コロナ会食と論語
コロナ自粛が叫ばれる今、菅首相が銀座の高級ステーキ店で一人5万円のステーキ料理を有名人7・8人と会食した、ということが話題になっているというか、批判されたりしているようです。
そりゃあまあ、バカなやつらだ、という感想は僕だって抱きますよ。
でも、この批判の裏には、有名人であることや5万円の高級ステーキが食べられることとかに対するうらやましさとかコンプレックスのようなものが張り付いているとしたら、それにも問題がないとはいえないでしょう。
そういううらやましさやコンプレックスにも、この文明社会の制度=システムの病理の一端があるのではないかと思えます。
そのうらやましさやコンプレックスを水源にして、経済格差とか学歴差別とか人種差別というようなことが生まれてくるのでしょう
この世にラーメン以上にうまいものはない、としんそこ思っている人は、ステーキを食うことなんかうらやましいとも感じないでしょう。
また、いい年こいてステーキ食って喜んでいるなんて頭がどうかしている、と思う人もいるでしょう。
昭和天皇のいちばんの好物はジャムサンドだった、という話があります。彼からしたら、高級ステーキを食ってエリートぶっているなんて、どいつもこいつも薄っぺらい成り上がりの田舎っぺだなあ、と思うかもしれません。
この世の中で人々がもっとも尊敬しあこがれているのは神であり、その次に救世主(メシア)でしょう。
救世主は乞食の姿で人々の前に現れる、というのが世界の歴史の定番です。救世主はジャムサンドやラーメンやお茶漬けが大好物なのであって、5万円のステーキなんか食いたいとおも思わないのです。
金持ちや権力者にコンプレックスやうらやましさやあこがれがあるから、金持ちや権力者の人格を非難する。東大生や学者にコンプレックスやうらやましさやあこがれがあるから、東大生や学者の人格を非難する。それ自体がよくないのであり、それ自体がこの社会のシステムの歪みの温床になっている、ということもあるのでしょう。
まあ金持ちや権力者のことはよくわからないけど、僕だって東大や学者に対するコンプレックスやうらやましさやあこがれなんかないですよ。彼らの豊富な知識に対する尊敬はあっても、かといってべつに彼らの方が賢いとは思っていません。
もしもこの世にいちばん偉い人がいるとすれば、それは生きられないこの世のもっとも弱い人たちだと僕は思っています。われわれの命は、その人たちに捧げるべきだと思っています。
もちろん僕なんか生まれついての怠け者のダメ人間だからそれを生き方として実行することができているわけではさらさらないですけどね。できていたら救世主になっています。
つまり救世主は、生きられないこの世のもっとも弱い者を生きさせる存在として現れる、ということです。それが、世界の歴史の普遍的な法則です。
たとえば、キリストは目が見えない人を見えるようにしたとか、そういう奇跡が語り継がれたりするのでしょう。
救世主は、嬉しそうに高級ステーキを食うということなんかしない。
とにかくこの社会のシステムの病理のひとつとして、人々が金持ちや権力者や学者にコンプレックスやうらやましさやあこがれを抱いてしまうということがあるのでしょう。
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で、僕は人類学や日本文化論に大いに興味があるのですが、少なくともこの分野における学者たちに対するコンプレックスやあこがれはないつもりです。彼らに対しては、「お前たちは俺が考えるための材料=データを提供してくれればそれでいい」と思っているだけで、データの先の考えることまで彼らにまかせるつもりはありません。
とはいえ、今その例を人類学や日本文化論のことで挙げると話が際限なく長くなってしまうので、ちょっと逸れた分野のことで話してみます。
論語のことです。
論語の研究者なんかみんなあほばっかりだなあ、と思ったりします。
安富歩という東大教授は僕が大好きな学者のひとりですが、それでも彼の研究のひとつである論語解釈の講義をユーチューブで見つけて、あぜんとしてしまいました。
僕は論語の知識なんか高校の漢文で習っただけのレベルですが、それでも、なんでそんなうっすっぺらな解釈しかできないのかと、ほんとに唖然としてしまいました。
いろいろ唖然としてしまったのだけれど、ひとつだけ挙げてみます。
論語・学而1の1の1
学而時習之 不亦説乎(学びてときにこれを習う、またよろこばしからずや)
ものすごく有名なフレーズですよね。
この「習」という字を一般的には「復習する」と解釈されていて、安富氏はそれを見て「何をばかなこと言ってやがる、復習することが楽しいはずないじゃないか」と思ったそうです。
で、安富氏は、この「習」は「身につく」と訳すのだ、と解説してくれていました。
笑っちゃいます。「あんただって同じくらいバカなんじゃないの」といいたくなります。
まず安富氏によれば、「学」とは「知識や技術を取り入れる」ということですが、それだったら「習=身につく」と同じになってしまうじゃないですか。募集して募る、といっているのと同じです。
古代人のいう「がく」とか「まなぶ」は、「問う」とか「教えを乞う」とか「探求する」というような意味で、「取り入れる」前の段階のことです。
