「もう死んでもいい」と思うしかないのか

ここまで世界のコロナウイルス感染が進めば、われわれ低所得者層の老人はもう、死を覚悟するしかない。最終的には人類の7割が感染し、感染した老人の3割は重篤化して死んでゆく、といわれている。ワクチンができるまでにあと2年かかり、そのあいだにウイルスは変異してさらに致死率が高くなるらしい。

しかもこの国の政府の対応は世界でもっともいい加減だから、最終的には世界でもっとも悲惨な事態になるのかもしれない。

なぜこんな愚劣で醜悪な政府が生まれてきてしまったのだろう。

ともあれ僕はもともと不用意な人間だから、感染しない、という希望なんか持つことはできない。感染するかしないか、自分に免疫力があるかどうかは、もはや自分が背負っている運命の問題だ。

僕は生き残ることができるのだろうか……?何が何でも生き延びたい、と思うべきではない。したいことはまだまだたくさんあるが、まあべつにしなければならないことだというわけではない。

もちろん、「もうじゅうぶんに生きた」とか「人生に悔いなし」というような感慨はさらさらない。しょうもない人生だったし、なんとまあ愚かなままに生きてしまったことかと、叫び出したいほどに悔やんでいる。

謙遜とか卑下したりしているのではない。この世の中には、愚かでないとわからないこともある、ということ、そういう自信はある。人間の「愚かさ」をなめてもらっては困る。愚かだからこそ、この世の中の一流の知識人に対して「それは違う、その程度のことしか考えられないのか」といいたいことがある。それをぜんぶ吐き出して死んでゆきたい。そこがまあ、なやましいところだ。

 

国家の危機のときにはナショナリズムが台頭する、とよくいわれるが、現在の政府のコロナウイルス対策は国民に支持されているのだろうか。

ナチスドイツは、ユダヤ人の富を無理やり奪って、とにもかくにもユダヤ人以外の国民の生活水準を底上げした。だから支持されたのだろうし、現在の世界の支配者たちも、ひとまず国民の生活を守ろうとがんばっている。そうやってドイツのメルケルやニューヨークのクオモ市長が支持率を上げている。それに対して現在のこの国の政府は、困窮しはじめている国民を救うための有効な対策を取っていない。こんな絶望的な状況でも、国民は政府を支持するのだろうか。政府は「それでもわれわれは許される」「保障手当なんか出さなくても国民は勝手に自粛する」と思い込んでいるらしい。たしかにそれが大和朝廷発生以来のこの国の権力社会と民衆社会の関係の伝統であるのだが、ただ現在のようにひとまず民主主義と呼ばれなおかつ高度資本主義と呼ばれる社会においては、それだけではすまない複雑なシステムがはたらいている。

こんなご時世においても、「従順」な民衆は働きに出かける。それは、経済の問題もあるが、同じくらい「人は<もう死んでもいい>という勢いで生きている」という命のはたらきの本質の問題も加わっている。生きるとはエネルギーを消費するいとなみであり、生きようとするからこそ死んでしまうかもしれないこともいとわないのだ。

現在のこの国の政府は、国民を救いたくないのか、あるいは責任を取りたくなくて逃げているだけなのか。いずれにせよ今や総理大臣以下の政府官僚なんてサイコパスばかりだ、というような状況を呈しているのだが、それでもナショナリズムが盛り上がるのだろうか。

緊急事態宣言が出されても、政府の目論見通りには外出は減っていなくて、相変わらず多くの人々が満員電車に乗って会社に出かけている。それはお金を稼がないと生きてゆけないからということだけだともいえない人間の生態の本質の問題が加わっている。

半年や一年くらいは生きてゆける貯金を持っている人はいくらでもいるし、それでも満員電車に乗るのは、自分の命を切迫して考えていないからだろう。これによって明らかになったのは、人は自分の命を切迫して考えながら生きているわけではない、ということだ。

だから、休業補償のともなわない空疎な緊急事態宣言を出してもあまり効果はないし、おそらくナショナリズムが盛り上がることもない。多くの国民は、国のことなど当てにしていない。今のところ国よりも会社に従うし、それは、自分の命のことなんか切迫して考えていない、ということだ。死に近い存在である老人でさえも、のんきに花見や巣鴨の地蔵通りに出かけて行ってしまう。いや、老人だからこそそういう行動をとってしまう。人は歳を取ればとるほど本能的になってゆくわけで、たしか孔子もそのようなことをいっていた。

 

生きものに、自己保存の本能なんかはたらいていない。命のはたらきとはエネルギーを消費して自滅してゆくことによって命を成り立たせるとういう、そういういわば利他的なはたらきなのだ。命のはたらきは、自滅してゆくことによってみずからの身体を生きさせる。命にとってはみずからの身体だって「他者」なのだ。

生きものは、「もう死んでもいい」という勢いでセックスをして子を産み育てる。命はもともとそういう「利他的」なはたらきだから生きものは集団になるのだし、またそれぞれの集団が勝手に自滅してゆくかたちで生成しているから、生物多様性ということにもなる。人間の生態だって根源においてはそれぞれが「利他的」であることによって集団を形成しているのだし、日本列島にはことのほかそうした原始的な集団性の文化を洗練させてきた伝統がある。

会社に行って金を稼ぐことはひとまず社会の経済活動に参加していることであり、本質的生態学的には自分が生きるためというより他者を生きさせるいとなみなのだ。自分の命が大事なら、だれもこんなときに満員電車に揺られて会社になんか行かない。無意識のところでは、みんな死ぬことを覚悟している。人間として生きものとして、「もう死んでもいい」という勢いを持っている。

政府が何もしてくれないのだから、みんな命がけで外に出て働くしかない。感染の事態がさらに悪化したとしても、外出した者たちの責任ではない。彼らだって、罹患することを覚悟で社会のため家族のため他者のために働きに出ているのだし、医者や看護婦ならなおさらに「もう死んでもいい」という覚悟がなければ逃げ出さないでいられるはずがない。まあ、そういう勢いとともに人類の歴史は進化発展してきたのだ。

 

経済的にも衛生的にも安全なところにいる政府や官僚たちは、今やもう、自分たちの立場を守るために多くの国民を殺しにかかっている。彼らのコロナ対応がいかに愚劣で悪辣であるかをこと細かに語る能力なんか僕にはないが、それを受け入れ許してしまっている国民も一定数いるのが現在この国の状況なのだろうし、そういう状況を生み出してしまう歴史風土がある。

とりあえず今年いっぱいは衆議院を解散して選挙をすることなどないのだろうし、この政府に支配され続けることになる。彼らはもうわれわれを殺しにかかっているのだから、あきらめてというか途方に暮れながら覚悟を決めるしかない。

現在のこの世の中には、自粛したくてもできない人や、自粛を余儀なくされながら収入の道が途絶えて途方に暮れている人がたくさんいる。そういう「どこかのだれか」という他者=国民に思いをいたすこともなく、優雅に自宅のソファでくつろぎながら紅茶をすすったり犬を抱き上げたりしている動画をこれ見よがしにSNSの動画に挙げていたあの総理大臣の無神経な思考と態度には、心底むかむかする。彼は利用されているだけだという意見もあるが、利用されるままに嘘をつきまくりながらのうのうとその地位に居座っているというそのことが極悪非道なのだ。ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」といったが、ときには凡庸な小ずるさほど残酷な心もないのかもしれない。

ここまでくればもう、こんな国など滅びてしまえばいい、と思えてくるし、日本列島には、そういう思いが募ってくるような歴史風土=伝統がある。

「許す」ことは「幻滅する」ことだ。「幻滅する」ことは「やさしさ=愛」でもある。「やさしさ=愛」は「思考停止」である。そうやって人は他者を許しているのであり、男と女の関係もつまるところそうやって成り立っているのではないだろうか。

文明社会を覆う制度的な観念(日常=穢れ=ケ)から解き放たれて生きものとしての本能(非日常=禊ぎ=ハレ)に遡行してゆく……そうやって人はセックスをしているのであり、それが日本列島の民衆社会の伝統的な無意識(=集団性)としての「祭りの賑わい」でもある。そこにこそ人類普遍の人間性があり、そこから真に人間的で豊かな感受性や心映えが育ってくる。

人類の関係性や集団性は「非日常=ハレ」の心を共有しながら活性化してゆくのであり、世界中のどの地域においてもそこから「伝統」が生まれ育ってきた。そしてそれはたんなるポピュリズムというようなことではなく、もっとも高度な「知性」のはたらきだって、「非日常=ハレ」の世界に超出してゆくことができる思考のことをいうのだ。

人類の伝統としての「歴史の無意識」であれ、高度な知性であれ、愚かな民衆社会の集団性を基礎にして生まれ育ってくるのであって、凡庸でさかしらな政治家や資本家やインテリの観念的思考の中に宿っているのではない。

「非日常=ハレ」の心を持っていなければ、人としてのセックスアピールも知性もない。

 

人の心は、「非日常=ハレ」の世界にあこがれている。

こんなにも嘘ばかりつきたおす現在の政府や官僚をわれわれ民衆はなぜ許してしまうのかといえば、嘘もまた「非日常=ハレ」の世界だからかもしれない。嘘を抱きすくめてしまうのは人間の性(さが)のようなものだし、日本文化にはことにそうした要素がある。

安倍晋三麻生太郎にセックスアピールなんかあるはずもなく醜悪なだけだが、それでも人の心は「嘘=非日常=ハレ」の世界にまどろむように彼らを許してしまう。まあ嘘をつかない安倍晋三麻生太郎なんか、なお醜悪でみすぼらしいだけだろう。嘘こそが、彼らの支配のための武器なのだ。

とはいえ、こんな嘘ばかりの政治はそろそろやめにしていただきたいものだと思う。世界に対して恥さらしだし、今回のような疫病禍の事態においては、少なからず他国に迷惑をかけてしまう。また、嘘を糊塗しようとして、他国との外交交渉で足元を見られていいように転がされてしまうことにもなる。

公文書を改竄するとか、統計をごまかして景気が良くなってきているように見せかけるとか、史上最大規模の財政出動のコロナ対策だと大見得を切るとか、彼らにとっては現実を取りつくろうためのただのごまかしでも、聞かされる民衆はその嘘の「非日常性」を抱きすくめてしまう。まあ、結婚詐欺師の嘘と何も変わらないのだから、民衆もそろそろ目覚めてもいいころかもしれない。

現在のこの国の政治状況は、傷口が放置されたまま膿が出まくっているような事態なのだろう。

ここまでくれば、あの政府が垂れ流す嘘にまどろんでいた人々の意識もようやく変わってきて新しい時代(=ルネッサンス)がやってくのだろうか。

すでに新しい時代の新しい意識に目覚めている人は一定数いるはずだ。そしてそれは、今までにはないまったく新しい意識になることではない。人類普遍の人間性=集団性を取り戻す、というだけのことだ。すなわち、ただ他愛なくときめき合い助け合う関係になろうとすること、それだけのことだ。

この非常事態の最前線に立っている医者や看護士は、みずからの死を賭してがんばっている。われわれは、そのことを想わねばならない。そして、世界中の死にそうな人々に対して「どうか生き残ってくれ」と願わねばならない。さらには、この国の政府や官僚がいかに醜悪かということに気づかねばならない。その向こうに「新しい時代」がある。

 

この事態が長引けば新自由主義膨張主義的な社会経済の構造が変わってくる、といわれているわけだが、そうなれば人々の意識も避けがたく同じではいられなくなってくる。もちろん既得権益者たちの多くはぎりぎりまでその流れを押し返そうとするだろうが、民衆の側はあんがいスムーズに順応してゆくにちがいない。難しいことじゃない。「もう死んでもいい」という勢いで他愛なくときめき合い助け合ってゆくこと、そういう人類普遍の伝統に還ればいいだけのことだ。人類の民衆社会にはそういう「原始性」が残っている。

