感想・2018年7月12日

<脱・表層批評宣言>


蓮実重彦の『表層批評宣言』は1980年代の「ニューアカブーム」のころに評判になっていた本で、これによって彼はブームの先導者のひとりに祀り上げられていました。
フランス帰りの気鋭の批評家にして東大助教授、ということで、けっこう読みにくい文体の上に難しいことが書いてあったが、ひとまず僕も読みました。
ようするに既存のステレオタイプな論説の「物語性」とか「制度性」を排して新しく「批評の自由」を取り戻すというか開拓する、ということでしょうか。
まあこういうことはそのころのインテリのほとんどがそういっていて、彼がその先頭ランナーのひとりだったわけだが、そのころはフランス思想が大いにもてはやされていて、そのパクリみたいなものだったのだろうが、なんといっても彼がそのあたりの情報にもっとも精通していた。
いやそのことを僕がどうこう言える立場でもないのだけれど、彼はこの前に『反=日本語論』という本も出していて、日本語は論理的じゃないから日本人は論理的にものを考える能力が育たない、日本語なんか失くしてしまったほうがいい、というようなことをさかんにいっていました。
で、僕も、なるほどそんなものか、と思っていたのだけれど、このごろはあまりそうだとは思えなくなってきました。
日本人の思考は、必ずしも非科学的で論理的でないとはいえない。
日本人はアジアでもっともたくさんのノーベル賞受賞者を輩出しているし、世界中の科学者が集まってチームを組んで何かを研究するときでも、日本人の科学者はそれなりに一目を置かれ、チームの一員に呼ばれることが多い。
まあ、思想哲学や文学研究のような文科系の分野の日本人は、外国に行ってもあまり相手にされない。
フランス文学の研究が専門の蓮実氏だって、フランスでそれなりに実績を上げていれば、今ごろはソルボンヌ大学の教授として招聘されていることでしょう。
デリダフーコーの二番煎じではなく日本人独自の視点でフランス文学を論じてみせれば、フランス人だってあっと驚くにちがいない。たぶん彼は、そういうものを引っ提げてフランスに行くべきだったのであり、ただのおフランスかぶれでは、日本人を感心させることはできても、フランス人は驚かない。


AはBであり、BはCである。ゆえにAはCである……こういう思考の立て方を弁証法というらしいのだけれど、これがまあ西洋流で、これによってものごとの「構造」は明らかになるけれど、AとBとCが同じであることの「本質」はわからないままです。
この「構造」こそまさに「表層」で、「本質」は「深層」だということになる。そのころのフランス思想は、まさに「構造主義」の上に成り立っていた。
というわけで、おフランスかぶれの蓮実氏は、「構造=表層」を明らかにするのが最先端の「批評」である、といっていた。
日本人は、西洋人の「構造」に対する探究心の執拗さに感心し、それを受け入れる。そうしてそこから「本質」の探究に向かう。そうやってあらゆる外来文化を受け入れ、アレンジしたりデフォルメしたりしながら日本風につくり変えてきた。そこから「本質」を見つけ出すから、アレンジしたりデフォルメしたりすることができるのです。
日本人は、「本質」に対する探究心と直感を持っている。だから、日本人の科学者は世界を相手に実績を上げることができる。
ips細胞の「構造」を発見した科学者はすでにいた、しかしその「本質」は日本人の山中教授のチームが突き止めた、ということらしい。


「はし」は「橋」であり「箸」であり「端」であり「嘴」である……これは、日本語の「構造」です。そしてそれらの言葉に共通している「本質」は、「危なっかしい」とか「不安」という感慨にあります。古代人は、その「本質」をちゃんとわきまえ、同じ音声であっても何も矛盾がないことを自覚しながらそれらの言葉を使いまわしていたわけで、それはそれで論理的な思考であったわけです。まあそうやって和歌の「掛詞」とか「駄洒落」の文化が生まれ育ってきた。
日本語では論理的な思考ができない、ということなどないし、蓮実氏のそういう思考こそ「物語的」で「通俗的」で「制度的」な、既成の「二項対立」の罠にからめとられてしまっている。
そりゃあ日本語は外国人には通じないし不便なところはあるが、日本語のネイティブだからできる論理的な思考もあるのです。
日本語はだめで西洋語は正しいなんて、ただの二項対立だし、古臭く制度的な教養主義でしかない。
日本語なんかなくしてしまえ、という議論は「脱亜入欧」の明治以来ずっと繰り返されてきて、その議論自体が「物語的」で「制度的」なのです。
蓮実氏もニューアカブームのもうひとりのリーダーである柄谷行人氏も、批評は「世界性=普遍性」を持たねばならないとよくいっていたのだけれど、日本語および日本文化そのものに「世界性=普遍性」がそなわっている部分があるのです。
たとえば日本語の「火=ひ」は、もしかしたら英語圏でも遠い昔は「フィ」といっていたのかもしれない。それがやがて「フィア」になり、ついには現在の「ファイア」になってきたのかもしれない。
日本列島でも古代以前は「fi (フィ)」とFの発音をしていたという説もあります。
つまり、日本語には人類の言葉の起源のかたちが残されているのかもしれないのであり、だとしたらそれは人類の共有財産だともいえる。
日本語はだめだ、ということ自体が「物語的」で「制度的」な思考です。
僕は、日本語および日本文化そのものに「世界性=普遍性」を探してゆきたい。ぞしてそれは、「構造=表層=意識」ではなく、「本質=深層=無意識」を探求することです。
だから「脱・表層批評宣言」です。