈与・献身」があるだけのこと。少なくともそれが原始人の集団の関係性だったし、そういう原始性は現代の文明社会を生きるわれわれの中にも残っている。

アフターコロナには、現在の文明社会の高度で複雑なシステムの中に置かれていることに疲れた人々の心に、そういう人間性の自然・本質、=原始性がよみがえってくる……ともいわれている。

「コロナ鬱」というようなことも起きているのだろうか。終わりのない自己愛のらせん階段にはまると、そういうことになりやすい。「三蜜禁止」とは、なれなれしい関係になるな、ということで、自己愛の強い者ほどなれなれしい関係をつくりたがるし、なれなれしい関係になれないことに強いストレス覚え、逆に他者との関係を避けてますます自分の世界に閉じこもっていったりする。いじめとはひとつのなれなれしさであり、集団暴行は集団鬱という自己愛の共同体だ。

まあ、読書に耽溺するのも一種の自己愛だったりする。自分の知識の量が増えたら、人間としてのステージが一段上がったような気分になるわけで、発信者と視聴者がそういう自己愛を共有しているようなYoutubeの番組がある。

 

本を読んでインプットするのはたんなる「記憶」という脳はたらきであって、「思考」することではない。寺山修司は「書を捨てて町に出よう」といったが、それは、本を読む必要なんかない、といっているのではない。本を読んだ後からはじめて「思考」がはじまる、といいたいのだ。

たとえば、その人がカラスについて書いた本を読んだとする。そうすると一般の読書経ユーチューバーはそのままカラスという黒い鳥についてのあれこれを語ってゆくわけだが、本に書かれてあったことを「それは違うだろう」と批判的直観的に反応する人もいて、じゃあどこが違うのかと考えてゆく。あるいは、黒い動物は他にもいると考えたり、さらに黒い動物はなぜ不吉なものの象徴のようにされているのだろうと展開して考えてゆく人もいる。

批判=懐疑あるいは展開、そうやって人の脳のはたらきは「思考」の旅に出てゆく。

しかし今どきの読書系学術系Youtubeには、そういう「思考の醍醐味」を追体験させてくれる番組はほとんどない。

しゃべりがおもしろければ、それでいいのだろうか。情報過多の世の中で、とりあえず手っ取り早くおもしろおかしく情報を収集することができればそれでいいのだろうか。あまり苦労をせず良質な情報を収集してゆく。発信する側も視聴する側も、そういうコスパ主義的志向を共有しているらしい。それはきっと「思考する」という人間性の自然・本質の衰弱だと思えるのだが、それでいいのだろうか。

「思考する」とは知らない世界に分け入ってゆくことであって、彼らのように既存の知識体系にもたれかかってゆくことではない。彼らは変わりたがらない者たちで、アフターコロナには新しい時代がやってくるとは思っていない。インターネットを主戦場にする自分たちがもっと活躍できる時代になる、と思っているだけだろう。

彼らは、既存の知識体系にもたれかかることをやめない。Youtubeをそこに挑戦してゆく場にしようとは思わない。学者であろうとおしゃべり上手の芸人だろうと、アフターコロナでこのゲームへの参加者が増えるということは、自分たちの既得権益が脅かされるかもしれないということでもある。今まで通り知識をひけらかしているだけではすまなくなるとは思わないのだろうか。知ったかぶりのおしゃべり上手が百花繚乱になって、ますますわが世の春を謳歌してゆくのだろうか。

 

このままスノッブな知ったかぶりが幅を利かす時代が続くのだろうか。

孔子の「論語」には次のような一節がある。

人不知而不慍不亦君子乎(不知にして不慍の人、また君子ならずや)

これを、一般的には「人に知られていないことを怒らないのは君子である」とか「知らない(無知な)人を怒らないのは君子である」というような解釈がなされているが、これはまったく違う。

「不知」とは、この世には知りえないことがあるのを深く自覚すること。

「不慍」の「慍」は仏教でいう「増上慢」のことで、この場合は「知ったかぶりをしない」とか「虚勢を張らない」というような意味。

ゆえに「この世には知りえないことがあるのを深く自覚してむやみに知ったかぶりをしない人もまた君子ではないだろうか」と訳す。

論語における「不知」という言葉はとても重い意味に使われており、「人に知られていない」とか「無知」とか、そんな安っぽい意味ではない。いわば哲学者としての孔子の魂から絞り出された言葉であり、同時代のギリシャソクラテスも同じことをいっている。そのころの中国もギリシャも、国家文明の発達とともに無文字社会から文字社会へと急速に移行しつつあった時代で、まあ今どきの読書系ユーチューバーのように知ったかぶりをする人間が増えてきていたわけで、そんな時代の風潮に対して孔子ソクラテスも「それでも人が永遠に知りえないことがある」と説いたのだ。