まあヨーロッパは国の人口が半分になってしまうような疫病(=ペスト)を体験したという歴史を持っているから、現在はこの国以上に民衆どうしが助け合っている。しかしこの国の民衆社会だって、江戸時代以前は世界のどこよりも村で完結した自治運営のシステムを持っており、それが疫病の広範囲の蔓延を防いだともいわれている。それに、他愛なく新しいものに飛びついてゆくこと、すなわち「進取の気性」の伝統があるから、いざ目の前に「新しい時代」の空気が漂ってくれば、かんたんにそれまでのことを忘れてしまう。

まあこの国の権力社会はもともと民衆社会の意識と大きく乖離しているのだが、ひとまず民主的選挙制度の世の中だから、民衆の意識が変われば権力社会だって変わらざるを得なくなる。現在の彼らが民衆を無視して政治をしているのは、民衆の意識もまた他愛なく戦後の高度経済成長によって形成された新自由主義的拝金主義的近代合理主義的な社会システムに洗脳されてしまっているし、嘘の世界にまどろんでいたいという怠惰で横着な心性の伝統も持っている。

とはいえ明治維新にしても、民衆社会の「ええじゃないか騒動」や「おかげ参り」等々のムーブメントの盛り上がりに押し上げられながら起きてきたことだったわけで、民衆社会の「祭りの賑わい」のような「盛り上がり」があれば時代は変わる。

この国の権力社会は、大和朝廷の発生以来もともと自立的主体的な存在ではなく、天皇と民衆社会のあいだに寄生するようにして存在してきたわけで、明治維新の幕府対薩長の戦いだって、けっきょく天皇に寄生していったほうが勝利したのだし、そのとき彼らは天皇に寄生することによって戦争の士気が増大することを実感したにちがいない。そしてそれは、民衆を支配する力を手に入れることでもあった。

われわれは天皇を権力者の手から取り戻さねばならない。われわれは今、明治以来の大日本帝国に先祖返りするか、新しい時代に漕ぎ出すかの岐路に立っている。

これはたぶん、天皇制の問題でもあるのだ。

ただ、この国の伝統=歴史風土のことを考えれば、天皇制を失くせばいいという議論は差し当たって成り立たない。天皇に責任はない。天皇は「神」ではない。それが天皇という存在の本質であり、絶対的な「法」によって人を支配する「神=ゴッド」を持たない歴史を歩んできた日本列島の民衆社会は、他愛なくときめき合い助け合いながらなんとなくの「なりゆき」で社会を運営してゆくためのよりどころとして、さしあたって「神=ゴッド」ではないところの「かみ=天皇」を「祭りの賑わい」とともにみんなして祀り上げていった。「神ではない」ことが、天皇が「かみ」であること証しなのだ。

「かみ」は「人間」であり、「人間」が「かみ」になる。「かみ」を漢字で書けば「上」であり、古代の大和朝廷発生以前の時代のことを「上代(じょうだい=かみよ)」という。すなわち古代の人々は、昔の時代ことを「かみのよ」といった。それが人間の世の中だったことは当然だが、「かみの代」は「神の代」と記すこともできるのであり、そうやって「古事記」という神話が生まれてきた。

したがって、戦後の天皇による「人間宣言」はまさに天皇ほんらいの姿に戻ることだったのであり、民衆はそのことに何の違和感も持たなかった。そしてそれは、天皇を民衆の手に取り戻すことだった。

なのに今また、戦前の大日本帝国に逆戻りしようとしている。

明治以来、天皇が右翼思想の玩具にされてきたことが問題なのだ。大和朝廷発生以前の天皇は、民衆社会が他愛なくときめき合い助け合うためのよりどころとして生まれてきたのであり、その原点を改めて問うてみることは無駄ではないのではないだろうか。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

あきれ果てて、ものも言えない

承前

空々しい「緊急事態宣言」なんか出されても、なんのこっちゃ、という話である。

僕はすでに老人だし不健康な生き方をしてきたから、もしもコロナウイルスに感染したら、志村けんのようにあっという間に死んでしまうにちがいない。

それでも、とくに切迫感とか恐怖というようなものは湧いてこない。おそらく、感染してかはじめてうろたえるのだろう。

まあ、世の中のほとんどの人がそんなところかもしれない。それに若くて健康な人は、感染しても重篤化しないといわれているから、なお平気でいられる。

また日本列島には、死に対して親密な文化の伝統がある。だから権力者はもともと民衆の命と生活を守ろうというような心意気というか責任感など持ち合わせていないし、民衆自身も守ってもらえるとも思っていない。そもそも歴史の無意識として、自分の命を守ろうとする意欲が希薄な民族なのだ。

われわれにとって大切なのは、自分の命を守ることではなく、自分の命をどう使うかということだ。つまり、貯金なんかしない、欲しいものを買う、というようなこと。それが、人として生きものとしての本能であるらしい。

自分のお金を減らさないためには貯金をするのがいちばんであるように、自分の命を守るためには、自分の命を使わないことがいちばんだ。したがって「自分の命を守るために自分の命を使う」という本能は原理的に成り立たない。

自分の命を使うことは自分の命を消費することであり、「死んでゆく」ことだ。自分の命を使って息をしたり飯を食ったり体を動かしたりすることは、それ自体「死んでゆく」行為でもある。

「生きる」という行為は、「死んでゆく」行為なのだ。

死に対する親密な感慨がなければ、生きるという行為は成り立たない。

根源的には、「生きようとする本能」などというものは存在しない。生きることは命を消費して死んでゆく行為であり、「生きたい」ということは「死にたい」ということでもある。この生のはたらきは、死んでゆくはたらきである。それはもう、哲学的にも生物学的にもそうなのだ。

われわれがときどき「死にたい」と思ってしまうのは生きものとしての本能であり、それ自体この生の命のはたらきから生じてくる感慨にほかならない。

そりゃあ死にそうになったら多くの人があわてふためくのだけれど、それが人間性の本質だとはいえない。われわれが「生き延びたい」と願っているのは「自我」という観念であって、「命=身体」のことを想っているのではない。

身体を動かすことは身体のエネルギーを消費することであり、エネルギーが大切で貯め込もうと思うのなら身体を動かすことはできない。身体を動かすことは身体を「空っぽの空間」として扱うことであり、筋肉に貯め込んだエネルギーが大切で失くしたくないのなら、身体なんか動かせない。身体を動かすことは、身体を忘れてしまうことだ。人は足のことなど忘れて歩いているから、どこまでも歩いてゆける。そうして、足が耐えがたいほど痛くなってしまっていることに気づいて顔をゆがめ、ようやく歩くのをやめる。生きるいとなみだって、まあそのようなことだ。死ぬ直前になって、はじめて命のことを想う。

 

「生きる」といういとなみの根源は、「命」のことを忘れてしまうことの上に成り立っている。つまり人は、「自分は死んでしまうかもしれない」ということを切迫して感じることはできない、ということだ。そしてそれが確定したときに大いにうろたえる。しかしそれでも最終的には、もともと「命」のことを忘れて身体を「空っぽの空間」として扱いながら生きている存在だからその事実を受け入れることができる。心配しなくてもいいんだよ‥…ということになる。

したがってたとえコロナウイルス感染が蔓延しても、すべての人が自分の命を心配して外出を自粛するとはかぎらない。もし自粛するとすれば、自分がすでに感染して「ほかの人に移すわけにはいかない」と考えたときだ。

意識はつねに何かについての意識である……これは現象学の定理であるが、つまり「意識は二つのことを同時に意識することはできない」ということを意味する。二つのことを同時に考えているようなときでも、じつはそれぞれを交互に思い浮かべているのだ。

であれば、われわれは、自分のことと他者のことを同時に思い浮かべることはできないのであり、他者のことを思い浮かべているときは、自分のことは忘れている。言い換えれば、自分のことを忘れているときには他者のことを思い浮かべている、ということ。すなわち、自分の「命」のことを忘れて生きている存在であるわれわれは、つねに他者のことを思い浮かべて生きている存在でもある、ということだ。他者のことを思い浮かべていなければ、生きていることにならない。

人は、他者が生きていて(存在していて)くれないことには自分が生きてあることのできない存在であり、自分が生きてあるためには自分(の命)のことは忘れていなければならない……人は根源において、自分の命を他者に捧げている存在である……まあ突き詰めて考えれば、そういうことになる。

したがって、「自分の命を守るために外出を自粛してください」という要請は、人間の本質にかなっていない。自分の命なんかどうでもいい、大切なのは他者の命なのだ……人は根源においてそのようにして生きている。それはもう、倫理道徳の問題ではない。生きものとしての命のはたらきにおいてそうなのだ。

 

命のはたらきとは「エネルギーを消費する」ことであり、「死んでゆく」ことである。あの有名な『利己的な遺伝子』の著者であるリチャード・ドーキンスは、生物とは「生存機械」であるといったが、そうではない、それは「死んでゆく機械」であり、「遺伝子」だろうとそれを構成するひとつひとつの原子だろうとそれ自体では生存=存在することができずに他者の生存=存在を必要とするのであれば、根源において「利他的」なはたらきであるというべきではないだろうか。

遺伝子とはいくつかの原子が集まった分子のことをいうわけで、そのこと自体が「利他的」であることを意味している。遺伝子=分子だってそれ自体では生きられないから無数に集まって、ついには人間や猿や鳥や魚や虫や花や草木になっていった。こんなことは、小学生でもわかる理屈ではないか。

またライオンは食料となる草食動物がいないと生きられないし、すべての動物は植物が二酸化炭素を吸って酸素を吐き出してくれないと生きていられないのであり、そうやって「生物多様性」が構成されているのであれば、それはべつにドーキンスがいう「利己的な生存競争」の結果だとは僕は思わない。

ここでは詳しくは書かないが、「適者生存」というダーウィニズムおよびナイーブな生命賛歌を基礎にしたドーキンスの思考=認識は根源的原理的に間違っている、と僕は考えている。

ライオンの死は、バクテリアの生存を助けている。すべての死は、すべての他者の生を助けている。これが「生物多様性」の原理だろう。まあ、女が子を産み育てることだって、原理的にはみずからの死と引き換えに他者を生きさせる行為なのだ。

すべての生命体は「やがて死んでゆく」という前提の上に存在しているのだし、人間だって本能的無意識的なところではその前提で思考し行動している。それはもう、生命が素晴らしいとか素晴らしくないとかということとは別の問題であり、そういう事実があるというだけのことだ。

命は「利他的」なはたらきであり、生きものは自分の命を投げ捨てて(=忘れて)他者を生きさせようとする本能を持っている。つまり、個体であろうとその中の遺伝子だろうと遺伝子の中の原子であろうと、存在それ自体が「利他的」であるということ。それが、ドーキンスいうところの「生きものは<自己複製子>をつくる」ということだろう。

 

疫病が広がれば、多くの人が人間性の自然に立ち還る。あのトランプやボリス・ジョンソンでさえ立ち還るのに、この国の総理大臣をはじめとする政府官僚ばかりがなぜ立ち還れないのか。それは、この国の伝統がいかに蝕まれているかということを物語っている。もともと伝統文化として世界のどこよりも人類の原始性を洗練させてきたはずのこの国において、それがもっとも失われようとしている。まあ、「洗練度」が高いからこそ、「脆弱」だという一面も持っている。そこが、この国の文化伝統の危うさだろうか。

疫病対策の本質は、他者(=どこかのだれか)を生きさせるためのいとなみであり、もともと人は「自分が生き延びるため」という目的を切実に持てるような存在ではない。だからこんなご時世でも年寄りがらふらと花見に出かけてしまうし、サラリーマンは危険を承知で満員電車に乗って出勤することができる。何より医者や看護婦は、よく逃げ出さずにやっていられるものだと思う。彼らの献身性にこそ人間性の本質があるわけで、現在のこの国の政府官僚をはじめとするどこかの犬畜生以下の人間たちを基準にして人間性を考えることなんかできない。

命のはたらきとは死んでゆくはたらきであり、死んでゆく(=エネルギーを消費する)かたちで活性化する。この地球上の生物は、みずからの死と引き換えに他の生物を生きさせるというかたちで進化してきたのであり、そうやって現在の生物多様性が成り立っているし、そうやって人間の「献身性」が成り立っている。

われわれは今、世界でもっとも「献身性」の希薄な者たちにこの国の運営を任せている。この国はもう、滅びるしかないのかもしれない。しかし、滅びることはめでたいことで、滅びたのちに生まれ変わる。

