「民衆」とはだれか?

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民衆とは愚か存在である。しかしその「愚かさ」の向こうに、この世でもっとも深く豊かな知性や感性が生成している。

このブログの目的というかモチベーションは、十代のバカギャルから東大教授までを対象に問題提起してゆくことにある。

人類学や日本文化論の世界で多くの研究者が依拠している通説に対して「それは違うだろう」と異議申し立てをしてゆきたいし、バカギャルからは学べることが多い。僕は、そのへんの凡庸なインテリに比べたらバカギャルの方がずっと偉い、と思っている。バカギャルは原始人だし、原始人はわれわれ現代人よりももっと確かに人間性の自然・本質をそなえていたにちがいない。そして今どきの人類学者が語る原始人像は、あきれるくらい薄っぺらで陳腐だ。だから、「それは違うだろう」といいたくなる。

ドストエフスキーは「哲学者の語る高邁な真理は、無知な農民だってすでに分かっていることでもある」といった。それはきっとそうだ。無知な農民は、それを言葉にできないだけのこと。とすれば哲学者の仕事は、言葉にできないことを言葉にすることだ、といえる。

原始人だって、現代の哲学者の認識と同じレベルでこの世界や生命の真理=本質を感知しながら生きていたはずだ。ほんとうはだれだって、無意識のところですでにそれを認識している。根源的には、だれが賢いとかバカだということはないし、世間的にはバカだといわれている人間のほうが、よけいな知識・観念のバイアスがかかっていなぶん、じつはもっと深く率直に何かを感知していたりする。

数年前、哲学思想系の知識人である東浩紀が主宰する批評家養成塾というようなサークルがあって、有名知識人を講師に呼んで生徒の優秀作品のいくつかを講評する、というイベントがYoutubeにあげられていた。そのとき、二十代の女子の生徒が『苦界浄土(石牟礼道子)』の感想批評文を提出し、「現在のこの本に対する多くの知識人の評価は<希望>の書というような内容だが、それは違う。ここに書かれてあるのはあくまで<絶望>であり、絶望をかみしめた向こうにしか希望はない」というようなことを主張していた。

これに対して、講師や東浩紀たちは、「あなたの絶望という言葉に対する扱い方は幼稚であり、これではだめだ」というようなことを口々に評していた。

で、そのとき僕は、何を偉そうなことをほざいていやがる、という感じで、ちょっと不愉快になった。

女がいったん「絶望」とか「かなしみ」という言葉を口にしたとき、男はあんまりなめたことをいわないほうがよい。そういうことに関しては、どんな立派な知識人であろうと、男なんかそのへんのバカギャルの10分の1もわかっていないのだ。女は、女であるというそのことにおいて、男よりもはるかに深くその内実を体感している。

もちろん批評文を書くテクニックの問題というのはあるにちがいないが、若い娘に対して「ほんとの絶望というのはあなたがいうほどかんたんなことじゃないんだよ」といわんばかりの、そのしゃらくさい口ぶりがどうにも鬱陶しかった。だったらこちらも、女はみんな、おまえらみたいな尻軽なインテリよりもずっとよく知っているんだよ……といいたくなってしまう。

そしてそれはまあ、現在のこの国の大人の男たち全般の軽薄さと横着さの問題でもあるのかもしれない。

 

この国のコロナ対策において、政府・官僚という権力社会の伝統の愚劣さと醜悪さがこんなにもあからさまに露呈してくるなんて、大きな驚きと嫌悪感とともに、われわれはまったくもって途方に暮れてしまう。死んでしまうのは仕方ないとしても、多くの人々があんな連中に殺されねばならないというのは、愉快であるはずがない。この国の権力社会の愚劣と醜悪さの伝統がここに極まれりという感じだ。

この国の民衆は、さしあたって食うに困らなければ、あんな醜い政権でも許してしまう。今回のコロナ禍によって食うに困る人が増えたのだろうが、それでも今のところはこの国の大多数でもないのだろうし、政府・官僚は「だったら構やしない」と多寡をくくっている。もっとひどい状況にならなければ、あの連中は目が覚めない。

連休が明ければこのままではすまない……といっている人は多い。それでも政府は、なおもごまかしごまかしグダグダとやり過ごそうとするかもしれない。もはや彼らが心を入れ替えることなど当てにはできない。どうにもならなくなって勝手に逃げ出してくれるのを願うしかない。そうしてわれわれは、あの敗戦直後のような焦土と化した景色の中からやり直してゆかねばならないのだろうか。そのとき僕は、生きているのだろうか。

