知ることと、考えることと、気づくこと

 

コロナが怖くて、じっと家に閉じこもっています。

自分のようなみすぼらしい年寄りは、もし罹ったらきっと死ぬだろうな、と思っています。

でも世の中は、年寄りほど無防備でマスクを着けていなかったりします。

しかしそれは、べつに度胸があるとか、達観しているとか、そういうことではなく、ただ鈍感なだけだという場合がほとんどです。

歳をとると、何もかも面倒になってきます。僕なんか、若いころからすでにそうでした。何かに夢中になることはあっても、この社会で生きてゆくための手続きというのが、何もかも面倒でした。

 

いや現在でも、そんな怠惰な若者はたくさんいることでしょう。

人間は本質において、怠け者です。

日本人だってそうです。まじめに働くといっても、国の政治との関係を取り結んだり抵抗したりすることにおいては、きわめて怠惰です。

だからわれわれは、権力者にやすやすと支配されてしまう歴史を歩んできました。

 

最近考えていることは、この閉塞した社会状況というか時代状況から抜け出すためには、われわれ民衆は「階級闘争」を仕掛けていかないといけないということです。

 

僕はただの政治オンチだから、政治のことを考えているのではありません。

「たたかう」ということです。

戦いのない人生なんてクリープのないコーヒーみたいなものだ、とこの年になってしみじみと思わされています。

生きることそれ自体がひとつの戦いなのだ、と。

それは、生きてあることそれ自体がひとつの不条理なのだ、ということと同義です。

 

僕はこの十数年、古人類学や日本文化論のことばかりずっと考えてきました。そしてこのことにおいて、学者たちの説明に対して「そんなことあるものか」と思うことの連続でした。

だから、彼らと戦いたいわけです。これだって、階級闘争でしょう。

 

知的な欲求というか知的ないとなみというのは、本質において「疑う」ということであり、それをやめたら、欲求そのものも消えてなくなるのでしょう。

 

もともと学問とは無縁の社会的立場で生きてきた人間ですが、彼らの説明にまるごとうなづくことなんかできないし、彼らがかなわないと思えるほど深く確かな思考をしているとも思えません。

 

そして、彼らのような安直な思考がはびこっている世の中だから、安直なスピリチュアルや陰謀論もはびこるのだろうと思います。

彼らは、既存の知識を組み合わせてお約束の答えを導き出しているだけで、「気づく」とか「発見する」ということがないのですよね。

 

「気づく=発見する」とは、思考が未知の異次元の世界に超出することです。今流行りの言葉でいえば、「メタ認知」ということでしょうか。

 

お約束の天国や極楽浄土や生まれ変わりや霊魂という問題設定で何もかも説明がつくのなら、「気づく=発見する」という体験なんか生まれてくるはずもないでしょう。そういうお約束の思考では、異次元の世界に超出しているとはいえません。

異次元の世界は、天国や極楽浄土や生まれ変わりや霊魂の、さらにその向こう側にあるのです。

 

そしてそういう「異次元の世界」は、われわれ無知な民衆の方がずっとよく知っているのであり、われわれにはそれを説明する言葉がないだけです。ことにそういう世界は、生まれたばかりの子供やそのへんのバカギャルがいちばんよく知っているのです。

 

だから僕は、階級闘争が必要だ、と考えるわけです。

たとえば生まれたばかりの子供が言葉を覚えるのは、ひとつの「メタ認知」です。そのとき彼の思考は「異次元の世界」に超出して言葉をキャッチしたのです。

 

お約束の思考しかできないそのへんの学者先生やスピリチュアリストのいうことなど、何をありがたがる必要があるでしょうか。

 

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というわけで今、深く静かにユーチューブを発信し続けています。

チャンネル名は、今のところ本名の「山本博通」で設定しています。

まだまだ恥ずかしいだけのレベルの体裁でしかないのですが、少しずつ慣れてきているような気もします。

早く、人並みになりたいものです。

とにかく、ひとりでも見てくれる人がいるかぎり発信し続けてゆくつもりだし、そのための原稿はもう十年分くらいは用意してあります。

十年たったら、死ぬかボケるかしていることでしょう(笑)。