現在のこの国は世界でもっともダメな国らしいが、滅びたのちに世界でもっとも早くポストモダンの新しい時代を迎えるのかもしれない。

まあ、滅びるほかないようなダメな国になってしまうのも、この国の歴史風土なのだ。現在の支配者たちがどれほど醜悪であろうと、戦前戦中の支配者たちだって大差なかったのだし、古代の大和朝廷の発生以来何度でも見てきた顔にちがいない。そして民衆がそれを許してしまうのも、つまりは死に対して親密な文化の歴史を歩んできたこの国の伝統であり、いいとか悪いとかということ以前の問題だ。

西洋には受難を克服しようとする文化の伝統があるのに対して、この国では受難を生きることそれ自体を洗練させてゆこうとする文化の伝統がある。

 

人は、死に対して親密な存在であるがゆえに、利己的にも利他的・献身的にもなる。

この世のすべてのことは許されるのだろうし、政治経済オンチである僕にはもう、現在の政府官僚がとっているこの事態の対策のいかがわしさがどこにあるのかということはよくわからない。ただ、底知れないほどにニヒルで冷酷な思考や態度であることは、なんとなくの直感としてわかる。彼らには、人間として生きものとしての感受性が決定的に欠落している。

無常ということ……あはれ・はかなし……すべてはゆめまぼろし……日本文化の美しい伝統には、ひとつ間違えばそういう無残で無機質な人間を生み出してしまうという側面があるらしい。まあ、ただ小ずるいだけだ、ともいえるわけだが、彼らは人間性の自然である利他性=献身性をすっかり失くしてしまっている。人の心を持っていない。人の心は環境世界によってつくられるわけだが、現在のこの国の権力社会は、人の心が生まれてくるような環境世界になっていない。この国の人の心は、民衆社会の伝統において生成しているのだが、現在のこの国の権力社会の心はあまりにも民衆社会から乖離してしまっているし、民衆社会もまた伝統が大きく蝕まれている。

こんなときに「マスク二枚でどうだ!」といってドヤ顔するなんて、気が狂っているとしか言いようがない。108兆円の事業規模だといっても、中身のないただの目くらましにすぎない。じっさいに国が支出するのはその20パーセント以下で、世界中の国でやっている個別の現金給付をしようというつもりはさらさらなく、国民なんか安っぽい精神論でごまかしてしまうことができると彼らは思っている。その卑劣さは、人格がどうの思考力がどうのという以前に、現在の権力社会は、政治家も官僚も資本家もだれもがそういう発想をしてしまうような構造になっているからだろう。総理大臣はまわりから進言されたことをうのみにしているだけで、彼にはこの程度の対策ではどうにもならないということを判断できる能力を持ち合わせていない。悪意を持った確信犯はまわりの者たちで、総理大臣自身は、悪意も愛もないただのの空っぽの「器」にすぎない。だから、こんな空疎な対策をなんの後ろめたさもなく自信たっぷりのドヤ顔で差し出すことができる。まわりの者たちからしたら、まことに使い勝手のいい「道具」なのだろう。

まあ、だれもが平穏無事に生きていられる世の中ならともかく、彼らの政策でこの非常事態を乗り切れるはずがない。いろんな意味でこの国が「焼け野が原」になって、はじめてだれもが目覚めるのだろうか。

世界中のどれほど強権的な独裁者でも、現在のこの国の権力者たちに比べたらずっと人間的だ。

 

あの総理大臣以下の現在の愚劣で醜悪極まる権力者たちのことを思い浮かべただけで、ほとほといやになってしまう。こんなこと書いていてもむなしいばかりだ。僕のような無知な人間が何を書いてもどんな情報も与えられないし、だれを説得できるわけでもない。それでもこのこと以外のことを書いてはいけないような強迫観念に責められるのは、なぜだろう。

もしかしたらそれは、われわれが今、太平洋戦争の敗戦前夜のとき以来の大きな時代の転換点に立たされている……という思いがあるからかもしれない。あのときの政府も軍も官僚たちも、愚劣で醜悪極まりなかったはずだ。

この国の権力社会は、非常事態になるといつだっていつだって愚劣で醜悪になり、民衆もそれに引きずられてしまうことになるらしい。ふだんは権力社会と民衆社会に「契約関係」がないお国柄だから、民衆社会は国家に対する要求の仕方をよく知らない。だから他愛なく引きずられてしまうし、国家もそれをいいことに民衆に忖度するということをしない。そうやって太平洋戦争のあの無残な敗戦へと雪崩のように崩れ落ちていった。

今回も、こんな場当たり的で中身のない対策ばかり繰り返していたらきっとあのときと同じ結末になるだろう、と多くの識者が指摘している。

それはそれでかまわない。滅びてゆく(=死んでゆく)ことこそこの生の本質なのだ。

ただ、僕のように社会に背を向けて生きてきた人間でも、「時代の終わり」を目撃したいという思いがある。

この国はもう、完全に「自滅」のフェーズに入っている。総理大臣をはじめとする政府や官僚や資本家たちやネトウヨの知識人や庶民などはもう冷酷な差別主義者として完全に狂ってしまっているし、ご都合主義・日和見主義のマスコミや偽善的な知識人や富裕層などもたくさんいて、それを許してしまっている時代の空気がある。

われわれはもう「こんな国、さっさと滅びてしまえ」と呪うしかないのだろうか。

疲れた……。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

疫病の哲学

「感染爆発(オーバー・シュート)」などといっても、この国で完全な「都市封鎖」というのは難しいらしい。

法律的な問題だけでなく、歴史風土としての国民のメンタリティとか社会構造とかの問題もある。

四大文明発祥の地をはじめとする大陸の古代都市はひとまず「城塞」に囲まれた大集落として生まれてきたのだが、この国の最初の都市である奈良盆地の大和王朝の大集落には「城塞」がなかった。異民族に都市が侵略されるという歴史を歩んでこなかったからだ。戦国時代だって、城が攻められたときでも城のまわりの都市は比較的安全だった。また、ヨーロッパにおけるユダヤ人を閉じ込めた「ゲットー」のような都市をつくったこともない。

この国には「都市封鎖」の伝統がない。そして村に疫病が流行したときには、民衆による自治運営のシステムが発達していたから、村が自主的に封鎖状態になってやりくりしてきた。

今回、東京都の知事が外出の自粛要請をするばかりで強制的な命令を下さないのも、そのための経済的な補償をしたくないということもあろうが、民衆が自主的にそういう状態をつくってきたという歴史的ないきさつというか伝統もある。

この国の権力社会には、民衆を守ろうとする「愛と献身」の伝統がない。この国には、あんな愚劣で醜悪な支配者を生み出してしまうような社会構造の伝統がある。

権力社会と民衆社会が「契約関係」でつながっている欧米の社会は、どんなに愚劣で醜悪な支配者でもいざとなったら民衆に対して「愛と献身」の態度を示すほかないようにさせる伝統がある。それをわれわれは、今回のコロナウイルス騒動で思い知らされた。世界に比べてこの国の支配者の判断はなんといじましく愚鈍で卑劣であることか。このまま事態が進めばとんでもない悲劇的終末(カタストロフィ)が待っているかもしれないし、日本列島の住民の心には、そういう「滅び」を待ち受け抱きすくめてゆくという歴史の無意識が宿っている。だから、愚劣で醜悪な支配者を許してしまう。

ここまで来ても、まだ能天気でいられる日本人がたくさんいる。それは、ただ自己中だからとか情報を知らないからというだけでは説明がつかない。

国なんか滅んでしまえばいい。自分も国もろとも滅んでゆけるのなら、それはそれでめでたいことかもしれない……それが「無常」という日本人の世界観・生命観の伝統であり、たたえず「新しい時代」への扉を開くイノベーションを生み出してきた人類普遍の世界観・生命観でもあるのかもしれない。

 

今回のコロナウイルス騒ぎは、政治や経済だけの問題ではなく、文化の問題でもある。命とは何かとか、人間とは何かということを考えさせる問題でもある。

この国の政治や経済の支配者たちはろくでもない人間ばかりで、文化のシーンをリードする知識人たちの言うことだって、なんだかあまり信用することができない場合が多い。

まあ人間そのものがろくでもない生きものだともいえるわけだが、今やこの新型コロナウイルスは、人間のつくった文明社会だってろくでもないしろものだということを世界中に教えてくれている。

このウイルスは、文明社会が生み出した。この文明社会がろくでもないしろものだということを教えてくれる存在として生まれてきた。放射能だって、まあそういう存在であるのかもしれない。

人間も文明社会もろくでもないしろものであり、その前提の上に立って人間は生きはじめる。

生命の尊厳とかより良い社会をつくろうといってもしょうがない。そんなものは人が生きることの前提にならない。そんなスローガンを掲げて人と人は殺し合い、国と国は戦争をする。

何もかもろくでもない、意味も価値もない。そして意味も価値もないことが生きてあることの意味と価値なのだ。その「空虚」こそが意味と価値であり、意味と価値は「空虚」なのだ。これは、僕の勝手な屁理屈ではない。現在の最先端の科学や哲学がそういっている。すべての物質は隙間だらけのスカスカの「空間」であり、哲学者だって「自己=主体」などというものはないといっている。

 

われわれの「意識」が根源において認識している自分の「身体」は、中身のない空っぽの「空間」であり、その「輪郭」に対する認識を基礎にして生きはじめる。身体を「物体」と認識しているのは空腹とか息苦しさとか病気とかの身体に「苦痛」が宿っているときであり、われわれはそういう身体の「物性」を忘れて身体を動かしている。身体を動かすということは、身体を空っぽの「空間」の「輪郭」として扱っているということだ。言い換えれば、この「輪郭」をうまく認識することができなければ、身体はうまく動かせない。その「輪郭の認識」が運動神経になる。ポール・ヴァレリーはこれを「第四の身体」と言い、この身体のことがわからなければ身体論の問題を解き明かすことはできない、とも言っている。

人間だけでなくすべての生きものは「身体」という「主体」を持っていない。言い換えれば「身体」という「主体」は、「物体」ではなく、「空っぽの身体」としての「空間の輪郭」である。

われわれにとって「死」の恐怖は「身体という物体」が滅びることにあるのではなく、「自己という主体」が消えてなくなることにあるわけだが、しかしそれは文明社会のたんなる制度的な観念にすぎないのであり、根源的な意識においては「自己という主体」を持っていない。だからこの世に死を怖がらない人はいくらでもいるし、どんなに死ぬのが怖いと悪あがきをしても最後はたいていの人がそれを受け入れる。

人は根源において死に対する親密な感慨を抱いている。だからこそ他者に対して「生きていてくれ」と願い、その死に深くかなしむのであって、死が怖いからではない。つまり、他者が生きていてくれないことには、みずから生の根拠を見出すことができないのだ。

みずからの生の根拠は、他者を生きさせることにしかない。だからみずからの命を投げ捨ててでも、他者を生きさせようとする。みずからの命を投げ捨てることが、この生の根拠なのだ。つまり、「もう死んでもいい」という勢いでい生きるいとなみが起きている。そうやって人を好きになるし、プレゼントをするし、看病や介護をする。

「もう死んでもいい」という勢いがなければ、看病や介護はできない。女が看病や介護が得意なのは、死に対して親密で「もう死んでもいい」という勢いを男よりもはるかに深く豊かにそなえているからであり、セックスだって「もう死んでもいい」という勢いでするから男よりもはるかに深く豊かなエクスタシーを汲み上げることができる。

死に対して親密だからこそ、他者を生きさせようとする。根源的には、他者を生きさせなければ人間の生なんか成り立たないのだ。

 

自然淘汰」という言葉があるが、人間以外に疫病対策をする生きものはいないだろう。

では、それは不自然なことか?

