感想・2018年7月10日

<災害列島>


今回の集中豪雨で200人近い死者が出たらしい。
大災害にちがいない。
とはいえ当事者ではないのだから、どんな感想を書けばいいのかよくわからない。
とにかく大災害で、死んだ人や怪我をした人だけでなく、それ以上のたくさんの人たちがこの事態と命懸けでかかわり、たくさんの人たちが怖い思いをした。
おそらく、数え切れないほどたくさんの人がこの災害に遭遇した。日本列島全体が遭遇した、ともいえる。
権力者たちがこの災害をどう受け止めたのかということなど、考えるのもばかばかしい。
民衆にとってはどうだったのかということばかりが気にかかる。
この世は「人の世」であって、「権力者の世」ではない。
権力者は自分の世だと思っているのだろうが、この島国の文化の伝統や民衆のメンタリティは、権力者によってつくられてきたのではない。
地震津波や台風や大雨や火事や原発事故や、災害ばかりのこの国で、人々のメンタリティや文化はどのように形成されてきたのだろうか。
まず、天災はしょうがないけど人災はなるべく避けようという思いはあるに違いない。
原発事故などほとんど人災のようなものだが、われわれはそれすらも天災であるかのように受け止めてしまっていたりする。
広島長崎の原爆被害だって、天災であったかのように記憶されている部分がある。
民衆は、アメリカを憎まなかった。権力者がアメリカに追随していったからではない。民衆自身が、「ギブ・ミー・チョコレート」と進駐軍に寄っていったり、「オンリー」と呼ばれる進駐軍専属の娼婦になったりしたし、その後もアメリカ的な文化が花開いていった。そしてこれらのことを今どきの右翼インテリたちは「国としての誇りを失った戦後社会の退廃とか錯誤」というような言い方をするのだが、その「天災と思ってあきらめる」という精神は、日本人ならではの「進取の気性」の証明でもあるし、「あはれ・はかなし」や「わび・さび」の美意識でもある。
「国の誇り」なんか持っていないからこそ、豊かな「進取の気性」や幽玄な美意識が育つ風土になっている。
また、「天災だと思ってあきらめる」からこそ、人災を少なくして人と人の関係があまり緊張感をはらまないように工夫する集団性の文化の伝統も持っている。まあそれによって「外交交渉が下手だ」とか「年寄りが騙されやすい」というような困った側面があるにせよ、「レイプが少ない」とか「世界でいちばん治安がよい」といわれるような社会にもなっている。
まあこんなにもたびたび天然災害に襲われる国土であるのなら、そういう不幸に対して従順になってしまうのは当然のことで、日本人は「自然にやさしい」とか「自然を大切にする」といわれたりもするが、日本人ほど自然をいじくりまわすことが好きな民族もいない。
盆栽とか山の斜面に幾重にも重なった棚田とか、自然をいじくりまわした結果にほかならない。
一面の湿地帯だった弥生時代奈良盆地の水が干上がっていったのは、たんなる自然現象ではなく、住民たちの干拓工事の結果だった。
日本列島で水田耕作が発達したのも、水害対策ということもあったに違いない。川のまわりにたくさんの水路を張り巡らせておけば、いざというときにそこに水が逃げてゆく。
もちろん今回のような大雨になったらもうお手上げだろうが、小さな氾濫なら対処できる。とにかく、どこもかしこもしょっちゅう川が氾濫する国土だった。
そして、水に洗われて干上がった土地は、生まれ変わった清浄な土地として祝福された。
災害の多い土地だからこそ、災害から立ち直ることのよろこびも知っている。
新しく生まれ変わるということ。日本人はとても新しもの好きで、「すべてを水に流す」ことはめでたいことでもある。
ともあれ日本人が自然をいじくりまわすことが好きだということは、自然を畏れて遠ざけることをしていないということであり、災害を天罰だとは思っていないということだ。
災害に遭遇するのはつらいことだけど、それから逃げようとは思わないし、逃げられるとこなどどこにもない狭い国土だ。
日本人が自然をいじくりまわすのは、自然を支配しようとしているのではなく、そういうかたちで自然と「和解」しようとしているのであり、自然の「本質」を探究している態度なのだと思う。
いじくりまさないことには、「本質」に気づくことはできない。食い物を噛まないことには、食い物の「味=本質」はわからない。そうやって「かむ=かみ」という言葉が生まれてきた。
日本人にとっての「神=かみ」とは、この世界の森羅万象をつくったものでも森羅万象そのものでもなく、森羅万象に宿る「本質」のことをいう。
自然そのものは大きな災害をもたらす対象であり、どうしてそれを「神」だと崇めることができよう。災害はひっきりなしにやってくるのであり、いちいち「天罰」だと思っていたら生きていられない。
どこかの国の人が福島の原発事故のことを「天罰だ」といっていたらしいが、日本列島に「天罰」などない、「天災」があるだけだ。
「天罰」を信じたい人たちは勝手に信じていればいいが、この国ではそんなものを信じていたら生きられないし、あなたたちはそんなものを信じることによってものごとの「本質」を探究することを放棄しているのだ。
日本人は自然の「本質」を探究し、自然と和解しようとしている。
災害が起きればみんなで嘆きかなしみましょう、そして涙で洗い流しましょう、ということ。そうやって「かなしみ」を共有してゆけば、そこから人と人の連携・連帯が生まれてくる。マスコミもそういう報道をすればいいのだけれど、今どきは変なネトウヨが湧いて出てきて、やれ「興味本位だ」だとかやれ「自己責任」だとかなんとかと、人と人の関係をぶち壊すような茶々を入れてくるので人々が及び腰になっている。