感想・2018年7月9日

     <歴史の記憶>


人の心は安きに流れる。
人は本性においてなまけものである。
それはまあそうだが、誰もが安楽に生きられるわけではないし、安楽でなければならないというわけでもないし、それがいちばんだともいえない。
人は水の中では生きられない生きものなのに、どうして海水浴に行ってあんなにはしゃいでいるのか。
生きられなさを生きることの恍惚(カタルシス)というものがある。
海水浴だってひとつの「冒険」であり、生きることは冒険であるともいえる。
たいていの人が安楽に生きられることを約束されて生まれてくるわけではない。
顔が悪いとかスタイルが悪いとか頭が悪いとか親がろくでもないとか金持ちでないとか辺鄙な田舎に生まれてきたとか柄の悪い町に生まれてきたとか、それでもまあ人は、ひとまずそれを受け入れて生きている。
人生は冒険なのだから、それでもかまわない。
人は、いざとなったらどんな不幸も受け入れる。
生きているということはやがて死ぬということであり、「生きられない」ことが命のはたらきの本質なのだ。
生きられなさを生きようとするのは、生きものの自然なのだ。
生きものなんか、じつにあっけなく死んでしまう。命とは、そういうものであるらしい。蝉の死も人の死も、別に大した違いはない。この地球上では、一瞬一瞬無数の死が起きている。
みんな、生きられなさを生きている。
生きられないのに生きている。生きられなさを生きている。
生きられなさと戯れることの恍惚がある。
人類の歴史は、生きられなさに飛び込むようにして進化発展してきた。まあすべての生きものの進化はそのようにして起きてきたのであり、生き延びるためにあれこれ工夫してきたわけではない。
生きられなさに飛び込んでいった結果として、気がついたら進化していた。
われわれは、生きものとしての歴史の記憶を生き、人としての歴史の記憶を生き、日本人としての歴史の記憶を生きている。