そうではない。

不自然な文明社会が疫病によってはじめて生きものとしての自然に目覚める、ということだ。そして、この国の政府官僚だけがそこに還ることができなくて、いつまでたってもぐずぐずと手をこまねいている。やっているふりだけはしても、肉や魚の商品券とかマスクが二枚だとか大企業の株価対策に国費を投入するとか、自分たちの利権に絡んだいじましく意地汚いことしか思い浮かばないらしい。

彼らには、「民衆」すなわち「どこかのだれか」の暮らしと命のことを想う、という人として生きものとしてのきわめて基本的な心の動きがなく、自分のまわりの利害関係者とのことしか頭にない。こんな非常事態になっても、彼らの頭に染みついた思考はまだそこから一歩も踏み出せない。

人間は、根源において、猿よりももっと生きものとしての自然に遡行した思考ができる属性をそなえている。つまり、誤解を恐れずに言えば、人類学の延長としてのチンパンジーやゴリラの研究よりもさらに基礎的な「生物学」の方がより「人間性」の本質に迫ることができる可能性を持っている、ということだ。

法律には「実定法」と「自然法」があるといわれており、この「自然法」とは歴史的伝統的な「慣習および常識」のことを指すらしい。そしてその「伝統」=「慣習および常識」は、猿の生態を基礎にしているのではなく、もっと根源的な「生きもの」としての「命のはたらき」を基礎にして形成されてきたのだ。

今回のコロナウイルス感染に際して世界は、強欲な支配者や資本家たちだってみな一定の「生きものとしての自然」に遡行する反応を示したが、この国の政府官僚や資本家たちだけが一緒になってぐずぐずと事の重大さを先延ばしにして、まともな手立てを打つことをしてこなかった。今からでも間に合うのかどうかわからないが、あの連中の醜悪さをいやというほど見せつけられた、という思いはぬぐえない。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

 

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かなしいコロナウイルス

このブログの現在のテーマは天皇制を中心にした日本文化論であったはずだが、ここにいたってはもう、何かコロナウイルスのこと以外のことを書いてはいけない気になってしまう。しかも、現在の政府や官僚の対応があまりにも愚劣で醜悪で、なんだかありえないことが起きている夢の中にいるような心地になってくる。

今どきの社会心理学においては、「リスクコミュニケーション」という命題があるらしい。すなわち、人々や社会の対する「愛と献身」の心意気で対話や議論を重ねながらその社会的リスクをできるかぎり回避しようとすること。カミュの『ペスト』などを読めばわかるようにヨーロッパにはそういう共同体の文化の伝統があるが、この国においては極めてあいまいだ。というか、「国は何もしてくれない」というのが伝統なのだ。

現在の世界的なコロナ感染に対して、世界は過剰に反応しているのに対して、この国の政府だけが過少に扱ってきた。生物兵器だか何だか知らないが、もしもこのウイルスがどんなに凶悪なものかということを世界中の支配者が知っているのだとしたら、この国の支配者だってそれ相応の対策を取ったにちがいない。武漢の情報は、1月の早い段階で官僚たちが収集していたはずだ。それでも積極的に検査をすることもなく「たいしたことはない、オリンピックは必ずできる」という態度に終始してきた。それはきっと、このウイルスがどうのという以前に、この国の権力者のメンタリティや生態の特異性の問題であり、世界の支配者だってこのウイルスの正体はよくわかっていないのかもしれない。しかしわかっていなくても、彼らはできるかぎりの対策を取ろうとしている。

ペストの致死率は70パーセントくらいだったらしい。それに比べたら今回のコロナウイルス肺炎の致死率は、それほど高くはない。それでも世界(特に欧米)の支配者たちは大いに警戒する態度を取った。

今回の伝染病の特徴は、致死率はそれほど高くなくてもかんたんには終息できないことにあるらしい。だから中国の支配者は、あえて武漢を封鎖するということに踏み切った。それをしないと、中国が世界中から悪者にされてしまう。だから、真っ先に収束させた、というところを世界にアピールする必要があった。習近平にすれば自国の人民が死ぬことなんか大した問題ではないが、共産党支配の正当性が危うくなるという心配があった。武漢を封鎖するということは武漢の人民を見殺しにするということで、そうやって事態の早期収束を目指した。武漢の実際の死者の数は、共産党発表の10倍あるいは100倍だといわれたりしている。とにかくまあ、彼らは秘密主義だから、正確な数はわからない。

この国の感染者数だって、そもそもほとんど検査をしていないのだからわかるはずもないし、検査を受けないまま肺炎で死んだ人はたくさんいて、その人たちも感染者かもしれないという前提で葬っているらしい。

この国が検査をしたがらないのは、オリンピックをしたいからということもあるが、てきとうにごまかしておけば民衆が大騒ぎすることはないと多寡をくくっているからだ。何しろ「民衆革命」が起きたことがないお国柄で、政府の発表をナイーブに信じてしまう民衆が一定数いる。それほどに支配者と民衆とのあいだに乖離があって、民衆には支配者を監視しようとする意識が希薄だ。だから、支配者になめられる。何しろ50パーセントが選挙に行かないのだもの、なめられるに決まっている。

われわれは、完全になめられている。野党はすっかり弱体化してしまっているし、現在のこの国の政府に圧力をかけることができるのは、世界の情勢だけかもしれない。世界からすっかり幻滅され孤立してしまえば、そのときようやく目覚めるのかもしれない。

 

まあ、本格的な防疫対策を取らなくても、この国の人口が劇的に減少するということもないのかもしれない。ほとんどの人は感染しても無症状だし、多少の症状が出ても治癒に向かう。免疫力の弱い人だけが重症化して死ぬ。とすれば、普通のインフルエンザとたいして変わりない。もともと老人が多すぎる国だし、国の経済のことを考えれば、老人の人口が減少することはべつに悪いことではない。生物学的にも「自然淘汰」の範疇だと言えなくもない……そういう考えは許せないといっても、そういう政府なのだからしょうがない。

人が死ぬことは、幸福でも不幸でもない。ただ、人は他者の死を深くかなしむ存在である、ということがある。そういう無意識を持っているのが人間であり、だから今、世界中がコロナウイルスのことで大騒ぎになっている。

「伝染病が発生する」とは、どこかでだれかが死んでいっていることに心が大きく動揺する、という体験なのだ。人の死はいつのときでも世界中であたりまえに起きていることだが、ふだんは忘れている。が、伝染病によって改めてそのことに気づかされ、大いにうろたえる。うろたえないのは、そんな人間としてのあたりまえの感性がすっかり鈍麻してしまっていることを意味する。トランプや習近平でさえどこかでだれかが死んでいっていることに動揺し、それなりの対策を講じようとしているのに現在のこの国の支配者たちだけが能天気を決め込み、その場しのぎのあいまいな対応に終始しており、世界中がそれに幻滅し苛立っている。こんなことを続けていたら、民衆は衛生的にも経済的にもますます窮迫してゆくし、この国自身が世界中から敵視されてしまう。何はともあれ中国の習近平はそのことを察知して「武漢閉鎖」という思い切った手を打ったわけだが、この国の政治経済の支配者たちは、いざそのことが現実になるまで気づかないにちがいない。何しろ四方を荒海に囲まれた島国に孤立している歴史を歩んできた民族であれば、他国(=異民族)と敵対し争うことも仲良く連携することもよくわかっていない。

民のことを想う支配者が育ちにくいのが、この国の歴史風土なのだ。つまり、民を異民族から守ってやる必要もなければ、民とともに異民族と連携してゆく必要もなかった。したがって民もまた、支配者に対する関心や要求を強く抱く伝統がない。

この国の支配者には、世界と連携しようとする意識も、民衆を守ろうという意識もない。民衆なんか放っておいても自分たちでなんとかするだろう、というくらいにしか思っていないし、世界における自分の国の役割というものもちゃんと考えることができない。だから外交交渉が下手くそなのだし、民衆に対してだって、一方的に支配するだけで、調和した関係を結ぶということがうまくできない。

 

日本列島にはコミュニケーションの文化がない、というのではない。権力者と民衆のあいだにはそれがないというだけのことだし、権力社会にはコミュニケーションの文化がない、というだけのことだ。だから国会の議論が平板でつまらないのだし、外交交渉が下手なのだ。現在は、そういうこの国ならではの権力社会の非人間的な野蛮さが民衆社会にまで下りてきて、もともと民衆社会に根付いてきたコミュニケーションの文化の伝統を侵食している。現在の無能な政権与党や強欲な大企業資本家等によって、そうしたコミュニケーションを喪失した社会構造がますます加速してしまっている。

しかし民衆社会の伝統が消えてしまったわけではないし、たとえば政治権力が今とは逆向きの民衆に寄り添った勢力へと反転すれば、時代の気分も社会の構造もあんがいかんたんに変わる可能性がある。

日本列島にコミュニケーションの文化はあるのだ。あの大震災のときに人々が混乱や暴動を起こすことなく粛々と連携していったのは、まさに日本的なコミュニケーションの文化の伝統にほかならない。

コミュニケーションとは心を通い合わせること。言葉によるコミュニケーションとは言葉を捧げ合うことであり、言葉とは本質において他者への「捧げもの」なのだ。

伝染病だって、ひとつのコミュニケーションだろう。だから、世界中の支配者が今、国は国民のために何をなしうるかということを本能的に模索しているというのに、この国の支配者たちだけがあいまいな態度に終始して世界中から幻滅され批判されている。ほんとに彼らは、どうしようもなく鈍感で無能だ。そして支配者が鈍感で無能でも国のいとなみは何となく回ってゆくという伝統がこの国にはある。この国には、支配者と民衆のあいだに「契約関係」がない。

とくに現在の支配者たちは極め付きの鈍感で無能だから、国が国民のために何かをするということなど、ほとんどあてにできない。また、現在のコロナウイルス対策で政府の言っていることのほとんどは、「要請」という名目の「民衆どうしの協力で守れ」というようなことばかりである。

この国の社会は、権力者と民衆のコミュニケーションが希薄であるという関係性を歴史的構造的に抱えている。

 

われわれは政治の話など嫌いだ。それは、民度が低いからではない。民衆社会のことは権力者など当てにせず民衆どうしでやってゆくという意識が高いからだし、そういう歴史を歩んできたのだ。この国の民衆は、そういう歴史の無意識を抱えている。だから、インテリだろうと無知な民衆だろうと金持ちだろうと貧乏人だろうと、選挙に行かない人がとても多いし、こんなにも無能で醜悪な政府を許してしまう。

われわれは「民衆どうしの協力で守れ」といわれてうなずいてしまう。とはいえうなずいても、地域社会のコミュニケーションの文化の伝統があやしくなってきている御時勢だから、協力や連携がまるでできていない。

どうしてこんな世の中になってしまったのだろう。たしかにろくでもない政府だが、民衆社会の退廃がそれを許してしまっている。選挙に行かないということだけではない。こんなにも腐敗した自民党政府がいいとか自民党政府でもかまわないと思うような怠惰な心の民衆が3割も4割もいるということが、すでに絶望的だともいえる。

選挙に行かない者たちを責めても説得しようとしても、彼らを投票所に向かわせるのはけっしてかんたんなことではない。彼らの半分は、意識が低いのでも関心がないのでもない。政治なんか嫌いだ、というかたちで関心を寄せているのだ。彼らを投票所に向かわせるために必要な情報は、政治についての知識を与えることでもなければ、正しい政策を提示することでもない。すでに知っていようといまだに知らなかろうと、彼らはそんな情報などほしがっていない。

この国の投票率の低さは、たしかな民衆社会の集団性(=コミュニケーション)の文化の伝統を持っていることの証しでもある。

では、どうすれば投票率が上がるのか?