僕は、社会においても個人の人生においても、「どうすればいいのか?」というような問題などないと思っている。「どうなってゆくのか?」という問題があるだけだ。「地獄でなぜ悪い?」というようなタイトルの映画があったが、あってはならない社会もあってはならない人生もないと思っている。うんざりするだけの現在のこの社会だって、それが現実に存在しているかぎり、ひとつの歴史の必然だ。取り返しのつかない歴史の必然だ。人それぞれ、社会それぞれ、せずにいられないことをしながら歴史を歩んでいる。

現在のこの国においてこんなにも醜い政権が生まれてきてしまったのも、すでにそれが存在しているということにおいて、まぎれもなく歴史の必然なのだ。

生まれてすぐに死んでゆく子供を見送るのは、とてもかなしい。死かそれがその子の人生の必然だったのであって、今さら取り返しのつくことではない。

この歴史の流れにおいて、だれの力も信じない、だれの罪も問わない……それが日本列島の「なりゆき」の文化の伝統であり、世界中の原始人の世界観や生命観だったのではないだろうか。原始時代の人類は、それほどに弱い猿だったし、すでにそれほどに高度な思考を持っていた。そしてそれが、究極の未来の人類の世界観や生命観でもあるのではないだろうか。

 

東浩紀は、こういっていた。「これからの思想・哲学は、知識の豊富さだけでも地頭(じあたま)のよさだけでもだめで、歴史に対する<教養>の大切さを見直す必要がある(教養主義の復活)」と。

まあ、現代の浮ついた思想・哲学の世界に対する批判としては、たしかにもっともらしい意見だが、ただ歴史をお勉強してインプットすればよいというようなものでもなく、歴史とどう向き合うのか、という問題もある。

ユダヤ教に対してキリスト教が登場し、天動説に対して地動説が生まれてきたとき、それぞれ既存の千年の歴史を批判し乗り越えてゆこうとする動きがあった。

東浩紀はたしかに現在の薄っぺらな思想・哲学の世界と戦っているが、戦う相手は、歴史そのものでもある。歴史を乗り越えてゆかねばならない。

原始時代は700万年続いたし、それなりに目覚ましい進化もあったが、文明社会の歴史は、わずか5千年にすぎない。そしてそのあいだに目まぐるしく変更され乗り越えられてきたのは、つねに人間性=自然から逸脱してゆく歴史であったからで、つねに人間性=自然によって変更され乗り越えられてきたのだ。したがってそれは、最終的には人間性=自然に還ってゆく歴史である、ということになる。

自然に還ることがいかに困難であることか。そして人は、永遠に自然に還ることを夢見ている。

生きものの誕生と死は、自然そのものである。そのことをよろこびかなしむ感情が人の心から消えてなくなることはない。

なんのかのといっても文明社会の歴史は、民主主義を目指すかたちに収まってきた。それは、権力社会が、民衆がそなえている「(人間性の)自然」によってたえず照射され淘汰されてきた、ということだ。

 

ただ、この国の民衆社会は、権力社会を監視しないという伝統がある。つまり、権力社会とは別の民衆社会独自の自治運営の歴史を歩んできた。そしてそれは、原始的であると同時に、未来的民主主義的なシステムでもあった。つまり、原始的だからかんたんに権力社会から支配されてしまうし、原始的だからこそ高度に未来的でもあった。したがってなんのかのといっていっても、政治的にも文化的にも、民衆社会が先駆けとなって権力社会も変わってきたのだ。

たとえば古代において、漢文が主流の権力社会に和歌の文化を浸透させていったのは、「詠み人知らず」の民衆社会だった。そうして、権力社会においては下層であったはずの、額田王をはじめとする有能な女流歌人が登場してきた。和歌は、民衆社会から生まれ育ってきたのだ。

また、平安末期の武士階級の台頭も、地方の民衆社会の集団性によって押し上げられていったのだし、明治維新だって、まず民衆社会の胎動があったから下級武士が台頭していったのであり、薩長の下級武士はもとより、新選組にいたっては農民が出自の近藤勇がリーダーになったりしていた。

