コロナと直立二足歩行の起源

こんなご時世だからコロナウイルスのことを書かねばという強迫観念は依然として続いているのだけれど、僕に書けることなどたかが知れているから、途方に暮れてしまう。

どうすればいいかとということなどまるでわからないし、これからどんな世の中になるのかということも、僕がいえば、ただの希望的観測になってしまう。

ただ僕自身は、この十年以上、何もかも打ち捨てて精神的にも身体的にも経済的にも「アフターコロナ」の世界を生きてきたという思いはある。一日中家にじっとしていても、知りたいことに向かって思考実験を繰り返していれば、退屈なんかぜんぜんしない。

僕にとっての思考実験とは、パソコンの画面に向かって言葉を置いてゆくこと。そこから「人間とは何か?」とか「日本人とは何か?」ということの思考の、新しい展開や新しい発見が生まれてくる。

寺山修司は「書を捨てて町に出よう」といった。それは、本を読む必要なんかない、ということではない。本を読んだということだけで満足したり自慢したりしてそこで終わっているのではなく、そこから思考や感性が旅立ってゆかねばならない、といいたかったのだろう。

吉行淳之介は、どんな大家や権威の言うことだって何かしらの限界がある、そこに気づかねばならない、というようなことをいっている。その通りだと思う。どれほど尊敬している著者の書いたものでも、何度も読んでいるうちに、「それはちょっと違うのではないか」とか「そんなことあるものか」という疑問や批判が生まれてくる。それはもう、夢中になって読んだからこその話で、そうやって思考がはじまるのだし、そうやって科学も人類の歴史も進歩してきた。

というわけで、人類学や日本文化論においても、腑に落ちないことがたくさんある。そこから先はもう本に書いてないのだから、自分で考えてみるしかない。そうやって僕は、書を捨てて思考の旅に出ることをはじめた。

古代のソクラテス孔子がどれだけの本を読んだかといえば、現在の読書家たちよりもずっと少ないにちがいない。それでもソクラテス孔子は、彼らよりもずっと深く豊かに考えていたはずだ。

だれでもとは言わないが、中途半端な読書自慢なんて、みずからの思考の薄っぺらさをさらしているだけだったりする。極端なことをいえば、1冊も読んでいなくてもわれわれよりずっと深く豊かに思索している人はいる。

「現在の地球上の人類はすべてホモ・サピエンスである」という人類学の通説は極めて疑わしい、と僕は考えている。言い換えれば人類なんて原始時代からすべて「ヒト」というひとつの人類種だったのであり、滅びていった人類種などあるものか。7万年前の地球上に共存していた「ホモ・エレクトス」も「ホモ・サピエンス」も「ホモ・ネアンデルターレンシス」も、みんな同じ「ヒト」だったのであり「ホモ・サピエンス」だけが生き残ったのではない。旅をするサルである人類の血なんか、いずれは地球全体で混じり合ってしまう。それはもう、原始時代からそうだったのだ。どうして『サピエンス全史』とかというクソみたいな本に多くの人が感動しているのだろう、僕にはわからない。

ただインプットするだけでは「思考」とは言わない。それだけでは、たんなる「記憶」にすぎない。「思考」とは、言葉をアウトプットしてゆくことだ。

人は「言葉」で思考しているのではない。「思考」とは言葉にならないものと向き合うことであり、そこから言葉に向かって分け入ってゆくことだ。言い換えれば、言葉にできなくても「思考」は成り立つということ、言葉にできないことと向き合っているその過程を「思考」という。だから、どこかのバカギャルだって、われわれよりずっと深く豊かに考えている部分を持っていたりする。

『サピエンス全史』を書いた人だって、どれほど博学で聡明であろうと、「現在の地球上の人類はすべてホモ・サピエンスである」といっている部分だけは、僕からすればただのアホなのですよ。そのことに対する反論はもう、何冊も本にできるくらいこのブログに書きましたよ。そうやってこの十数年、何もかも打ち捨てて思考実験を積み重ねてきた。

結論だけをいえば、アフリカのホモ・サピエンスはアフリカの暑い環境に順応するように進化し完成されていった人種で、7~5万年前はアフリカの外には一歩も出ていっていない。ケニアが嫌ならタンザニアに行けばいいだけのことで、どうしてわざわざ氷河期のヨーロッパに移住してゆくものか。ネアンデルタール人がアフリカの出口でホモ・サピエンスの遺伝子を拾い、それを世界中にばらまいていっただけのこと。まあ、現在に残る状況証拠からは、そうとしか考えられない。遺伝子解析の結果に対する解釈なんか、彼らは初めにホモ・サピエンスの拡散ありきでそのようにこじつけているだけのこと。