まあ、罰金制度にするとかネット投票ができるようにするとかいろいろ方法はあるだろうが、「嫌われ者」である現在の政権がそんなことをするはずがないし、なんのかのといっても投票に行く者たちの半数近くは現政権に投票してしまうのだ。

現状では、投票に行く者たちの意識が変わらなければ、この醜悪な政権が倒れて新しい時代がはじまるということはない。しかし因果なことに彼らは本質的に変わりたがらない者たちであり、やはり変わることができる者たち、すなわち新しい時代を受け入れることができる者たちが選挙に参加してこなければならないのだろう。そしてこの者たちの心を動かすのは正しい政策ではなく魅力的な政治家の登場なのだ。彼らはもともと政治なんか嫌いなのだから、そのとき選挙は政治的な手続きというよりも、「祭り」のイベントとして盛り上がっていかなければならない。

新しい政治が生まれることは古い政治が滅びることであり、政治が滅びることが新しい政治が生まれることだ。新しい政治が生まれる選挙は政治を滅ぼす選挙であらねばならないのであり、したがってそれは「政治的な手続き」としての選挙ではなく、政治を滅ぼす「祭りのイベント」であらねばならない。

つまり、「政治の話なんか嫌いだ」という者たちがいなければ新しい政治は生まれてこない、

政治オタクが寄ってたかってしゃらくさい議論をしていても新しい政治は生まれてこない、ということだ。

「政治の話なんか嫌いだ」という日本列島の民衆社会の伝統は、必ずしも悪いことだけではない。それこそが新しい政治が生まれてくる原動力になったりもする。彼らは、この社会が政治によって動いているとは考えていない。この社会は人と人の関係(=コミュニケーション)の総体として成り立っている、と考えている。そういうことに豊かな体験をしてときめいたりかなしんだりしながら生きていれば、人を支配する政治という世界に対する関心はあまり強く湧いてこない。むしろ拒否反応になる。そんなわずらわしいことはごめんだ、と思う。この社会の片隅で生きていれば、それはごく自然な感慨ではないだろうか。

 

インテリだろうと無知な庶民だろうと、政治に関心のある者たちが政治をだめにしているという側面はたしかにある。

なぜなら政治とは人を支配することで、政治に関心があるということは支配欲が強いからだともいえる。もちろん社会に献身したいという願いで政治とかかわっている者もいるにはいるだろうが、政治家になって権力を持つとどうしても支配欲を膨らませてゆくことが多い。それはたぶん、もともと支配欲が強いくせにないふりしていただけなのだろうし、政治とは「愛と献身」の名のもとに人を支配することだ、ともいえる。

ともあれ今回の伝染病の蔓延という事態に陥ると、だれもが避けがたく「愛と献身」の思考や態度を余儀なくさせられる。ふだんは強欲なだけの権力者たちだって、世界中で「愛と献身」の態度を余儀なくさせられている。

なのにこの国の政府官僚や資本家たちだけが、自分たちの利権にこだわっていつまでたってもいじましく意地汚い態度を取り続けている。なんと愚劣で醜悪な者たちであることか。彼らは、現在のこの国の社会システムに寄生して甘い汁を吸ってきたそのぶんだけ、この非常事態においてその愚劣さと醜悪さをさらしてしまっている。たぶん、思考停止に陥って、どうしたらよいのかわからなくなっているのだろう。もともと利権を漁ることしか能のない連中なのだ。

トランプやボリス・ジョンソンでさえできる「愛と献身」が、どうしてこの国の総理大臣にはできないのか。彼はこの国の権力者の愚劣さと醜悪さの伝統をもっとも濃密に引き継いでいるわけで、それは、そんな権力者を他愛なく許してしまう国民性とはまた別の問題なのだ。民衆が許してしまうからこんな愚劣で醜悪な権力者があらわれてくるのだし、その「許してしまう」ことは必ずしもネガティブなことだともいえない。それだって、ひとつの「愛と献身」だろう。

なんともなやましい。

いずれにせよ、カミユの『ペスト』の物語のように、「愛と献身」がなければこの非常事態を終息させることはできないにちがいない。つまり、だれもが自分の命より他者の命を優先させる心意気を持たなければ、この事態に立ち向かえない。立ち向かう人がいなければ克服できない事態であり、権力者がその先頭に立たなければならないことを歴史の教訓として彼らは知っている。

疫病の歴史は世界中のどの地域でも持っているが、とくにヨーロッパはネアンデルタール人の原始時代以来もっとも広く頻繁に往来のあった地域であれば、世界でもっともその対策に苦慮し格闘してきた歴史を持っている。そんな歴史の無意識として、「愛と献身」の心意気を持たなければ克服できないということを骨身に染みて知っている。

トランプやボリス・ジョンソンに人間的な誠実さがそなわっているなどとはだれも思っていない。それでも彼らは、その歴史風土に促されながら、無意識のうちに支配者としての「愛と献身」の態度を実行しようとしている。

しかしこの国の歴史においては、疫病や飢饉に際して朝廷や幕府が献身的に民衆の面倒を見たということはない。いつだって地方の藩や村ごとの連携によってしのいできた。

この国の権力者は、民衆がみずからの「受難=死」を甘んじて受け入れる人種であることをよく知っているし、そこに付け込んで支配してゆくのがもっとも上手な政治であると考えている。

まあ日本列島は台風や火事や地震等の災害が頻発する土地柄であるが、それらはあくまで地域限定で起きることであり、日本列島全体の支配者が面倒を見ることではない、という伝統になっている。この国の権力社会には、民衆に対する「愛と献身」の伝統はない。昔も今も、地域的な藩や県や市町村の名君は数多いても、朝廷や幕府や政府の名君など二・三の例外を除いてまずいない。その伝統が、今回のコロナウイルス騒動によってみごとにあらわれている。因果なことに現在のこの国の総理大臣の愚劣さと醜悪さは、この国の権力社会の伝統そのものでもある。

こうなったらこの国はもう滅びるしかないのかもしれないし、「滅びる」ということを受け入れるのが民衆社会の伝統でもある。そうして、そのときようやく「新しい時代」がやってくるのだろうか。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

なにやってるんだか

この国のコロナウイルスの感染者の実数は、いったいどれくらいだろうか。国は本気できちんと検査をしていないのだから、まるでわからない。「そのうち終息するだろう」という安易な考えで小手先のごまかしばかりをしているから、人々はよけいに不安になる。そしてその不安は、自分も罹患するかもしれないという怖れだけではない、どこかでだれかが見えない理不尽な力によって死んでいっている、ということに対する嘆きやかなしみや怖れでもある。その「どこかのだれか」を想う心が共有され、たちまち世界中に拡がっていった。一地域限定の災害と違って疫病は世界中に拡がってゆくし、今やインターネットも発達しているし、さらにはウイルスの正体や治療法もまだわかっていないという不安もある。すなわちその「不安」は「好奇心」でもあり、そうやって世界中に拡がっていった。

「わからない」からこそ、世界中がけんめいに対策を探究しているときに、この国の政府官僚ばかりが「放っておいてもそのうち終息する」と決めてかかって場当たり的な対応ですませてきた。そのために国民はますます疑心暗鬼が募り、そのあげくにトイレットペーパー騒ぎが起きたりする。

おそらくこの国のコロナウイルスのキャリアの数は、政府発表の10倍はいる、いや100倍はいるだろう、とだれもが思っている。

ここまでくればもう、今回の感染拡大に対してこの国の政府の考えていることややっていることがいかに場当たり的で支離滅裂かということは世界中に知れ渡り、当然のように批判されまくっている。彼らには、世界基準の「危機管理」とか「安全保障」のたしなみがまるで欠落している。そんなことでは世界としても大迷惑だし、また隙だらけだから抜け目のない国にかんたんにしてやられたりする。

ほんとにもう、世界中に恥をさらしまくっている。

 

 

この国の権力者ほど民衆の心から遊離してしまっている者たちもいない。そのことを、われわれはあらためて思い知らされた。彼らは伝統的に、民衆を強く支配しつつ、民衆から見放されてしまっている。つまり、両者のあいだに「契約」や「連携」の関係がないのがこの国の伝統なのだ。

日本列島では、権力社会から独立した民衆だけの自治の伝統がある。

とはいえ、このような事態になればとうぶん選挙はしないのだろうし、このままこの醜悪な政権が続いてゆくことになる。

また、選挙になったとしても、野党が勝てる可能性は低い。なぜなら、民衆の心を集めるスターがいないからだ。

山本太郎をリーダーに担ぎ上げて結束すれば風が吹く可能性もあるが、既存の野党どうしの駆け引きとか意地の張り合いとかで、いまのところそんなふうに動く気配はまるでなく、またまたみじめな敗北の選挙で終わることだろう。そんなことを、何度繰り返せば彼らは気がすむのか。まあそういう結果に終わっても、現在の政治家たちは政治家であり続けることができるし、枝野幸男玉木雄一郎は党首の座に座り続けることができる。

というわけでけっきょく、政治家たちは与党も野党もそれぞれの地位と既得権益は安泰のままで、末端の民衆だけがさらに窮迫してゆくことになる。

選挙に行かないサイレントマジョリティが立ち上がって選挙に行かなければ世の中は変わらないし、サイレントマジョリティの心を動かす可能性を持った政治家は、今のところ山本太郎以外には見当たらない。

しかし野党共闘をするといっても、山本太郎が他の野党の党首と互角に渡り合おうとするなら、れいわ新選組がもっと大きくなる必要がある。そのためには、今まで選挙に行かなかったサイレントマジョリティが大挙してれいわ新選組の活動に参加してゆくという現象が起きてこなければならないのだが、残念ながら今のところそうはなっていない。彼が街頭演説をすれば1000人も2000人も聴衆が集まってくるのだが、その熱気がそのまままれいわ新選組の人気になっていない。けっきょく彼が、仲間内の教祖様になっているだけで終わっている。

たぶん、れいわ新選組の名前を広げる戦略が決定的に間違っているのだ。

現在の山本太郎とそのまわりのスタッフたちは、れいわ新選組の地方組織は作らないというか党員は募集しないという方針を決めている。このことを「なぜか?」と問われて山本太郎は、「みなさんは<主体的>に立ち上がってみなさんの組織をつくり、その上でれいわ新選組と連携してゆきましょう。そういう<有象無象>の集団がいちばん強いのです」と答えている。

一見もっともらしい答えのようだが、じつはまったく薄っぺらな屁理屈である。

たしかに無主・無縁の「有象無象」の集まりこそもっとも人間的な集団であり、そういうかたちになってこそ、無限に広がり大きくなってゆくことができる。しかし、「主体的」に立ち上がった人々のことは、「有象無象」とは言わない。主体的ではない集まりのことを「有

象無象」というのだ。

近代合理主義に使い古された「主体」などという言葉=概念をありがたがっているのは今や時代遅れなのであり、そもそもあなたは「主体」という言葉の意味がちゃんと分かっているのか……と山本太郎に言いたい。

 

「主体的」であることの究極は、「今だけ金だけ自分だけ」という目的に執着している状態である。そうやって集団はきつく結束したり、またそれゆえに固定化されたまま大きくなってゆくことができなかったり、さらにはそうした自我(=主体)と自我(=主体)がぶつかり合って集団が空中分解してしまったりする。

主体的な集団は、内部で権力争いをし、外部とは戦争をする。したがってそこでは、ゆるく広くつながり合って連携してゆくという関係は生まれてこない。

主体的な集団の典型は、帝国主義国家である。それは「自我の確立」をスローガンとする近代合理主義とともに生まれてきた。そうやって明治維新から太平洋戦争の無残な敗戦に至る歴史を歩んだこの国は「国体」という名の「主体」を標榜してゆき、個人はその「国体」に憑依しながら「主体=自我」の確立を目指した。

「自我=主体」という概念は、近代合理主義のもとで育ってきた。しかしそれは日本列島の伝統にはないもので、だからこそこの国を席巻し、だからこそなんだかひねこびたかたちで定着していった。つまり、「自我=主体」を否定する文化の歴史を歩んできた者たちが、まるで新しい玩具に飛びつく子供のように夢中になっていったあげくに自家中毒を起こし、あの無残な敗戦へと突き進んでいった。

「無常」とか「あはれ・はかなし」という世界観や生命観で「自我=主体」を消してゆく文化が伝統の日本列島で「自我の確立」というスローガンを信じ込むと、ただの「自意識過剰」の「自家中毒」になってしまう。日本人が近代合理主義に洗脳されてしまうと、ろくなことにならない。

まあ、西洋には西洋の歴史があるし、日本列島には日本列島ならではの世界観や生命観の歴史がある。西洋の歴史は文明社会の病理を引きずりながらそれを克服しようとしてきたし、日本列島のそれは、原始社会の健康な集団性の文化を残しながら文明社会に対するあこがれを生きてきたことにある。だから、他愛なく文明社会の近代合理主義に洗脳されてしまったのだが、しかしそれは、原始性を色濃く残した日本人には消化しきれない思想だった。

