感想・2018年10月22日

<ときめき合う関係を組織する>
僕だって、人間というのは愚劣な生き物だなあ、とつくづく思う。しかしどこが愚劣なのかと考えれば、それはあくまで表層的なことで、本質的な部分においては美しいも愚劣もなく、ただもう「人間とはいったいどういう生き物だろう?」という関心ばかりが先に立つ。
選挙なんかこの社会のただの表層的な現象に過ぎないが、それでも人間性の本質と無縁ということもないに違いない。
今どきの右翼なんかほんとに愚劣だが、人を支配しようとする意欲は恐ろしく旺盛で、しかも手段を選ばないから、いったんこの勢力が力を持ったら、物言わぬ民衆はそれに引きずられてどんどん拡大してゆく。
また、若者が保守化右傾化しているともいわれているが、これは若者の政治意識が低くなっていて、とりあえず自民党に投票しておくというだけのことで、べつに積極的に政治に関与しようとしているわけではないから、彼らの投票先なんかかんたんに変わる。社会に出て世の中の仕組みの不条理や大人の醜さに気づいてくれば、だんだん自民党から離れてくる。世の中の仕組みにフィットしていい思いをしているのなら若者でもいぜんとして既存の体制を支持し続けるのだろうが、とにかく多くの若者の心はいろんなことに気づきながら変わってゆく。現在の彼らが体制を支持しているということは、彼らの政治意識が低いことを意味しているだけで、べつに右傾化とか保守化というような大げさなことではない。
ただ、社会のレールにうまく乗っているにせよ落ちこぼれているにせよ、若者にせよ大人にせよ、どちらかというと嫌われ者で人とときめき合う関係をうまく持てない者たちが政治意識を募らせてネトウヨ化しているだけなのではないだろうか。
魅力的な候補者であれば、体制の壁を突き崩すことができる。人間性の自然は、世界や他者の輝きにときめいてゆくことにある。人と人のときめき合う関係を組織することができたら、選挙に勝てる。それを証明して見せたのが、今回の沖縄県知事選挙だったのかもしれない。
このところの沖縄では、県知事選挙に続いて、豊見城市長選挙、さらには那覇市長選挙と、三連勝した。その勝因は、おそらく人と人のときめき合う関係を組織することができたことにある。
そして体制側の相手陣営の候補者たちは、そろいもそろって人相が悪すぎた。人間的な魅力がまるで感じられない人たちばかりで、接戦になれば最後はこの差で勝負が決まってしまう。
体制側の権力者たちは、民衆の心を見くびっていた、民衆なんか飴と鞭で何とでも支配できると思って、候補者の人格を見極めるということをせず、とにかく体制に従順な人間を候補者にすればそれで勝てると思っていた。そうして選挙中の候補者の言動も行動も体制側の指示通りにさせるだけで、候補者の人格的な魅力などまるで表れてこなかった。まあ、もともとそんな魅力など持ち合わせていないのだから表れるはずもないし、彼らの世界での人と人の関係は、おたがいに相手を利用できるかできないかの利害関係だけで成り立っていて、ときめき合うということを知らない人たちなのだ。
玉城デニーは、「チムグクル」という言葉で、「沖縄の民衆には人と人のときめき合う関係を組織してゆこうとする伝統がある」と訴えた。沖縄と日本列島本土はもともと琉球と大和という別の国ではあったが、そういう伝統も言葉も似通ったところがあるし、じつはそれこそが人類普遍の伝統でもある。
いや沖縄は、本土以上にそのような関係を組織しようとする集団性の伝統を色濃く持っている。太平洋戦争のころの沖縄は、本土以上に天皇というか日本という国に対する忠誠心を確かに持っていた。だからアメリカ軍の沖縄侵攻に際して、多くの民衆が日本軍の盾になって死んでゆくというような悲惨なことが起きた。そしてそのことに対する贖罪をこの国の政府はまだ果たしていないどころか、沖縄に対する差別感情をむき出しにしてさらなる基地負担を押し付けようとしている。
辺野古の新基地は200年の耐用年数があるのだとか。人類が核兵器を持ってしまって本格的な戦争が不可能になった現在の情勢からすれば、アメリカ軍は近いうちに沖縄から出てゆくかもしれない。もしも沖縄を攻撃しようとする国があるとすれば、真っ先に狙われるのがアメリカ軍の基地だろう。その攻撃が核兵器によるものなら、沖縄の人々だけでなく、アメリカ軍もすべて壊滅してしまう。アメリカ軍にすれば、そんなリスクを冒してまで沖縄にいる価値があるのかどうか。
辺野古に新基地を造っても、アメリカ軍は遠からずそこから去ってゆく。たぶんそれはもう、日米合意の決定事項なのだ。で、本土政府は、そのあとそこに自衛隊を置こうとしているらしい。そのための耐用年数200年なのだ。沖縄が再び盾になって壊滅してしまうことなんかなんとも思っていない・
この国が軍事産業を興すためには東シナ海の緊張が必要だし、軍事産業を発展させるためには沖縄に基地を置いておく必要があり、それを本土の大企業が政府にはたらきかけているのだとか。戦争をするためじゃない。戦争の危機を煽って軍事産業おこすためだ。彼らは、戦争なんか起きるはずがないと思っているのだけれど、危機を煽らなければ商売にならない。
それとも彼らは、沖縄を攻撃拠点にしておかなければ、敵に寝返ってしまうと思っているのだろうか。もともと琉球王朝は中国王朝に朝貢していたし、そうやって、翁長雄志は中国の手先だ、というデマを振りまいていた。
中国王朝に朝貢していたといっても、もともと沖縄は、中国とはまったく違う、日本的な文化の地域だったのだ。
まあ僕は政治向きのことはよくわからないが、沖縄に新しい基地を造ろうなんて、すごい差別意識だと思う。よくもそんなことを平気でいえるものだと思う。
僕はナショナリズムなんか持っていないからこの国が滅びてもかまわないと思っているし、敗戦国の身としては、その覚悟で戦争のない世界を目指すしかないのだろう。その覚悟で沖縄から基地をなくす工夫をしてゆく必要があるのだろうと思う。
基地をなくす代わりにあなたたちも滅びる覚悟をしてください、といえばいいのだと思う。
沖縄と運命を共にする覚悟で、沖縄に東シナ海の平和のための活動の一翼を担ってもらえばいいのだろうと思う。
沖縄は、人類の民主主義の最後の砦だと思う。沖縄には、基地なんかなくてもこの国の一部として自立し存在しえることを証明してほしいと思う。
沖縄県知事玉城デニー豊見城市長の山川ひとしも那覇市長の城間幹子も、彼らは選挙公約だけでなく、必ずみんながときめき合っている地域づくりを目指したいという訴えを織り込んでいたし、相手候補たちがそれを忘れていたのは、体制側の利害だけの関係にどっぷりつかってそれを訴えられるような柄ではなくなってしまっていたからだろう。
沖縄の人々こそ、人と人が他愛なくときめき合って集団をいとなんでゆくことができる能力を地球上でもっとも豊かに備えている人々だと思う。選挙に勝ったときの彼らがみんなして祝福の沖縄踊り(カチャーシー)で盛り上がっている様子を見ると、つくづくそう思わせられる。
沖縄の音楽や踊りや祭りには、屈託ない集団性の文化の伝統があることがよくあらわれている。

蛇足の宣伝です

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初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。
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