今どきの古人類学者なんか、状況証拠に関しては「それは謎である」と逃げていることがたくさんあり、僕はそこのところを必死に考えた。

ろくに本を読んだこともないような庶民をなめて知ったかぶりされても、そうかんたんにひれ伏すつもりはない。どれほど知識の量に差があろうと、思考の能力は五分と五分なのだ。知識を詰め込むことは、思考することとはまた別の能力であり、たとえ東大教授だろうと、その専門領域においても、そのていどのことしか考えられないのか、といいたくなる部分はある。

 

僕が現在の人類学や日本文化論の学問世界に対して反論したいことのモチーフを挙げると、おおよそ次のようなことだろうか。

 

 

直立二足歩行の起源

人類拡散

ホモ・サピエンスネアンデルタール人

火の使用の起源

貨幣の起源……きらきら光るもの

都市の起源

縄文文化

天皇の起源

枕詞論

やまとことばの起源

まれびと論

古事記

やまとなでしこ

「かわいい」の伝統……土偶から初音ミクまで

 

 

すべて、一冊の本にできるくらいの分量はブログに書いてきた。基本的には、人類学と日本文化論に関する事柄で、世の中の政治経済のことは何も知らないし、ほとんど考えたこともない。

だからコロナウイルスのことは、どうすればいいかというようなヴィジョンなどさらさらない。

ただ、現在のこの国にこんなにも醜悪な政府・官僚が存在するというのはどういうことだろう、その歴史的な本質はどこにあるのだろう、ということは気になる。この国ならではの権力社会と民衆社会の二重構造についてはもっとよく考えてみたい。

権力社会なんか世界中どこでも醜悪なものだろうが、この国独自のいじましさ意地汚さというのがある。

それと、明治以降に受けた西洋的近代合理主義の洗礼によって、この国全体のかたちがしだいに歪んでいったということもある。

もしも「国体」なるものがあるのなら、それは明治以降に形成されたものではなく、縄文時代以来の1万年の歴史において再検証されねばならない。さらには、人類700万年の歴史から問い直すことだって無駄ではない、と僕は考えている。

 

直立二足歩行の起源、という問題設定は正確ではない。二本の足で立って歩くことくらい、サルでもかんたんにできる。サルがヒトになったことの証明は、つねに二本の足で立っている存在になったことにある。

猿にとっての二本の足で立つ姿勢は、べつに難しいことではないが、身体に大きく負荷がかかる上にとても不安定で、サルとしての俊敏な動きを失う。だからサルは、その姿勢をすぐにやめてしまう。

それでも原初の人類は、その姿勢を常態化していった。それは、世の人類学者がいうように、そのことによる何かのアドバンテージがあったからではない。アドバンテージがあるのなら、ほかのサルでもいずれするようになるはずだが、チンパンジーはいまだにそれをしようとしない。アドバンテージなんか、いくつ並べ立てても無駄なのだ。だから、人類学者の考える仮説は、ぜんぶまちがっている。

アドバンテージは何もなかったが、それでも立ち上がった。それによって身体の大きな負荷と不安定と、精神的な不安を引き受けながら立ち上がっていった。それでも立ち上がったのは、立ち上がるほかないような状況があったからであり、それらのハンデキャップを背負ってもなお立ち上がることを余儀なくさせられたのだ。

つまり、立ち上がるほかないような集団の状況と人と人の関係があったのだ。

たとえば密集した集団になったとき、その密集の圧力(=鬱陶しさ)によって、自然に立ち上がってゆく。立ち上がれば、ひとりひとりの占める地面のスペースは最小限になり、たがいの身体のあいだに空間の余裕が生まれる。そうして、鬱陶しかった他者の身体に対する親密観も芽生えてくる。また、その不安定な姿勢は、他者の身体を心理的な壁とすることによって安定する。

そのとき人類は、たがいの身体から影響を受け合いながら二本の足で立ち上がり、そして影響を受け合いながらその不安定な姿勢を安定化させていった。

すなわち人類が二本の足で立つ存在であるということは、たがいの身体が影響し合って関係を結んだり集団をいとなんだりしている存在である、ということだ。

他者の身体が存在しなければ、うまく立っていられない。このことを敷衍すれば、他者が生きていてくれなければ自分も生きていられない、ということであり、そのようにして人はけんめいに他者を生きさせようとする存在になっていった。

 

二本の足で立つ姿勢を常態にしている人類は、存在そのものにおいてすでに集団から影響=圧力を受けている。もともとそれが集団を成り立たせるための姿勢として生まれてきたのであれば、集団を成り立たせようとする本能を持っている、ということでもある。

また、集団から影響=圧力を受けているということは、見えないところにいる他者からも影響=圧力を受けている、ということだ。このとき人の心には、上空から集団全体を見下ろすような無意識がはたらいている。いわゆる「幽体離脱」というような心的現象が起きていて、それはたとえば入眠時に「金縛り」にあうとかの身体が危機的な状況に立たされたときにもたらされるのだが、原初の人類が二本の足で立ち上がったときだって集団の密集状態が鬱陶しくて身動きできないという身体の危機的状況だったのだ。