 

人間は「自我=主体」を捨てて「有象無象」になれるからこそ、ゆるやかにつながり連携しながら無限に大きな集団になってゆくことができる。

だから、山本太郎の「有象無象の集団になってください」という主張は正しく普遍的である。しかし「有象無象」とは「主体的」になれない者たちのことであり、そこのところを彼はわかっていない。

「有象無象」の集まりであることこそ人類の普遍的な集団性であり、日本列島の伝統でもある。

もちろん「有象無象」ということには、ネガティブな面もあればポジティブな面もある。

あの極東裁判では、A級戦犯の者たちですら、戦争をしようとする意思の有無を問われたとき、だれもが一様に「あれは会議の<なりゆき>だったのであって自分が率先して主張したのではない」と答えている。この国の会議なんて、国会だろうと会社だろうと町内会だろうと、有象無象の集まりよろしくだらだらと続いて、なかなか決まらない。

「有象無象」とは主体的に立ち上がることをしない者たちであり、その代表が選挙に行かない者たちだ。山本太郎とそのまわりのスタッフたちはその「れいわ新選組」という名前を自分たちで独占しないで、いったん支持者のみんなに差し出す必要がある。差し出されてはじめて立ち上がるのが、「主体的」ではない存在である「有象無象」の習性なのだ。

山本太郎は、選挙に行かない50パーセントの人たちに「一緒にこの腐った世の中を変えていきましょう」と呼びかけたい、というが、このままでは彼ひとりが教祖様になるだけで、れいわ新選組の党勢が拡大してゆくことははなはだおぼつかない。

山本太郎の現在の人気からしたら、れいわ新選組の支持率だってとっくに10パーセントを超えていてもおかしくないのだが、依然として2パーセント前後を上下しているだけである。NHKや大手新聞に取り上げられないから、という言い訳は成り立たない。口コミだけでも日本列島を席巻することはできる。トイレットペーパーの騒ぎなど、一日で日本中を駆け巡ったではないか。それはまさに「有象無象」の連携によって生まれてきた現象なのだ。

人間性の自然・本質は「有象無象」であることにあり、それによって集団の活性化と拡大が起きる。

 

僕は山本太郎とれいわ新選組以外に現在のこの国における政治の希望はないと思っているひとりだが、彼らの組織運営に対しては「いきがって何をばかなことしてやがる」といいたくなることがいくらでもある。

「主体」などという言葉を振り回ししていきがっているんじゃいよ、ということ。

素粒子理論だか何だか知らないが、現在の物理学の最前線では、「すべての物質の内実はスカスカの空間である」という認識になっていて、だから量子がそこを突き抜けてゆくことができるらしい。つまり、物質の「主体」などというものはない、ということで、それを仏教では「色即是空・空即是色」という。そして現在の最先端の哲学でも、「自己=主体」などというものはない、という問題意識が主流になってきている。

科学においても哲学においても、「物質」とか「存在」とか「主体」とか「自己」とか、そういう問題設定が反省される時代に差し掛かっている。「非物質」とか「非存在」とか「空間」とか「客体」とか「他者」とか「受動性」とか、そういうアプローチをしないと解けない問題がさまざまに現れてきている。

「意識」の発生においては、最初に「他者」や「世界」が発見される。そしてそのあとにようやく「自己」の存在に気づく。

「意識」は、本質において「他者」や「世界」に気づく装置として生成している。そしてそのとき、「自己」の存在にはまだ気づいていない。「自己」などなくても「他者」に気づくことができるし、「自己」を忘れているときにこそ「他者」の存在に深く気づいている。

「意識はつねに何かについての意識である(現象学)」……ということはつまり、「意識」は「他者」と「自己」を同時に意識することはできない、ということだ。

人は、自分のことを忘れて他者にときめいている。だから、大きな集団をつくることができる。「主体的」であっては、大きな集団になることはできないのだ。

僕は、「主体的」という言葉を正義か真実であるかのようにして振り回されると、胸がむかむかする。れいわ新選組には大いに期待しているが、期待がかなうことにいささか悲観してもいる。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

コロナウイルスは天使からの贈り物である

歳をとると、「可能性」のことよりも「不可能性」のことを想う。

ここでいう「どこかのだれか」とは、「いつかどこかで会うかもしれない相手」ではなく「永久に出会うことのない相手」のことだ。

どんなに若くて行動範囲や交際範囲が広い人でも、一生でこの地球上で出会える人はほんの一部でしかなく、出会うことのない人の方が圧倒的に多い。その、出会うことのない人に対する出会う人の割合は、だれにおいても限りなくゼロに近い。そういう意味では、すべての出会いが「奇跡」である、ともいえる。また、「どこかのだれか」を想うことは無限の人と出会うことでもある、ともいえる。

人の心は、「不可能性」を想う。そしてそれは、無限の「可能性」を想うことでもある。そうやって人は、「どこかのだれか」のことを想って生きている。

「人類みな兄弟」とか「地球はひとつ」といえば陳腐で臭いセリフだが、たしかに人類は、存在そのものにおいてすでに地球規模のネットワークを持っている。

人と人が出会って言葉を交わしたりセックスをしたりするその関係性は、地球の隅々まで広がってゆく。「あなた」の心は、地球の隅々まで伝播してゆくし、地球の隅々の心は「あなた」のところまで伝播してきている。アマゾンの一羽の蝶の羽ばたきからはじまる無限連鎖の果てに日本列島で大災害が起きた……ということはたしかにありうる。すべての存在は、地球規模、いや宇宙規模の関係性の中に置かれている。

 

たとえば、日本語はどこから伝わってきたかというようなことはなく、地球上のすべての人類が言葉を生み出すような集団性を共有していたのであり、すべての地域で独自に生まれてきたのだ。つまり地球上のすべての地域が関係し合いながら、すべての地域で言葉が生まれてくる集団性になっていったのだ。言葉が生まれてくるような集団性を持っていなければ、言葉を伝えることなんかできない。つまり、すでに言葉を持っている集団だから、言葉を伝えることができる。

言葉が中国から伝わったとか朝鮮から伝わったとかと問う以前に、言葉が生まれてくる関係性を持った集団はどのようにして生まれてくるか、という問題がある。

まあ「言葉の起源」はかんたんに語り切れないややこしい問題であるが、とにかく言葉は、「どこかのだれか」を想うようなメタフィジカルな思考がなければ生まれてこない。

「かなしい」という音声がどうして「かなしい」という感情をあらわしていると認識することができるのか。それは、思考における超越的な「飛躍」であり、音声は、異次元の世界から現れて、異次元の世界に消え去ってゆく。つまり人の心が音声に憑依することは「異次元の世界=どこかのだれか」に憑依することであり、そうやって人類は、地球上のすべての地域が「言葉が生まれてくる関係性=集団性」になっていった。

チンパンジーがいまだに言葉を話さないように、言葉は、言葉が生まれてくる「不可能性=超越性」の上に成り立っている。

 

「どこかのだれか」を想うことは、「不可能性」を想うことだ。そこに、人間性の自然がある。それは、「不可能を可能にする」ということではない。「不可能性を抱きすくめてゆく」ということ。その超越的な思考によってこの生が活性化し、人類の歴史は進化発展を遂げてきた。イノベーションとは、超越的な世界に向かって「飛躍」することだ。

「進化」とは、「可能なことを計画する」ことではない。「不可能性を抱きすくめて身もだえする」ことによって「進化=イノベーション」が生まれてくる。

現在のコロナウイルス肺炎のことが世界的に大騒ぎになっているのは、情報過多や情報隠蔽の疑いによって必要以上に人々の「不安や恐怖」が増幅されてしまっているからだ、といわれたりしているが、それだけの話ではない。もともと人類は、だれもがつねに「どこかのだれか」のことを想いつつ、地球規模で情報を共有してゆく生態を持った存在なのだ。原始時代はそのことに数万年の時間を要したが、現在では一瞬でそれが可能になっている。それだけのことで、本質的には同じなのだ。

人の心はつねに「どこかのだれか」のことを想っている、ということ。たしかに現在は世界中に「不安と恐怖」が広がっているという事実はあるにせよ、世界中の人々が「どこかのだれか」のことを想いつつそうした「人恋しさ」を共有しているという人間性の本質もはたらいているのであり、だれもが「どこかのだれか」に対して「生きていてくれ」と願っているからこそ、世界中で協力してコロナウイルスを封じ込めようとするムーブメントになっている。

こんなにも大げさになっているのは、ただの「不安と恐怖」だけの話ではない。目の前の人間に「不安や恐怖」を刺激されるとしても、「どこかのだれか」はそのような対象ではなく、ひたすら「生きていてくれ」と願うことができる。人と人は、たがいにもっとも遠い存在になることによって、もっとも深く豊かに愛し合うことができる。愛は、愛の不可能性においてもっとも深く豊かになる。そうやって人は、他者の死に深く涙している。

この地球上ではいつもどこかでだれかが死んでいっているが、ふだんはだれもそんなことは意識しない。疫病や災害の情報があったときにはじめて意識し動揺する。とくに疫病は世界中に拡がってゆくから、よけいに不安が募るし、「生きていてくれ」という願いも切実になる。なんのかのといっても今回のコロナウイルス騒ぎによって、世界中がそういう願いを共有している。

 

そういうネットワークの意識を共有していないのはこの国の政府官僚たちばかりで、それが情けない。まあネトウヨたちが急に政府の場当たり的な対応を批判しはじめたことだってこの国が生き延びることだけが眼中にあって、世界のことなど何も心配していない。どっちもどっち、ということだろうか。どっちも自意識過剰で、「どこかのだれか」を想う心が著しく欠落している。

われわれは、自分が生き延びるために国のコロナウイルス対策を要望しているのではない、「どこかのだれか」が死んでいっていることに動揺しているからであり、「どこかのだれか」が生きていてくれることを願っているからだ。ここのところで権力社会とわれわれ民衆社会の意識に大きな乖離がある。この国には、両者のあいだに「契約関係」がないから、権力者は民衆の命や生活を守ろうという意識なんかほとんどない。それはもう、あの悲惨な戦争で思い知らされたはずだが、因果なことに忘れっぽい民族だから、権力社会にやりたい放題やられて、何度でも同じ目にあってしまう。

今回のコロナウイルス騒動は人々の「不安と恐怖」によって引き起こされている、というような上から目線の分析が多くの知識人のあいだで語られているが、それだけでは問題の本質を半分しか語っていない。

何はともあれ人々は「どこかのだれか」が死んでいったことに動揺しているのであり、それは自分が生き延びるための「不安と恐怖」というだけではすまない。

人が人を想うことは、すべからくひとつの「動揺」だともいえる。

他者を想うことは自分に貼りついている意識が引きはがされる体験であり、そのようにして「動揺」する。

「意識が自分に貼りついている」とは、自分の外のもうひとつの自分が自分を見ている状態であり、その「見ている自分」と「見られている自分」は、いったいどちらが「ほんとうの自分」であるのか?これは、大問題だ。しかし意識が自分から引きはがされて他者に憑依しているときにこそ二重に引き裂かれた自分が統一されているわけで、その「憑依している自分」こそ「ほんとうの自分=即自」だともいえる。

意識は、自分の頭の中ではたらいているのではなく、頭の外のどこか「異次元の空間」ではたらいているように感じられる。そのようにして自分は自分の外にあり、そのようにして人は「どこかのだれか」を想っている。

「動揺する心」こそもっとも人間的な心であり、そうやって人は、他者を想ってときめいたりかなしんだりしている。だから今回のコロナウイルス騒動のことを、単純に「不安と恐怖」という言葉だけで片づけてもらいたくない。

 

人が人を想うことは、いろいろとややこしい。近くにいれば鬱陶しくもなるし、近くにいても「どこかのだれか」を想うように「遠いあこがれ」を抱いて向き合っているならときめいていられる。人が人を想うことの根源本質は、「遠いあこがれ」の上に成り立っている。

