感想・2018年10月8日

ネトウヨ……沖縄の霊性・2>
人生は計画通りには進まない。僕のように行き当たりばったりで生きている人間は、なおのことです。
今回のこのブログでネトウヨの人から長文のコメントをもらい、ひとまず返信したのだが、これがとんでもないメンヘラというのか、自閉症的というか、粘着質のストーカー的というか、そういうタイプの人らしく、どうやら延々と不毛な議論につき合わされそうな気配で、そうなるとこちらもそんな暇もないし、ひとまず「これ以上はもう相手をしません」と伝えたのだが、これでよかったのだろうか、と自問自答する気持ちにもなっている。
僕はべつに左翼でもないが、やっぱりネトウヨという人種がこの時代を荒らしまわっていることには困ったものだという思いがあり、知らんぷりしてしまうのも怠慢かな、といういささかのうしろめたさもないわけでもない。
僕は、どういう態度をとればいいのだろう?
ウィキペディアレベルの知識を振り回してえらそげなことばかりいい立てるネトウヨなんかほんとにアホで、思考の中身というか創造性なんか何もなくて、相手にしてもしょうがないと思うのだけれど、どうも後味が悪い。
僕だって、昔は絵を描いていたといっても、もともとはいわゆる創造的(=クリエイティブ)なアーティストとしての資質なんか何もないのだけれど、それでも創造的な思考を持っていない相手に敬意を払うことなんかできない。今どきのネトウヨたちに比べれば、そのへんのバカギャルの方がずっと創造的な思考を持っていると思う。
創造的な思考を持っていないから、既成の価値や権力に依拠したネトウヨになるのだろう。
やっぱり僕は、裸一貫の心で考えたり感じたりして生きている人たちと連帯したいわけで、そのようなひとりぼっちの存在としてのさびしさやかなしみに耐えられなくて悪あがきし大騒ぎしているなんて、ほんとに愚劣だと思う。そういうさびしさやかなしみを抱きしめて生きている人と連帯しいろんなことを学んでゆきたいわけで、人と人はそれを共有しながら他愛なくときめき合う豊かな集団性としての「祭りの賑わい」が生まれてくるのだろうと考えている。
なんのかのといっても、恋や友情の一対一の関係であれもっと大きな集団であれ、人の世に活性化や潤いをもたらすのは「出会いのときめき」であり「祭りの賑わい」であり、ネトウヨのような自意識過剰の人間が集まっても世の中は停滞し澱んでゆくばかりだろうと思う。もっとも自意識過剰の人間はネトウヨだけではないし、自意識そのものは誰もが避けがたく抱えてしまっているものでもある。
人の心を自意識の檻から解き放つための装置として、人の世に「文化」や「伝統」が生成しているのだろう。
そういう意味でネトウヨは、文化的ではないし、伝統的ではさらにない。
われわれは「国家とは何か」とか「民族とは何か」と問う必要があるが、そうした概念にしがみつく「ナショナリズム」は思考停止以外の何ものでもない。
ナショナリズムなんか持たないのが日本列島のナショナリズムであり、伝統としての「進取の気性」なのだ。
翁長雄志は「イデオロギーよりもアイデンティティ」といった。それは「ナショナリズムよりもひとりの人間としての誇り」と言い換えることもできるわけで、その「誇り」は、裸一貫のひとりの人間としての「さびしさ」や「かなしみ」の中に宿っている。そうしてそれを翁長は、「魂の飢餓感」ともいった。もちろんそれは「アイデンティティを奪われてきた沖縄400年の歴史」のことをまず第一義に指しているのだろうが、かといって「琉球王国ナショナリズム」のことをいっているのではない。彼は、もともと保守であり自民党員なのだ。今となってはもう、沖縄の人々だって、本土の人間に負けないくらいの天皇に対する親密な感情を抱いている。
沖縄だって、ナショナリズムを持たないのがナショナリズムアイデンティティである、という伝統なのだ。
この国の天皇は、ナショナリズムなんか持たないで生きるためのよりどころとして機能している。まあ、琉球王国の王様だって、そういう存在だったのだろう。だから、沖縄の人も天皇に親密な感慨を持つことができる。
ナショナリズムを持たない」とは、権力社会が下してくる支配制度とは別の民衆だけの集団性の文化を持っている、ということだ。それが沖縄の「霊性」であり「魂」であり、同時にこの国の民衆社会の伝統でもある。
まあこのようなことはネトウヨにはわからないだろうし、しかし僕は、このことをあのネトウヨにいうべきだったのかもしれない。いちいち重箱の隅をつつき合うような議論をしてもしょうがないのであり、この思想原理において、われわれは決定的にネトウヨとは隔絶している
最近「ネトウヨこそ非国民だ」というような物言いがネット社会で広がってきているが、ほんとにその通りだと思う。
やっぱり僕は、炎上覚悟であのネトウヨに付き合ってやるべきだったのだろうか。ネトウヨなんかほんとに愚劣だし、それを証明したのが今回の沖縄県知事選挙だったのかもしれない。

蛇足の宣伝です

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』
初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。
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