閑話休題・沖縄知事選挙のこと


僕は、この選挙を最初からずっと注目していて、玉城デニー氏の街頭演説はYOUTUBEで欠かさず見てきた。なぜブログに書かなかったかというと、僕の見方はあまりにも希望的な観測で、実体からは遠いのかもしれないと思ったからだ。
この選挙がはじまる前の翁長雄志氏が死去したころ、オール沖縄の陣営は候補者擁立が遅れて不利な戦いになるだろうと予想されており、すでに選挙態勢を整えていた自民・公明の側は早くも勝ちムードになっていたが、ある政治評論家が、「結果はどうなるかわからないが、<沖縄の霊性>というものを甘く見ない方がいい」といっておられた。
僕は、この言葉に深く同意した。で、そこから関心が一気に高まっていった。
たんなる政治的な力関係だけで決着がつくとは限らない、民衆の心に宿る「沖縄の霊性」がどこまで抵抗できるかと試されている、ということ。
そしてこの「霊性」を託された玉城デニーはもう、最初からはっきりとそれを意識していて、沖縄の言葉で「チムグクル」といっていた。「チム」とは「肝(きも)」のことで、「グクル」は「心(こころ)」、つまり「沖縄の魂」ということ。死者である翁長雄志の幽霊を呼び覚まそうとしたのではない、われわれは翁長雄志と「チムグクル」を共有していたではないか、と訴えた。「チムグクル」とは、おたがいさまで助け合うこと、沖縄にはそういう伝統があり、それによってわれわれはもう基地負担と引き換えの政府の援助を当てにしなくても自主独立で発展してゆくことができるはずだ、と訴えた。
右翼の評論家たちは、東アジアの戦略として沖縄にはどうしても基地が必要だ、という。しかしそれは九州や四国や北海道や青森でも東京や大阪でもかまわないのであり、それぞれの地域が等分に米軍基地を負担するというのなら、面積比でいえば沖縄は1パーセントでも多すぎることになる。なのに、70パーセントも背負わされている。
右翼のある評論家が、テレビで「佐世保や横田の人々は米軍基地を普通に受け入れている。沖縄だけどうして反感を抱くのか」といっていた。よくもまあこんな横柄で無神経なことがいえるものだ。右翼とは、こんな下司野郎ばかりなのか。
太平洋戦争のときの沖縄は、日本で唯一アメリカ軍の上陸を許し数十万の民衆が無惨に殺された土地であり、その後も植民地として長く支配されてきた。いわば強盗に入られたあげくにその強盗に主人ヅラして居座られてきたのだ。それでどうして平気でいろといえるのか。そんなことをいって人間として恥ずかしくないのか。ほんとに、今どきの右翼ほど恥知らずな連中もいない。
本土の人間たちは、明らかに沖縄を差別している。沖縄に軍事基地が集中していれば、戦争のときには真っ先に沖縄が狙われる。沖縄をそういう「盾」というか「捨て石」に使いたいらしい。


沖縄にだって、政府からの補助金という目先の利得を欲しがる人は少なくない。しかし翁長雄志は「われわれは乞食ではない、沖縄(ウチナンチュ)の誇りを失ってはならない」と説き続けたし、玉城デニーはそれを引き継ぐと宣言した。これもまた「沖縄の霊性」の問題だ。
これ以上基地はいらない、といって、何がいけないのか。
まあこの「霊性」のことをここではずっと前から「魂の純潔に対する遠い憧れ」といってきたわけで、霊魂がどうのというようなオカルト趣味の話をしているのではない。
ある米軍将校は「沖縄に基地があるのではない、沖縄全体がまるごと基地なのだ」といった。沖縄の人々は、これからもずっとその屈辱を背負っていかなければならないのか。基地は、沖縄の経済発展の阻害要因になっている。主要な土地のほとんどを米軍基地に占有されながら、それでも観光を基礎にした沖縄経済は少しずつ発展の歩みを続けている。どこかで補助金頼みの経済から決別しないといけない。玉城デニーのそういう訴えは、しだいに広く浸透していった。選対本部は「反応はいい」と感じた。
両候補の基礎票は拮抗していた。あるいは、相手候補の方がやや多かった。選挙資金も相手のほうが潤沢だったし、運動員の数にいたっては圧倒的な差があった。
玉城候補のもとに集結した運動員のほとんどはボランティアで、とくに若者たちの明るくひたむきな頑張りに支えられていた。彼らはそこで、「青春」していた。そうして「勝利」という何ものにも勝る報酬がもたらされたわけだが、もし負けていても、彼らには貴重な体験になったに違いない。それは、「沖縄の霊性(=魂の純潔)」の上に盛り上がったひとつの「祝祭」だった。


この勝利は、歴史的なエポックだと思う、民衆が持っている人類普遍の他愛なくときめき合ってゆく「連携」の集団性が、権力社会が振りかざす愚劣な「正義」による「結束」の集団性に勝利したのだ。
右翼の論者たちはみな、そのさかしらな政治的経済的判断の正当性を主張しつつ玉城氏の批判を繰り返していたが、それに対する人類普遍の無邪気な「魂の純潔(に対する遠い憧れ)」が勝利したのだ。
そうやって知ったかぶりしながら上から目線で批判しても、選挙とは本質的に人気投票であり、より魅力的な候補者が勝てばいいのだ。問題は、何が人々を魅了するかであって、何が正しいかということではない。
正しさで結束している集団よりも、豊かにときめき合っている集団においてこそダイナミックな活性化の勢いが生まれてくる。
開票前の予想は、どちらが勝つにしても差はわずかだろうといわれていたが、僕は、もしかしたら圧倒的に勝つかもしれないという気になっていた。というか、そうなれば面白いのになあ、と秘かに願っていた。なぜなら僕は、それは金や権力社会から下りてくる「正義」によって結束している集団性と、候補者の人間的魅力に引き寄せられてどこからともなく集まってきて他愛なくときめき合っている集団性との戦いだと思えたし、集団のダイナミズムはつねに後者の方にあるといつもこのブログで書いてきたからだ。
ともあれ「言挙げしない」のがこの国の伝統であり、だから書くのを控えてきた。
結果は、8万票差の圧倒的な勝利になった。
相手候補は、基礎票を上積みするどころか、かなりの数を玉城候補にもっていかれた。これはもう、人相も含めた人間的な魅力の差であり、人間的な魅力の豊かな候補者が勝って何が悪い。
人類の集団性のダイナミズムは、さかしらな政治的経済的な判断ではなく、あくまで無邪気な「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有した「祭りの賑わい」から生まれてくるのだ。
僕は、玉城新知事の挑戦が実を結ぶかどうかなんてわからないし、挫折したってかまわないと思っている。ともあれ「魂の純潔に対する遠い憧れ」を抱いて挑戦してゆくことはとても素敵なことだし、それなしに民主主義の未来はないのだ。
そろそろもう、右翼的というか新自由主義的な「正義」が幅を利かせている風潮が退却していってもいい時期に来ている。
あの連中が合唱している「正義」なんか愚劣だ。

蛇足の宣伝です

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初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。
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