だれの心=意識も自分の頭の外の「異次元の世界」ではたらいているのであり、そこにおいて心=意識はもっとも活性化するし、人が近くにいれば心=意識が自分に向かって逆流して自分に貼りつき、それで停滞し鬱陶しくなってしまう。

近くにいる他人が鬱陶しいということは、鬱陶しいと思っている自分が気になってしょうがない、ということだ。

心=意識を自分のもとから引きはがし、自分を忘れているときにこそ、心=意識は豊かにときめいたり深くかなしんだりする。

今回のコロナウイルス騒動でその「不安や恐怖」から他人や他民族を差別したり排除しようとしたりするのはひとつの自意識であり、それはきっと近代社会の意識であって、原初以来の普遍的な人間性だとはいえない。その「不安や恐怖による排他性=共同性」の奥に、普遍的な人間性としての「人恋しさ」がはたらいている。

現在のこの世界がコロナウイルス対策にがんばっているのは、ただ単に「自分が生き延びたいから」というだけの理由ではない。人類のだれもが心の奥で「どこかのだれか」に「生きていてくれ」と願っているからだ。

「大変だ」と騒ぐのも「たいしたことはない」と多寡をくくるのも違う。現在の世界で突然生まれたこのネットワークは人間性の自然であり、世界が新しい時代に漕ぎ出す契機になるかもしれない。

まあ今回のことによって、世界的にこれまで以上に極端な右傾化と新しい社会民主主義との両極の動きが加速してきているのかもしれないが、醜悪なヘイト右翼はもうこりごりだし、この国では総理大臣以下のそうした右翼が追い詰められている状況になってきたともいえる。今選挙をすれば、彼らは大負けするかもしれない。しかしとうぶん選挙はしないのだから、このままその醜悪な権力が延命してゆくのだろうか。

みんなで大騒ぎすればいい。これは「不安と恐怖」だけで起きているのではない。ひとつの「祭り賑わい」でもあり、人類滅亡はめでたいことだ。その「混沌」の中から異次元の「新しい時代」が生まれてくる。みんなが「どこかのだれか」のことを想っている「新しい時代」が生まれてくる。

 

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どこかでだれかがコロナウイルスで苦しんでいる

この国の政府場当たり的による場当たり的なコロナウイルス対策のことで、欧米からのさまざまな批判を浴びているらしい。

そりゃあそうだろう、こんなにも愚劣で醜悪な政府や官僚がしていることだもの。彼らはもう、そういう「今だけ金だけ自分だけ」という路線を突っ走って後戻りできなくなってしまっている。

厚生省の橋本岳という副大臣は、ダイヤモンドプリンセス号に防疫体制が整っていないことに心配した感染症の専門家の大学教授が勝手に船に入ってきた、と言って怒っていた。いまは専門家を集めて対策を練らねばならないときのはずなのに、彼らにとっては政治家の「政治的な判断」によってあいまいなままごまかしてしまうことの方が大事だと考えているらしい。そうしてひとまず陰性だが潜在的には保菌者の可能性のある日本人乗客の500人を下船させ、そのまま横浜駅であっさり野に放ってしまった。

何をしているのだろう。今はまだ危機的な状況ではない、と思い込ませたいのだろうか。民衆をだまして上手に操ってゆくのが彼らにとっての「政治」というものであり、だましおおせているかぎり自分たちは安泰だと思っている。

現在の支配者たちやマスコミは、あの太平洋戦争の大惨敗にいたるまで突っ走っていった昭和前期とそっくりのていたらくだともいわれている。知識人や民衆だって、権力者の庇護を受けて右翼的な連中ばかりのさばっている。彼らは「日本人に生まれてよかった」と大合唱しながら自分たちがさも伝統主義者のようにふるまっているが、彼らほどこの国の真の伝統から外れている者たちもいない。日本の恥さらしだ。この国が彼らのような自意識過剰の差別主義者ばかりであるはずがないし、政府官僚のあのコロナウイルス対策のように彼らによってこの国が貶められている。

日本人は、「日本人に生まれてよかった」などとは思わない。そこが、アメリカ人やフランス人やイギリス人とは違う。

日本人にとっては「日本人」であることも「自分」であることも「あはれ・はかなし」でしかないのであり、そういう「心もとなさ」を抱きすくめてゆくとこに日本文化の伝統がある。

日本人が日本人であることや自分ということの意味や価値に執着するようになったのは、明治以降に欧米の近代合理主義に洗礼を受けてからのことだ。

もともと自意識の薄い民族で自意識の扱い方をよく知らないから、一度感染すると自意識だけで突っ走ってしまうことになるのかもしれない。

今やもう、総理大臣以下の政府官僚から下層のネトウヨにいたるまで、自意識に凝り固まったまま、客観的な思考がまるでできなくなってしまっている。こんな連中が、いったいどれほど適切なコロナウイルス対策ができるというのだろう。またもやあの太平洋戦争のときのような自滅への道に引きずり込まれてゆくのだろうか。

彼らはきっと、このまま何の心配もないような顔をしながらオリンピックの開催を迎えるつもりなのだろう。彼らにすれば、国民の100人1000人がコロナウイルスで死んでも痛くも痒くないことだし、1万人になってもまだ平気な顔をしていることだろう。何が何でもオリンピックのほうが大事で、オリンピックさえやれば自分たちの天下はまだまだ続くと思っている。世の中や民衆がどうなろうと知ったことではない。自分たちの天下が続くことが大事なのだ。

しかしこのまま国内の感染が拡大してゆけば、やがて世界中の国の選手団が「日本には怖くて行けない」というようなことになるかもしれない。そうなったほうがいいのだろうか。あの醜悪な連中による支配から解き放たれた新しい時代に分け入ってゆくためは、われわれはもうそれを祈るしかないのだろうか。

 

権力社会と民衆社会の乖離は、この国の伝統的な社会構造になっている。両者のあいだに西洋のような契約関係がないから、権力者の支配はつねに一方的で、民衆社会もまた自分たちの自治の流儀を持っている。権力たちは権力闘争に明け暮れ、平気で殺し合いもする。一方民衆社会では他愛なくときめき合い助け合う集団運営の作法を育ててきた。

人は、正義によって人を殺す。愛によっても殺す。そんな関係性の上に成り立っている権力社会に対して民衆社会では、ただ他愛なくときめき合っているだけだから、相手を縛る愛も相手を裁く正義も希薄なままで集団運営をしている。日本列島は両者のあいだには契約関係がないから、集団運営の作法がまるで違う歴史を歩んできた。

権力社会では愛や主従関係によってタイトに結束する集団がつくられるが、激しい殺し合いもする。

しかし民衆社会は、無主・無縁の「祭りの賑わい」を基礎としたゆるい関係で広くつながっている。

縄文時代はひとまず階層のないすべてが民衆の社会だったわけだが、日本列島全体がゆるく交流しながら同じ文化を共有していた。ネアンデルタール人がヨーロッパ中で同じ石器文化と身体形質を共有していたように、縄文時代の遺跡からもまた列島中で「土偶」が掘り出されているし、糸魚川のヒスイは列島中にばらまかれていた。縄文時代の日本列島は国家ではなかったが、まぎれもなく全体でひとつの集団であり民族だったといえる。

そのあと弥生時代以降に大陸文明の影響を受けながらいくつかの小国に分かれていったわけで、縄文時代の列島集団は国家共同体よりももっと大きな集団だったともいえる。そうしてそのあと列島を統一した大和朝廷は、奈良盆地というもっとも原始的でもっとも大きな都市集落から生まれてきたのであり、けっきょく「他愛なくときめき合い助け合う」という原始共産制の習俗を残した集団こそがもっとも大きな集団になることができるのだ。

日本列島の民衆社会は、権力闘争という対立分断が起こる権力社会とは別の原始共産制の習俗を残した集団性を伝統的に守ってきたし、そういう集団の方がじつはゆるくつながりながらもっと大きくなってゆくダイナミズムを持っているのだ。

だからまあ、時代の気分で列島中がひとつになって戦争に邁進してしまったという負の側面もあるわけだが、それ自体、現在のこの時代のような対立や分断が起きにくいということでもある。

「民衆」とは、基本的にひとりひとりが無主・無縁の「はぐれもの」であり、だからこそその「心もとなさ」を共有しながらゆるく広くつながってゆくことができる。「女、三界に家なし」とは、この国の「民衆」のことでもある。

この国の民衆社会の気分は、女がリードしている。

この国の政治は、女たちが立ち上がらなければ、民主主義の新しい時代に漕ぎ出してゆくことはできない。

 

この国においては、政治家であれ知識人であれ、どんなに優秀なエリートだろうと、近代合理主義に洗脳された思考では冷静で客観的な判断ができなくなってしまう。そして因果なことに民衆は、「エリートの考えることは正しい」と信じてしまう傾向がある。この国では、右翼であろうと左翼であろうと、近代合理主義に洗脳されるとただの自意識過剰の思考に変質してしまう。とくに戦後はだれもが他愛なく自意識過剰になってしまって、西洋人からは、日本人は近代合理主義の扱い方が幼稚すぎる、と批判されている。

男は、時代の空気や社会の制度に染められやすい。なぜなら、子供のときから「大人になったら世の中に出て働く」ということを前提に育てられるからだ。女だって、「世の中に出て働く」ことを目的に育ってくれば、近代合理主義に洗脳された思考になってゆく。

近代合理主義の行き着く果てに「新自由主義」や「グローバリズム」があるのだし、それは「自我の確立」とか「自己実現」というようなことにこだわって「客観的」な判断ができなくなっている思考の産物だ。「自我=自己」にこだわっていれば、とにかく他人より上の存在になりたいのだから、「他愛なくときめき合い助け合う」という「原始共産制=民主主義」の関係はつくれない。

今回の政府官僚のコロナウイルス対策だって、慌てふためいて手をこまねいているというのではなく、自意識過剰の当人たちは大まじめで正しく適切な対策を取っているつもりでいる。そこが怖いところだ。それはたぶん自分たちの既得権益を守るためには正しい政治判断で、感染拡大を防ぐためのものではない。民衆が1000人死のうと2000人死のうと、彼らにとってそれは単なる数字でしかない。

今や世界中の国や企業でものすごくえげつないレベルの政治経済的な駆け引きがなされ、民衆の切実な祈りも湧き起っているのだろうが、この国の政府官僚や資本家等の支配層は、いぜんとしてのうのうと「今だけ金だけ自分だけ」という既得権益の虎の穴に居座ることばかりに終始しているらしい。

国民に対して「がんばってやっている」といえば、がんばってやっているように思わせることができる、と彼らは思っている。国民とは支配し操る対象である、と思っているし、かんたんに支配し操ることができる、と思っている。支配し操っておけば自分たちの既得権益は安泰だ、と思っている。国民の幸せなんかどうでもいい、自分たちの幸せ=既得権益が大事だ。「自我の確立」と「命の尊厳」がスローガンの近代合理主義は、この国でそういう人間たちを生み出した。

自我が薄く命なんかあわれではかないものだと思っている日本人に、近代合理主義の「自我の確立」とか「命の尊厳」とかの概念を吹き込んで洗脳してゆくと、そういう「今だけ金だけ自分だけ」に人間が出来上がってしまう。

現在の政府や官僚のコロナウイルス対策はもう、「今だけ金だけ自分だけ」で客観的な思考を失ったまま完全にトチ狂っていて、世界中の国があきれ果てている。オリンピックも、どうなることやら。

 

主体性……自尊心……セルフリスペクト……僕は、今どきの世の中で合唱されているこういういかにもな正義の言葉が嫌いだ。

山本太郎は、困難な状況に置かれている下層の聴衆に向かって「生きててくれよ」と訴えつつ、その一方で「自分には生きている価値があると思ってください」ともいう。しかし後者のいい方は余計なお世話だ。

僕は、「自分は生きている値打ちなんか何もない人間のクズだ」と思っている。そう思って何が悪い?そういう思いは、だれにだってあるだろう。山本太郎だってそういう思いがあるからこそ、自分の命も人生も投げ打ってみんなを救いたいとがんばっているのだろう。

