感想・2018年10月12日

ネトウヨと沖縄の霊性・3>

今回の沖縄県知事選挙序盤は、自公政権が主導する候補のほうが圧倒的に有利だった。間違いなく獲得できる組織的な基礎票がすでに30万票以上にあったし、それに対するオール沖縄陣営はもたつきが目立ち完全に出遅れていた。
選挙戦がはじまったころには、世論調査と称して「玉城リード」の情報が出回っていたが、おそらくこれは、自公政権の候補の側が流したデマだった。これによって相手を油断させ、自陣の運動員の結束の盛り上がりをうながす。彼らは、前哨戦となる名護市長選でもこの戦法で勝利していていたし、そのとき以上に政権の人的物量的な後押しがあるのだから負けるはずがない、と確信していた。まあ、人海戦術と物量作戦で集票し圧倒していることの多少のうしろめたさもあったかもしれない。それが目立ちすぎることは、なんとしても避けないといけない。
ともあれネット社会は全国のネトウヨによるデマや中傷に溢れていたし、これは、候補者の人間的な魅力を前面に押し出そうとする玉城陣営にとってはかなり大きな障害になっていたに違いない。
 それでも、玉城デニーとそのまわりに集まった若者を中心とする熱気にあふれた選挙活動によって、徐々に盛り返していった。彼らは最初、翁長雄志の弔い選挙であることを強調するのを意識的に抑えていた。そうして終盤にさしかかる段階にきて8000人の大集会を開き、翁長雄志の未亡人を壇上に上げたり、玉城と翁長の写真が並んだポスターに貼りかえるなどして、一気に弔い選挙の機運を盛り上げていった。
玉城デニーの街頭演説も、「沖縄の霊性」を訴えてどんどん熱を帯びていった。
何しろ確実に計算できる基礎票がほとんど見込めない選挙活動で、浮動票において有利であることだけが頼みだった。
その結果、無党派層の7割の票を獲得した。そして、あれほどきつい締め付けをした自公陣営からも2割強の票が玉城の方に流れ。最終的には8万票の大差をつける圧勝だった。
自公政権にとっては、勝てるはずの選挙に負けたのだから、それなりにショックはあったのかもしれない。
そうして安倍政権にしがみついてきたネトウヨたちも、悔しさいっぱいにちがいない。彼らは、辺野古基地の重要性の根拠として「中国の脅威」を強調するし、それが現政権のプロパガンダでもある。
そのせいか、中国に対する嫌悪感は、今なお根強く残っている。これはまあ、文化の違いというか気質の違いが大きすぎるということもある。何しろ大陸と島国だし、価値観も美意識もかなり違う。しかしそれでも、中国の側からは、年々日本に好感を持つ人が増えていて、今や半数くらいになっているのだとか。とくに若者たちは、サブカルチャーも含めて日本文化に対する関心でかなり盛り上がっているらしい。
まあ、両国間の政府のプロパガンダがなくなれば、関係はかなり改善されるに違いない。
とはいえこの国は、総理大臣からネトウヨまで、憎み倒し排除する対象を欲しがっているわけで、とりあえずこの人たちに退却してもらわねばならない。
一時は、老人から若者までネトウヨ旋風が吹き荒れているような風潮があったが、さすがにここにきて退潮の兆しがはじまっている。それはもう、不自然な一種の病理現象なのだから、そうそういつまでも続くはずがない。


今回の沖縄県知事選挙は、彼らを後方に追いやる契機になることができるだろうか。
世代別の投票傾向の調査の結果が発表されていて、18歳から二十代までは政権側の候補の方が獲得票数が多かったらしい。このことを一般的には「若者の保守化右傾化」などと評されていて、この先は右翼的な人間が増えてゆくだろうともいわれているのだが、おそらくそうではない。
10代20代のうちは世間のことをよく知らないから、「このままでいい」と思っているだけだろう。世の中に出れば、世の中の矛盾や醜い大人がたくさんいて苦い思いをさせられるようになってきて、30代前後からだんだん左に寄ってくる。それが調査グラフのあらわすところで、若者がいつまでも保守的右翼的だとはかぎらない。大人と違って若者には可塑性というものがある。
また最近は、右翼的な保守の立場でありながら立憲民主党共産党にシンパシーを寄せる知識人も増えてきている。
さすがに日本会議流の戦前回帰の思想ではグロテスクすぎるというくらい、誰だってわかっている。若者たちだって、そんなことをお願いして自民党に投票したのではない。
現在のこの国がいかに狂ってしまっているかということを、もうそろそろ気づいてもいい。そういう新しい風が吹きはじめていることを知らせる選挙だったのかもしれない。
もちろん現在の状況がそうかんたんに変わるはずもないのだろうが、少なくとも今回の沖縄は、そうした流れを押し返すように、民衆自身の「霊性=魂の純潔」が今なお生成していることを証明してみせた。
新しい時代は、正義のイデオロギーではなく、人と人が他愛なくときめき合うことの盛り上がりによって切り拓かれるのだ。
正義のイデオロギーによって生まれた新しい社会は、フランス革命ロシア革命ソビエトのように、けっきょくさらにひどい社会になって壊れてゆく。
現在のこの国の右傾化社会だって、まさに「正義のイデオロギー」を旗印にしながらひどい状況になっているのであり、総理大臣をはじめとするネトウヨたちの魂は汚れきっている。今回の玉城デニーの選挙陣営はそれに抵抗しながら、「イデオロギーよりアイデンティティ」とか「沖縄のチムグクルで寄り添い助け合う社会をつくってゆこう」と訴え、盛り上がっていった。
こんなひどい社会が、壊れないはずがない。イデオロギーを振りかざすなんて、ほんものの「保守」のすることではない。まあその点において右翼も左翼も同類であるのだが、世界中どこにおいても民衆社会の伝統においては、「<霊性=魂の純潔>に対する遠い憧れ」が共有されている。
ほんらいの民衆社会においては「イデオロギー」も「ナショナリズム」も機能していないからこそ、他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」を生み出すエネルギーを豊かにはらんでいる。


翁長雄志は、「沖縄県民には魂の飢餓感がある」といった。この言葉の意味と重さは、現在の総理大臣や官房長官には全く通じていない。
今年の6月頃、沖縄戦の慰霊の日の式典で、中学三年生の少女が自作の詩を朗読した。それはまさに「沖縄の魂の飢餓感」をうたい上げたもので、とても感動的だったと大きな反響を呼んだ。泣いている多くの参列者の顔と無表情の総理大臣の横顔がテレビに映されていた。
ネトウヨたちはこれを、大人に渡されたものを演技して読んでいるだけだと揶揄していたが、それほど高度な詩というのでもない。あれくらいは、ちょっと頭のいい中学三年生なら普通に書ける。
人々を感動させたのは、中学三年生の少女の、その清潔でひたむきな声の調子や顔の表情であり、処女特有の霊的なというか超越的な気配にあったのだ。
もしかしたら沖縄県知事選は、ここからすでにはじまっていたのかもしれない。それから二か月たって翁長雄志が急逝し、さらに二か月後に選挙投票が行われた。その流れはもう、玉城デニーが圧勝するための絵にかいたような筋書きになっているともいえるし、玉城デニー本人も、心身ともにありったけのエネルギーを注いでその流れに乗っていった。
彼に勝算はあるのだろうか。その辺野古基地反対運動は、本土の人間たちやアメリカ政府を巻き込んだうねりになってゆくことができるのだろうか。
彼は、沖縄400年の「魂の飢餓感」の歴史と、人類の民主主義の未来を担って船出をした。

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このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
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