感想・2018年7月8日

      <試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか>


いま『ネアンデルタール人論』の電子書籍を出そうと準備しているのだけれど、なかなか進みません。
ネアンデルタール人のことならもう原稿用紙5000枚分以上は書いているのだけれど、そこから500枚くらいにまとめるのは、なかなかやっかいです。
はじめてのことだから、あるていどは適当にやろうとは思っているのだが、それでもそうかんたんには仕上がらない。
これと一緒に『初音ミクの日本文化論』も一緒に出すつもりなのだけれど、7月いっぱいでは終わりそうもない。
ネアンデルタール人論といっても、僕はべつに人類学オタクではないし、本で読んだ知識を披露しようというのではありません。
引用なんか一切しないつもりです。
あくまで自分の思考実験としての感想批評のような内容で、まとめるだけでなく書き加えることもけっこうあります。
それに僕は思想家でありたいと願っているわけで、ネアンデルタール人について考えながら、それをわれわれが今ここに生きてある状況をどうとらえてゆくかという問題につなげゆきたい。
政治経済や社会の問題としてではなく、あくまで、人が今ここに生きてあるとはどういうことか、という問題。
政治経済にも社会にも背を向けて生きてきた人間です。今の世の中のことなど何も知らない。しかし知らないものだからこそ見えてくる何かもあるはずです。
いや、あるかどうかなどわからないのだけれど、まあ誰だって「今ここ」という情況を生きているわけで、そういう人としての基礎的な状況について考えてみたい。
生きにくい世の中で、生きてあることなんかうんざりなのだけれど、それでもわれわれは生きてしまっているし、世界は輝いている。
ネアンデルタール人からどう生きればいいかということを学ぼうというのではありません。
そんなことは、たぶん僕には死ぬまでわからない。
この社会がどうなればいいかということは、さらにわからない。
人としてのあくまで基礎的な問題として、「今ここ」のこの世界やこの生はいったいどうなっているか、と問うてゆくための足掛かりとして、ネアンデルタール人について考えています。
僕は生きにくい生を生きている人と連帯したいし、生きることなんか誰にとっても本質的にはそんなようなものだろうし、それでも世界は輝いている。