「不知」と「不慍」……この「不」という言葉は、とうぜん後になって「すでにある」ものを打ち消す機能として生まれてきたのであり、人類の「(哲学的)思考」によって生み出された言葉なのだ。「否定」とか「批判」とか「超越」とか、ヘーゲルの「弁証法止揚アウフヘーベン)」を今風の言葉に直せば「オルタナティブ」というようなことだろうか。そうやって批判的否定的に乗り越えてゆくことが人類の普遍的な「知」のいとなみであり、古来から哲学者はずっとそういうことを主張してきた。

知ったかぶりをして読んだ本のことをそのまま解説しているだけでは、「オルタナティブ」も「イノベーション」も生まれてこない。

 

アフターコロナの時代は2年後からはじまる、と言われている。そのころには、人々の生活様式や価値観が大きく変わってくるのだろうか。

変わってくれば面白いと思うが、変わりたくない人がたくさんいるから、はたしてそうなるかどうか。

僕は政治経済のことはよくわからないが、日本文化論や古人類学の通説の多くは変更されるべきだ、と10年くらい前からずっと考えてきた。それらの通説がなぜ間違ったまま変更されないかといえば、多くの研究者が既存の近代合理主義に洗脳された頭で思考しているからだし、既存の情報を収集してまとめるというだけのことしかしていないからだ。「文献にたよるものは文献につまずく」とは小林秀雄の名言だが、多くの研究者がそのようなことばかり繰り返している。

ほんとうの思考は、頭の中をいったん白紙にしたところからはじまる。それが孔子の言う「不知」という概念であり、思考停止こそが思考なのだ、ともいえる。

たとえば、「魏志倭人伝」はただの伝聞情報をもとにした捏造文書である、ということになれば、「魏志倭人伝」の研究者は職を失ってしまう。それが捏造文書である可能性は大いに高いのだが、というわけでそれが学問の世界で認められることはない。学問の世界だってそうした既得権益の上に動かされているから、変更されないまま残されている誤った通説がたくさんある。

インターネットの世界は、その「壁」を打ち壊すことができるか?

アフターコロナのユーチューバーにはそのことを期待したいが、現在活躍している知ったかぶりのカリスマたちでは無理だろう。彼らだって既得権益層でしかない。

現在のコロナ騒ぎによって既得権益がどんどん壊れていっている、と言われているが、政治経済の世界だろうと僕の関心領域の日本文化論や古人類学の学問の世界だろうと、けっきょくその既得権益は頭の中を「近代合理主義」に染め上げられた者たちによって守られている。「近代合理主義」によって積み上げられたがんじがらめのシステムは、実社会の政治経済の世界だけではなく象牙の塔の学問の世界にも浸透している。

新しい時代は、知識優先の「近代合理主義」の「外」に出ることによって現れてくる。資本主義も共産主義も関係ない。ものの考え方感じ方の問題だし、ほんとうに人々が「考える」ということをするようになってくるか、という問題だ。

考えることは、知識の外に出ることだ。それを孔子は「不知」といった。考えることは、知識をため込んで満足することではなく、行方の分からない地平に向かって分け入ってゆくスリリングな体験であり、「たどり着く」ことではなく「歩み出す」ことだ。

孔子はまた「朝(あした)に道を問わば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」ともいった。この「道を問う」ということの一般的な解釈は「悟りを開く」ということになっているのだが、これも違う。「死んでもいい」という境地になれるのなら当然「悟りを開く」ということがあるはずだ、と注釈家が勝手に解釈してしまっているだけのことで、孔子はそんなことはいっていない。「問う」は、あくまで「問う」ということ、「なんだろう?」と思うこと。孔子にとっての「道」とは「問う」ものであって「悟る」ものではなかった。「道」とは問い続ける「過程」のことをいうのであって、到達点のことではない。たとえ百年先まで生きたとしても、そのときもなお「なんだろう?」と問うている。だから彼は「不知」といったのであり、「考える=探求する」という「道」を歩みはじめたらもういつ死んでもかまわない、といっているのであり、それは、この生はつねに「今ここ」が到達点だ、ということでもある。まあ古代の人々は、だれもが明日も生きてあることが保証されていな条件に置かれていたから、そういう「切羽詰まったところに立って生きよ」という話はだれにでも通じたにちがいない。

親鸞や一遍だって「今ここで南無阿弥陀仏と一回唱えればそれでよい」といった。南無阿弥陀仏と唱えることは「道を問う」ことだ。

今回のコロナ騒動を通過すれば、われわれもまたそういうところに思いをいたすことができるだろうか。

 

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初音ミクの日本文化論』

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