彼らは、立ち上がったときに、解き放たれた気分で頭上の青い空を見上げた。人が青い空に対する遠いあこがれを持っているということは、青い空から見下ろす視線を無意識のところに持っているということでもある。「幽体離脱」の心的現象は、べつにオカルト的な神秘体験でもなんでもない。世界中のだれの心の中でもあたりまえに起きている、人類史の無意識なのだ。

原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、ひとつの「幽体離脱」の体験だった。つまりそのとき、集団の密集状態からの圧迫を受けて身体が危機に瀕したのだが、彼らはそこで混乱して散り散りに逃げ出すのではなく、一種の集団催眠にかかったような状態になって固まってしまった。そうして脳が、四本足で立っているみずからの身体のことを忘れてしまった。であればもう、その密集状態の圧迫から逃れるすべは二本の足で立ち上がることしかなかったのであり、無意識のままに気がついたらその姿勢になっていた。それはまあ、現象的には、天上からの視線に引っ張り上げられた、ともいえる。そういう「幽体離脱」の体験だったのだ。すなわち人が二本の足で立っていることは「幽体離脱」している状態であり、われわれはだれもがそのような心的現象の無意識を持っている。

だから人類は、だれもが遠くの「どこかのだれか」のことを想いつつ無際限に大きな集団になってゆくことができる。そしてそれは、自分のことを忘れてもうひとりの自分になることであり、そうやって心は想像力をはばたかせる。

われわれの意識は、頭の中の脳で起きているのではなく、頭の外のどこかわけのわからない空間で起きているように感じられる。イヤホンをつけてテレビを見るとき、その音声はイヤホンをつけた耳の中ではなく、画面から発せられているように聞こえている。こういうことだって、ひとつの「幽体離脱」であり、われわれの意識はすでに自分および自分の身体から離れてしまっている。

逆にいえば、自分および自分の身体に対する執着、すなわち「自意識」が強い人ほど、あるいは病気などをして身体の危機に落ちったときほど、「金縛り」になったり「幽体離脱」が意識の表面に現れてしまったりする。

通常は、だれにおいても無意識のところで「幽体離脱」が起きている。それはもう、生きものの「意識」のはたらきの属性なのだ。

 

疫病が蔓延すれば、人は、ふだんは意識しない「どこかのだれか」の死に大きく心を揺さぶられてしまう。それが、二本の足で立っている猿である人間の本性なのだもの。そうやって今、世界中が大騒ぎしている。

なのにこの国の政府・官僚をはじめとする権力者たちばかりが、そうした人間性を喪失したまま、ぐずぐずとあいまいな対応に終始している。自分および自分の立場に執着する彼らには、「民衆」という「どこかのだれか」を想う心が、決定的に欠落している。まあ、迷信深くて、意識の表面での「幽体離脱」を起こしやすい連中なのだ。彼らは今、「このまま収まってくれ」と、必死に祈祷している。しているのはそれだけだ、ともいえる。まあそれがこの国の権力社会の伝統なのだからしょうがない。

愚劣で醜悪なのは、総理大臣ひとりだけではない。この国の権力社会の伝統のそうした部分をそのまま抱え込んだ者たちがどんどんそのまわりに集まってきて、現在の政府・官僚を形成している。

なんとおぞましいことかと思う。

僕なんかどんなに困っても「助けてくれ」とおもうしかくもさけぶしかくもないにんげんだとじかくしているが、それでも、「そんなものさ」と心を素通りさせてしまうためには、僕は「人間とは何か?」という問いを放棄しなければならない。

文明社会というか権力社会は、人間の心を忘れた人間を生み出してしまう。だれだって人間で、だれだって人間の心を持っているはずなのに、まるで人間の心を持っていないかのような思考や行動をしてしまう。

つまり、人間の思考や行動なんて、人間としての本性とは関係なく、生きてきた「なりゆき」としての環境世界という条件によって決定されている。であれば、「人間とは何か?」と問うことこそが、あの人間たちの愚劣さと醜悪さの横を素通りしてゆくことができる道であるのかもしれない。あんな人間たちの思考や行動に人間の本性が現れているのなら、人間なんか滅びてしまったほうがよい。

たとえ軽薄で強欲な支配者であっても、ひとたび疫病が蔓延すれば心を揺さぶられ、「どこかのだれか」という他者に救いの手を差しのべようとしてゆくのが、二本の足で立っている存在である人間の本性なのだ。それはもう、善意とかヒューマニズムというようなことではない。四本足の猿が二本の足で立ち上がっているという、そのこと自体にそういう心の動きが生まれてくるような仕組みがはたらいているのだ。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』・下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

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