感想・2018年10月5日

<沖縄の霊性

沖縄はもともと琉球王国であり、日本列島とは別の国家共同体だったが、江戸時代のはじめに薩摩から侵略され、その植民地となった。
沖縄諸島の位置は、中国大陸からも九州からも、ほぼ等距離にある。
ただ、江戸時代はじめにおいては、日本列島本土よりも中国大陸のほうが圧倒的に強大な国家だったから、琉球王国としては中国大陸(=明)との外交関係に重きを置いていた。ところが薩摩に侵攻されたときの明はすでに崩壊寸前の衰退した国家になっており、琉球に援軍を送る余裕などなかった。一方薩摩は関ヶ原のあとで戦力は有り余っていた。つまり、戦争のない徳川の世になったために軍隊の働き場所を欲しがっていた。
そのようにして琉球王国は解体させられた。
もともと中国は、海を越えて侵攻する意欲も能力も希薄な民族だった。彼らの「中華思想」は一種の「ミーイズム」であり、まあ最初から琉球を領土にするつもりなどなかったし、助けるつもりもなかったのかもしれない。そしてそのころ明と入れ替わった清王朝も、沖縄を薩摩から奪還しようというような動きはしなかった。
中国王朝は、つねにまわりの諸国から侵略を受けてきたし、国内でもめまぐるしく王朝が変わる歴史を歩んできており、「侵略されるかもしれない」という強迫観念が強く、それが「中華思想」になっていったし、その強迫観念でまわりの諸国に侵略していったり「万里の長城」を築いたりしてきた。
そしてこの強迫観念は明治以降のこの国の軍国思想でもあったわけで、それが今どきの右翼の「沖縄は中国が攻めてきたときの要塞にしておかなければならない」という考えにつながっている。彼らの心の中には、「沖縄は日本の植民地である」という意識が今なお残っている。
沖縄は、この400年のあいだ、植民地としての辛酸の歴史を余儀なくされてきたのであり、現在の翁長=玉城政権になってようやく自主独立の意識に目覚めた。いやべつに「琉球国」として独立したいとかというのではなく、本土と対等の「県」として自立したい、ということだろう。
玉城デニーは、「これからは沖縄が日本経済の牽引役になる」と宣言し、さらには「沖縄から真の民主主義を本土に届けていこう」とも呼びかけた。
現在の政治状況を反映した相手陣営のカネと権力と物量にものをいわせた仁義なき選挙戦略をみごとに打ち破ったのだから、新しい時代の到来を宣言する資格はたしかにある。仁義なき新自由主義というか金融資本主義のカタストロフィはもう間近に迫っているのかもしれない。それを察知した彼らは、沖縄独自の文化=霊性と美しい自然の景観や恵みによって自立への道を歩みはじめた。



「がんばる」のではなく「ときめく」こと。がんばって「結束」してゆくのではなく、ときめき合って「連携」してゆくこと。そこにこそ新しい時代の展望があり、その「魂の純潔(=霊性)に対する遠い憧れを共有してゆく」というかたちは極めて日本的であると同時に、人類普遍の集団性のダイナミズムでもある。
沖縄の覚醒……民衆革命……その400年の屈辱と辛酸の歴史からの解放・脱出……玉城デニーに一票を投じた人々にはそういう意識があったし、それは、人類の未来に対する新しい展望を予感させる出来事でもあった。
なあんて、大げさなことを書いてみたが、そう書いてみたくなるくらい、現在のこの国の社会情況・政治状況があまりにもひどいありさまになっているからだ。まるでブラックホールに吸い込まれてしまったような「閉塞感」はたしかにある。しかしだからこそ、新しい風が吹いてこないはずがないのだし、それがもっとも貧しい県である沖縄から生まれてきたことはひとつの必然であり、この国全体の希望でもある。何はともあれそれは、普遍的な人間性の自然の上に成り立ったムーブメントであり、いやもうそれは生物学的な「進化論」の法則にもかなっているのだ。
進化論の問題は、「生物多様性」の問題でもある。弱肉強食といっても、アフリカのサバンナがライオンだけになってしまうことはないのであり、ライオンよりシマウマの方が多いのが自然の摂理だろう。キリンの首は、首の長い個体ばかりが生き残りながら長くなっていったのではなく、逆にそういう個体を淘汰しながら全体で長くなっていった。これはもう世界最新の「進化論」の知見であり、とうぜんのことだ、首が長くないことの「嘆き」を持っている個体のもとにしか長くなる契機は存在しない。
つまり、「首が長くない」民衆の「嘆き」から生まれてくる「ときめき=霊性」を甘く見ない方がいい、ということ。それは、生きてあることの「嘆き」をジャンピングボードにして心が「非日常=異次元の世界」に超出してゆく、その他愛ない「祭りの賑わい」のことだ。
玉城デニーの選挙陣営は、若者たちを中心にしたこの「祭りの賑わい」が豊かに起きていたし、この勝利は沖縄400年の「嘆き=かなしみ」がもたらしたものでもある。
僕は、素直にそれを祝福したいと思う。

蛇足の宣伝です

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初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
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