中国語の「がく」であれやまとことばの「まな」であれ、それらは「不思議なもの」とか「わからないもの」とか「興味深いもの」というような意味だったのです。
「學」という漢字の源は、おそらく何かにひざまずいて捧げものを差し出していることをあらわす象形文字だったのであり、そこから「問う」とか「教えを乞う」とか「探求する」という意味になっていったわけです。
だからそのあとの「習」は、「反復する」とか「癖になる」とか「習慣になる」というような意味になるはずです。
すなわち「探求する態度が習慣になること」それが孔子のいう「学習」だったのではないでしょうか。
安富氏のいうような「教えてもらったことが身につく」とか、そういうことではないはずです。
アジア的な思考においては「身につく」などということはないのです。この国の職人や芸能者は、「一生が修行です」というわけじゃないですか。死ぬまで問い続けること、まあそれを論語では「道」といいます。
ひとつのことがわかれば、そこからさらに三つのわからないことが生まれてくる。学問や修行とは答えを見つけることではなく、「問い」を見つけ続けるいとなみなのだ、ということ、おそらく孔子はそこまで考えていたはずだし、そんなことくらいは無学なこの国の大工職人だってわかっていることです。
そして、知ったかぶりのインテリだけが何もわかっていない。彼らの論語解釈なんか、ぜんぶだめです。
また安富氏は、最後の「説」のよろこびとは、身につけた知識によって「説得する」とか「説明する」ことのよろこびを指すのだといっています。
これも「なんだかなあ」という感じで、最初の「學」の解釈から最後の「説」まで、徹頭徹尾学校のお勉強の優等生が考えそうな薄っぺらな解釈で貫かれているじゃないですか。
笑わせてくれます。
やまとことばの「せつ」は「切々と語る」とか「せつない」の「せつ」で、「説」のよろこびとは、「しみじみとしたよろこび」のことで、「ああそうかと深く納得すること」です。つまり、説明・説得することのよろこびではなく、説明・説得されるよろこびのことだ、ということです。
なんというか、あくなき探求の果てに何かを発見したり何かの境地にたどり着けば、天から何かを与えられたような深くしみじみとしたよろこびがある、ということです。
安富さん、孔子はそのようなことを語っているのであって、あなたたちインテリのスノッブでうすっぺらな思考で片付く話じゃないのですよ、と僕は言いたいわけです。
僕のような無学な庶民でもこれくらいのことは考えられるのに、東大教授の思考の世界なんかその程度のものなのですか、と。
僕は安富さんが好きで、あの人が東大教授だからといっても、別にコンプレックスなんかないですよ。
安富さんは普段から「学歴差別なんかろくなもんじゃない」と何度も口を酸っぱくして言っておられる人だけど、僕のこの批判に対しても、東大教授の誇りにかけて「お前のいうことなんか取るに足りないトンデモ説だ」と一蹴していただけるのでしょうか。機会があったら、聞いてみたいものです。おそらくそんな機会は永久にないだろうけど。
お金を稼ぐ能力とか権力を得る能力は人によって大きな差があることでしょう。まあ僕なんか最底辺です。
でも、ものを考える能力は、みな同じです。人間であるなら、誰にだってそなわった能力です。その使い方や使い道が違うだけです。
小林秀雄だろうと吉本隆明だろうと安富歩だろうと、ものを考える能力において僕が負けているなんて、全然思いません。そのへんの凡庸なインテリなら、なおさらです。
なのにあの連中ときたら、自分が考えることのエキスパートのつもりでいる。彼らは、そういう自意識というかナルシズムを持っているようです。
彼らのその自意識というかうぬぼれだって、この世の学歴差別を成り立たせている要因のひとつでしょう。
だから僕は、彼らに負けるわけにいかない。
僕はあの人たちよりも、女や子供や生きられないこの世のもっとも弱い人たちから、もっとたくさんのことを学んでいます。
安富歩がなんぼのものか。自慢たらしく薄っぺらな論語の解説をしやがって……今はそういわせてください。僕のこの反論が木っ端みじんに粉砕されるまで、むやみな学歴差別がなくなるその日まで、どうかそう思わせてください。
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ユーチューブは、クリスマス前には何とか再開できそうです。
今度こそ毎日1・2本発信し続けられそうです。
ほんとにみすぼらしい動画で恥ずかしくてたまらないのだけれど、ここを通過しなければ人並みのところにたどり着けないのだから、勇気を振り絞ってがんばるつもりです。
安富歩氏も小林秀雄も大いに尊敬しているし大好きだけど、彼らと戦いたいです。
有名な知識人や大学教授のいうことはありがたく拝聴するものだ、おまえの人格を疑う、とかつての友人から忠告されたことがあります。まあ彼は、あの人たちの受け売りをして知ったかぶりをするのが上手でした。
もしもこのブログに安富氏のファンの人がおられたら、どうか反論してきてください。あんなあほな論語講釈をされてありがたがっていられるほど、僕はお人好しではありません。安富氏の解釈のおかしなところは、ほかにもいくらでもあります。