感想・2018年10月16日

<時代は変わるか?>
先日書きはじめた戦後史に対する感想を書き継ぎたいのだが、その前に沖縄知事選挙に対する総括をどうつければいいのかと、いまだにぐずぐず考えている。
やはりこの結果を時代が変わりつつあることのあらわれだと思いたいのが、はたしてそうなのか。僕にはわからない。
政治状況というより社会状況の問題として、よくわからない。
社会状況さえ変われば、政治状況だって変わってくる。
言い換えれば、こんな絶望的な政治状況が続くのは、社会状況が絶望的に病んでいるからだと思う。
ネット社会では知識人から庶民までのネトウヨたちの声高で騒々しい政治的発言が吹き荒れていて、この連中はみな病んでいると思わせられるが、そういう病理を日本人全体がていどの差こそあれ共有してしまっているからやっかいだ。
一年くらい前のこのブログで「ある東大教授がこの国の病理のことを『大日本立場主義人民共和国』と表現している」というコメントをもらい、なるほどそうだなあと思ったが、その東大教授の名前が最近やっとわかった。
「安富歩(やすとみあゆみ)」という経済学および東洋文化の教授らしい。
この人はもともと毛深くて男っぽい風貌だったのだが、50歳を過ぎて突然、全身脱毛をした完璧な女装をして人前に出るようになって世間をあっといわせた。そうして今や有名なオピニオンリーダーのひとりになっている。まあ話し方や物腰は以前とまったく同じで、べつにゲイというのではないらしい。ただ、「男」という社会的立場を離れて裸一貫の人間として生きたかったからだ、という。
それはなんとなくわかるし、みごとな生き方だと思わせられる。もともとずば抜けた研究実績の持ち主だから許されるということもあるのだろうが、「立場主義」の現代社会に風穴を開けた、ともいえる。
まあ今どきは、彼ほど徹底することはできないにせよ、男が女物の服を着て女が男物の服を着ること自体は、それほど奇異なことだともいえない。
彼は、ゲイやレズビアンのLGBTの人たちを擁護するつもりも気の毒だとも思わない、という。そんなのはごくあたりまえの生き方のひとつで、べつに特別なことでもなんでもないという。
なるほどその通りだと思う。
彼は、どちらかというと左翼の側にカテゴライズされているらしく、反安倍、反原発反日本会議的な発言が多い。
ともあれ思考のレベルにおいてそのへんの凡庸なネトウヨ知識人たちをはるかに超えているし、しかも人間として魅力的で、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っている人だと思う。
彼は本格的な学者であり、本格的な学者は学問が本質的に「遊び」であることを知っている。学問は「仕事=労働」ではない。
「遊び」とは、世界の輝きにときめいてゆくこと。
人と人がときめき合い助け合う世の中を目指すなら、魅力的な人がオピニオンリーダーであるべきで、ただの嫌われ者が正義ぶってしゃらくさいことをいっているのがいちばんたちが悪い。
やっぱり僕も左翼なのだろうか。
しかし政治のことなんかよくわからないし、ということはつまり政治的な立場を持っていないということなのだから、左翼とも右翼ともいえない。
ただもう魅力的な人に興味があるだけだし、この国の総理大臣をはじめとするグロテスクな人間にはうんざりしているというだけだ。
そうして最近は、左翼的な論客に魅力的な人が増えてきているように思える。
なんといってもネトウヨ的なインテリは、ブサイクな人間ばかりだ。
いや、オールド左翼だって、安っぽく正義を振りかざしたがるのはカッコ悪い。
よい社会とかよい国家など存在しえない、と僕は思っている。
ときめき合う人と人の関係があれば、と願っているだけだし、それは世の中に対する幻滅や嘆きを共有してゆくことの上に成り立っている。
ときめくこともときめかれることもない政治オタクが正義を振りかざしても、仲間どうしの狭い世界で通用しているだけだろう。
世の中が右傾化している、といわれても、僕にはそんな実感はない。
若者の多くが自民党を支持している、ということもあまり信じられない。今はとりあえず自民党に投票しておくといっても、大人や世の中に対する幻滅に目覚めた若者から順番に左傾化してゆく。
大人や世の中に幻滅した若者は、確実に増えていっている。こんな世の中だもの。こんな政治だもの。増えないはずがない。
そして、今さら魅力的な大人になれといっても無理な話だ。
魅力的な子供や若者が増えてくる可能性があるだけだろう。しかしそれを、大人たちが阻んでいる。
子供や若者は、大人たちに幻滅しないといけない。ただそれは、親と向き合っているだけでは難しい。なぜなら、親に養ってもらっていて、その恩義を感じてしまうからだ。大人や社会がいかに醜く理不尽であるかは、社会に出て働いてみて、はじめてわかる。
幻滅に値する大人がどんどん増えてきている。世の中はどんどんグロテスクになってきている。
それにはたぶん、思春期の通過の仕方が大切なのだろう。家の外の友達や異性との出会いにおいて、嘆きや幻滅を共有できる相手と出会うことができるか。そういう出会いがあるのを思春期というのかもしれない。
大人に飼い馴らされていない子供や若者が増えてこないことには、世の中は変わらない。
今どきの大人たちは、すでに社会に飼い馴らされてしまっている。
もしかしたらこの国の戦後復興と高度経済成長が、飴と鞭で日本人を飼い馴らしてしまったのかもしれない。
子供や若者たちだって、多くは飼い馴らされてしまっているのだろう。
家畜の群れ……そしてこの家畜には、飼い馴らしている主人がいない。われわれは、自分たちがつくった社会の構造に飼い馴らされてしまっている。
しかしそれでも、人が人であるかぎり、ときめき合う関係を生きようとする。心はこの世界の輝きにときめいている。ときめきがなければ人は生きられない。少なくとも生まれてきた赤ん坊は、そのようにして生きはじめる。人間とはもともとそのような存在である、ということ。
だからこそ、社会は変わってゆく。ときめく対象に引き寄せられて変わってゆく。
こんなにもひどい世の中で社会は変わりつつあるのかどうかと考えるのはとてもなやましいことであるのだが、変わらないはずがないと思う。その変わらないはずがない、ということの根拠としての人間性の自然・基礎についてここでは考えたいのだ。

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