人間は「自分(の命)」を否定している存在であり、だからこそときには「もう死んでもいい」という勢いで他者に命を捧げてゆくこともできる。自分が生きてあることの根拠などない。「自分の命」は、他者が生きていることの上にしか成り立たない。だから、他者を生きさせようとする。人類史の集団は、そのような関係性によって無限に大きくなってきた。

生きることはひとつの「自傷行為」であり、人の心の「自己否定」を否定するべきではない。主体性も自尊心も持っていないのが人間性の自然なのだ。だからこそ人と人はわれを忘れて他愛なくときめき合い助け合う関係性の集団をつくることができる。人類の歴史は、そういう原始共産制的な関係性を根底のところで共有しているから、国家とか、さらには国家のレベルを超えた地球規模の無限に大きな集団をつくることができるようになってきたのだ。

より大きな集団になってゆくのが人間性で、より小さくて原始的な関係性の片隅の集団をつくるのもまた人間性の自然なのだ。

日本列島の歴史においては、たくさんの小さな国が分立していた弥生時代よりも、縄文時代のほうが列島全体でひとかたまりの集団社会になっていた。それは、支配と被支配の関係のない無主・無縁の社会だったからで、そうやってゆるく広くつながっている社会だった。

支配と被支配の関係のない無主・無縁の集団は社会の片隅で生成しているし、そういう関係性が豊かに生成している社会であるとき、はじめて無限に大きな集団になってゆくことができる。

そうやって今、世界中でコロナウイルス対策にがんばっているし、近代合理主義に洗脳されたこの国の政府官僚たちだけが「今だけ金だけ自分だけ」の無為無策でやり過ごそうとしている。

そんなに今が大事か、そんなに金が大事か、そんなに自分が大事か……ポストモダンの新しい時代はそこから解放されるところからはじまるし、だれの中にも「この生には何の意味も価値もない」という思いはある。だからこそ人はまわりの他者を生きさせようとするわけで、コロナウイルス対策の世界的な広がりは、まわりの他者を生きさせようとするムーブメントであって、自分が生き延びるためのものではない。そして人間にとっての「他者」とは見知らぬ「どこかのだれか」であって、自分や自分たちの既得権益の仲間のことではない。

なんのかのといっても人と人の関係は、根源的には支配と被支配のない無主・無縁の関係として広がり発展してゆくのだ。わかる相手と分かり合うのではなく、わからない相手に「なんだろう?」と問うてゆくことによって大きな広がりが生まれてくる。

 

現在のコロナウイルス肺炎は今までのインフルエンザ以上に怖いものでもないなどともいわれているが、だからといってもはや国内だけでやり過ごせるものではなく、世界中に広がってしまっている。

この国の政府官僚は、はたして世界基準の防疫対策をちゃんとやっているか?ちゃんとやらないと、この国だけでなく、アジア全体が幻滅され差別される。もはやこの国だけ良ければいいというわけにはいかない。

10万年前だろうと千年前だろうと現在だろうと、速度の違いはあっても人間のすることや考えることは地球全体に広がってゆく。それが、直立二足歩行の起源以来の人類の歴史だったのだ。

人は、「片隅」を生きながら、しかも「どこかのだれか」のことをつねに想っている。人類の思考と行動の「世界性=超越性」は、じつはそういうところにあるわけで、「片隅」を生きることは「世界」を生きることでもある。

僕は人類絶滅がべつに不幸なことだと思っていないし、現在のコロナウイルスの世界的な感染拡大に対してどうすればいいのかとかどうなるのかということもまったくわからないのだが、人間は世界的地球規模的な存在なのだなあということを改めて思い知らされた。

やっぱり人は、「どこかのだれか」を想っている存在なのだ。

「どこかのだれか」は、憎むことも殺すこともできないし、愛することも抱きしめることもできない。人の心は、その「不可能性」を想うことによって、世界に広がってゆく。

その「愛の不可能性」が愛なのだ。人は根源において、だれも愛することも憎むこともできない。ただもう、ひたすら「想う」ということをしているだけの存在なのだ。

「あなた」の何が好きかとか嫌いかとかということもない。ただもう、「あなた」がこの世に存在しているというそのことを大切に想っている。

今この瞬間においても、この世のどこかでだれかが生まれ、だれかが死んでいっている。それを想っただけで、心はときめいたり動揺したりしてしまう。この世の中の「どこかのだれか」がコロナウイルスで死んでゆこうと自分にとっては大した問題ではないはずなのに、それでも心は動揺してしまう。自分にもその危険が及びそうだからではない。人の心は、「自分」の中にではなく、「どこかのだれか」のもとにおいてはたらいているからだ。

人の「意識」は、自分の頭の中ではなく、頭の外の「どこか」ではたらいている。したがって「どこかのだれか」を想うことは、生きものとしての脳のはたらきの自然であり本質の問題なのだ。「意識」のはたらきは、「どこかのだれか」を想うようにできている。

そうやって今、世界中がコロナウイルス対策に励んでいる。韓国や中国だってそれなりに世界に対して仁義を果たそうとしているというのに、この国の政府官僚たちだけがのんきにやり過ごそうとしている。いや、必死になってできるだけ何もするまいとしている、ということだろうか。国民に何も考えさせないことが彼らの支配の流儀で、嘘の上塗りを重ねながらひたすら正義を装う。客観的に見れば、その態度は何から何まででたらめなのだけれど、当人たちは大まじめでそれが正義だと思っている。そうやって体裁ばかり繕っているわけで、そんな自意識過剰の「国体護持」という正義に邁進しているのだ。

この政治状況は、ある意味日本的であると同時に、日本的ではない。日本人が近代合理主義に洗脳されるとそういうことになってしまうわけで、そのはじまりは明治維新の「脱亜入欧」にあり、戦後の占領軍支配によってさらに加速したのかもしれない。

 

今どきは、多くの政治家や官僚が自意識過剰になってしまって客観的な判断ができなくなっている。いや、彼らだけでなく、日本人全体がそうなってしまったともいえる。とはいえそれはあくまで「政治的な状況」であって、その対極にある民衆社会の「生活感情」においては明治以前の遠い昔から引き継いできたものが今なお息づいているはずで、良くも悪くも日本人が日本人でなくなったわけではあるまい。

こんなふうにおかしくなってしまったのも日本人だからだろうし、日本人だからこそというか日本人としての解き放たれる道というのもあるにちがいない。

日本人の可能性と限界というのがあるし、それはもう世界中どこの国でもそうだろうし、「日本人に生まれてよかった」などというのはただの思考停止だ。そんな自意識過剰のことを合唱しながら、ろくなコロナウイルス対策もできない国になってしまったのだ。

「日本人に生まれてよかった」などということをいわないのが日本人なのだ。日本人にとっては自分も自分の国も「あはれ・はかなし」のものでしかないのであり、たしかな存在は「他者」であり「どこかのだれか」なのだ。いや、それはたぶん、日本人だけではない。そうやって人の心は、世界中に広がり繋がってゆく。その想いをもっとも豊かにそなえているのが日本列島の伝統であり、同時に、近代合理主義に洗脳されてその想いをもっとも忘れ果てているのが現在の日本人であるのかもしれない。

現在の政府官僚がコロナウイルス感染の実態をできるかぎり隠蔽してやり過ごそうとしているのは、オリンピックとかインバウンドの経済問題とかを考えた「政治的判断」であるのだろうし、彼らはそれをもっとも「合理的」だと信じている。それがもっとも「合理的」な「国体護持」の方策で、もっとも「合理的」な「既得権益の維持」の方策だ、ということだろうか。

今回のコロナウイルスの騒ぎは、彼らの目論見通りこの先の1~2か月で無事に終息するのだろうか。そうはいかないような気もするが、いずれにせよこの国の政府官僚の無為で不誠実な態度は、自国の民衆からも世界からも大いに幻滅されたにちがいない。

その対策をどれだけ厳密にするかということは、さまざまな意見があるのだろう。厳密にしなければいけないのか、しなくても大丈夫なのか、僕にはそういうことはよくわからない。そしてできるかぎり厳密にしようというのは必要以上に「不安」や「恐怖」に駆られているからだという意見もあるのだろうが、人間はもともと存在そのものに「不安」を負っている存在であり、できるかぎり厳密にしようとするのもひとつの人間性の自然だともいえる。

自分が生き延びるためではない、人間とは「どこかのだれか」を想っている存在であり、「どこかのだれか」を生かそうとしている。そうやって地球規模の防疫態勢の構想が共有されてゆくのは、現在のようなグローバル世界ならとうぜんの成り行きであるのかもしれない。

現代人は金のこととか人間関係とかさまざまな不安や不満を抱えて生きているからその「強迫観念」を水源にしてそうした必要以上の「不安や恐怖」が噴出しているのだというようなうがった意見もあるが、そういうこと以前のもっと根深く本質的な実存の問題がある。幸せでストレスなど何もない人だって地球規模の厳密な貿易体制を願っているし、だれよりも純粋で清らかな魂の持ち主の人ならなおのこと、「どこかのだれか」が死なないですむことを深く願わずにいられない。

良くも悪くも人の心は、地球規模に広がってゆく。地球規模で防疫体制を取ろうとするのは人間性の自然であり、この国の政府官僚ばかりが知らぬ半兵衛を決め込んで、世界からも国内からもひんしゅくと幻滅を買っている。

 

今回のコロナウイルスのことに関しては、現政権の身内である右翼の側からも批判の声が上がっている。それはまあ、自意識過剰で強迫観念の強い彼らの「不安と恐怖」を刺激しているからだろう。

しかし問題の本質はそのような強迫観念だけにあるのではない。

もしかしたら今回のことに対しては、世界中のだれもが漠然と「人類滅亡の危機」というような怖れを感じているのかもしれない。そこで「ノアの箱舟」の選民思想ではないが、一部の西洋人は東洋人排除の感情に走ったりしているし、この国の右翼だってますます中国人に対する憎悪を募らせている。それはきっと「不安と恐怖」から逃れようとする強迫観念にちがいない。

とはいえ人は、その一方で「不安と恐怖」を抱きすくめてゆく心も持っている。「人類滅亡」はめでたいことで、女のオルガスムスがそうであるように、快楽とは「滅亡=消失」の体験のことだ。

人と人は「不安と恐怖」を共有しながらつながってゆく。現在の世界のコロナウイルス対策は、なんのかのといっても、だれもが「どこかのだれか」を生きさせようとしてなされていることにちがいない。

北海道のだれかが死にそうだといっても、自分のこととは何の関係もないはずなのに、自分のことのような「不安と恐怖」を覚える。そのとき、自分が自分ではなくなって、自分が「北海道のだれか」になってしまっている。

「知らぬ間に広く伝染してゆく」とは、どういうことだろう?それは、「どこかのだれか」の心が自分に憑依し、自分の心が「どこかのだれか」に憑依してゆく、ということでもある。そのときだれもが、「どこかのだれか」のことを想っている。そして「どこかのだれか」とは、「死者」のことでもある。人は、「死者」のことを想うように「どこかのだれか」のことを想っている。

「疫病」は、人類最大の悲劇のひとつであると同時に、人類の集団性の本質がもっともあらわになる現象でもある。伝染すなわちネットワーク、人類は地球規模のネットワークを持っている。それはもう原始時代からそうだったのであり、今回のコロナウイルス問題であらためて思い知らされる。不安や恐怖がどうのということ以前に、人はつねに「どこかのだれか」のことを想っているということ。不安や恐怖が強いから広い範囲の防疫体制(ネットワーク)を取ろうとしている、というだけではすまない人間性の本質がある。なんのかのといっても心やさしい人ほど防疫に対する意識が高いのであり、それは彼らが心の中に「どこかのだれか」とのネットワークをより深く確かに持っているからだ。

そりゃあ、仲間内の既得権益のことばかり考えている現在のこの国の政府官僚たちが本気でやりたがらないのは当然のことで、いざとなったら彼らこそ人一倍大げさな「不安と恐怖」に駆られてうろたえるにちがいない。

「不安と恐怖」だけで感染防止ができるわけではない、それだけなら「パニック」を起こすだけなのだ。

「どこかのだれか」を想う心こそが、この事態を収束させる。

 

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