そうして太平洋戦争のみじめな敗戦に打ちひしがれていたこの国がたちまち目覚ましい復興を遂げていったのも、民衆社会のダイナミズムに先導されてのことだった。

この国の民衆社会はたやすく権力社会に支配されてしまうが、同時に、民衆社会の盛り上がりに先導されて新しい時代や新しい権力社会が生まれてくることにもなる。

現在のこの国にあんなにも愚劣で醜悪な政権がのさばっているのも、けっきょく民衆社会の活力が衰退していることにあるのかもしれない。こんな民衆にはあんな総理大臣がお似合いだ、といわれても仕方がない。権力社会に抵抗するのではない。権力社会を置き去りにしてしまうくらい民衆社会が独自に盛り上がっていかなければ、新しい時代は生まれてこない。

 

よりよい時代とは何か、というような議論をしてもしょうがない。人類の歴史は、よりよい時代に向かって流れてきたのではない。「どうなってもいい」というのが基本だから変遷してゆくのであり、それが、直立二足歩行の起源以来の人類の歴史の無意識である。

言えることはただ、最終的には直立二足歩行の起源に向かい、人類滅亡に向かっている、ということ。原初の人類は「う死んでもいい」という勢いで立ち上がったのだし、人類の歴史は「滅亡」に向かって流れてゆく。

原初の人類は、二本の足で立ち上がったときに青い空を見上げ、その「遠いあこがれ」を抱いて歴史を歩みはじめた。その空漠として何もないことへの「遠いあこがれ」、それが「もう死んでもいい」という勢いであり、「どうなってもいい」ということだ。すなわち「死へのあこがれ」……原初の人類は何か目的があって二本の足で立ち上がったのではない。気がついたら立ち上がっていただけだ。

われわれの人生だって、気がついたらこんなしょうもない人生を生きてしまっていただけだし、しかしそれが人類普遍というか、この世の中のほとんどの人の人生のかたちではないだろうか。

まあ、いいこともあれば、悪いこともあった。過ぎてしまえば「何もなかった」のと同じこと。民衆は、そういうことを本能的に知っている存在だから、権力者にたやすく支配されてしまうし、権力者を置き去りにして新しい時代に分け入っていったりもする。原初の人類が二本の足で立ち上がったときのように、新しい時代がどんな時代になるかもわからないまま「もう死んでもいい」という勢いで分け入ってゆく。そういう「愚かさ」こそ人が人であることの証しであり、民衆とはそういう存在なのだし、その勢いで人類史のさまざまなイノベーションが生まれてきたのだ。

民衆とは主体性を持たない有象無象であり、それこそが人間性の自然・本質であり、その有象無象の「祭りの賑わい」に先導されて新しい時代が生まれてくる。したがって人類の集団性が最終的には原始時代の集団性に向かってゆくのは当然のことで、原初の人類は有象無象の「祭りの賑わい」で立ち上がっていったのだ。こんな革命的なことは、有象無象にしかできない。

人類のもっとも豊かな知性や感性は、有象無象の「愚かさ」の中にある。その「愚かさ」は偉大な科学者や哲学者や芸術家の中にもあるわけで、知ったかぶりの中途半端な知識人に「よりよい未来の社会像」なんか説かれても「なんのこっちゃ」と思っておけばいいだけで、彼らの計画する通りの社会がやってくるはずもない。

人は可能なことしか計画できない。しかしイノベーションとは、不可能なことが可能になることである。新しい時代とは、前の時代において不可能だったことが可能になることだ。したがって、「計画」よって生まれてくるのではない。新しい時代は、予期せぬ出来事としてやってくる。

まあ哲学者が言葉にできないことを言葉にする人であるように、計画できない世界に分け入ってゆくのが人の知性や感性であり、凡庸なインテリの「未来の計画」が何ほどのものか。「計画する」とか「予想する」というそのことが凡庸なのだ。

つまり、新しい時代とか新しい知見は「計画=予想」によってではなく、予期せぬ出来事と遭遇する「発見」によってもたらされる、ということであり、それは計画や予想ができない「愚かな」ものによって体験される、ということだ。そして偉大な哲学者や科学者はみな、そのような「愚かな」部分を持っている。

「愚かな」民衆こそ、じつはもっとも深く豊かな知性や感性の持ち主なのだ。その代表選手として、僕は、十七歳のバカギャルを想定している。同じ民衆でも、大人の男の頭の中身なんか、こざかしい観念で汚れ切っている。

 

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