感想・2018年9月30日

<戦後の女神たち・6>
阪神淡路大震災東日本大震災の直後にはあれほどみんなで助け合おうという気持ちが盛り上がったのに,今どきの「ヘイトスピーチ」とか「セクハラ・パワハラ」とか「ストーカー」とか「クレーマー」とか「ストーカー」とか「非婚化」とか「セックスレス」とか「格差社会」とか「分断社会」とか、どうしてこんなにもひどい社会状況になってしまっているのだろう。この情況が、被災者の心を孤立化させ、孤独死に追いやったりしている。
われわれはどうしてその体験を、敗戦後の復興の盛り上がりを再現するようなかたちにはできなかったのだろう。
どうして被災者の心に寄り添ってゆくような社会情況にならなかったのだろう。
日本列島の伝統においては、民衆社会のおたがいさまで助け合う集団性の流儀は権力社会から下りてくる制度性とは違うのだということ。敗戦直後はそういう流れが自然に生まれてきたが、現在は、多くの民衆の心が権力社会が扇動する民族主義に巻き込まれてしまっている。
明治の開国のときまで異民族との確執を体験してこなかった日本列島の民衆は、民族主義など意識したことがなかった。
おたがいさまで助け合う歴史を歩んできた日本列島の民衆の伝統に、排他的な民族主義などというものはない、それは、権力社会において意識されてきただけだった。
そして明治以降の民衆は、大日本帝国憲法教育勅語等によって民衆自身の集団性で生きることを禁止されてきたわけで、敗戦によってそのほんらいの集団性が解き放たれたというか、よみがえった。民間の有志が戦争未亡人や戦災孤児の救済に乗り出すことや、廃墟の都市に「パンパン」が出没することや、子供たちが進駐軍に「ギブミーチョコレート」といって寄ってゆくことなどは、権力社会とはまったく無縁のムーブメントだった。
銃後の守りの皇国の子女や軍国少年たちは、いったいどこに行ってしまったのか。それくらい鮮やかに変わってしまえるところに日本列島ならではの「進取の気性」の伝統があった、ともいえる。そのとき民衆は、戦争に負けたという「喪失感」をまるごと抱きすくめていったのであり、その果ての明るさだった。
なのに、いつの間にか権力社会に歩調を合わせるような流れになってしまっている。
軍国主義においても新自由主義の競争社会においても、支配者は、排他的な民族主義を煽って権力の安定を図ろうとしてくる。
現在のこの国の右翼によるヘイトスピーチが横行する分断社会状態はグロテスクだといっても、内戦・内乱状態の国の狂信的な民族主義に比べたら生ぬるいものかもしれないが、それにしても70年前の民衆のあの純真な集団性はどこに行ってしまったのだろう。


戦後の高度経済成長ゆえか、われわれはいつの間にか「喪失感=かなしみ」を共有してゆく作法を失った。とくにその甘い汁をたっぷり吸って人生を歩んできた団塊世代は、もっともそのことができない無作法な世代であるのかもしれない。
今やこの国の精神の退廃はあらゆる世代に及んでいるのかもしれないが、なんのかのといっても戦後の高度経済成長の浮かれ騒ぎには、つねに団塊世代が中心にいた。
彼らは、敗戦後の生き残った大人たちから未来を託されて生まれてきた。そうして青春時代はビートルズをはじめとするポップカルチャーの隆盛期を過ごし、自分たちが結婚する70年代には「ニューファミリー」のブームを担い、やがてはバブルの繁栄の中心世代として活動するようになっていった。
彼らは「喪失感」の時代に生まれて、「喪失感」とは無縁に人生を歩んできた。だから彼らには、哲学がない、歴史意識がない、すなわち死者と対話をする思考を持っていない。彼らは、日本人がバブル以降の相次ぐ大震災をちゃんと総括して歩むことができなかったことの象徴的な存在なのだ。


日本人は、過ぎ去ったことはさっさと忘れてしまう民族だから、「総括」ということがうまくできない。
われわれは、太平洋戦争の敗戦をきちんと総括しただろうか?
あの大震災や原発事故を、「世界の終わり」の体験としてちゃんと受け止めているだろうか?あいまいなままやり過ごしてきたのではないだろうか。
「後世の歴史が明らかにしてくれる」などといっても、闇に葬り去られた真実はいくらでもある。
たとえば太平洋戦争のことだって、今になってどうしてあんなわけのわからない歴史修正主義がはびこってくるのか。正義の戦争だっただなんて、自分たちがそう思いたいだけだろう。また逆に、軍部は愚かで卑怯だったと左翼はいうが、そりゃあ、賢明で誠実な軍人だっていただろう。そんなことはもう、平和な世の中においても同じにちがいない。どんな時代であれ、いろんな人間がいるし、いろんななりゆきがある。
歴史は、いつか必ず明らかにされるのではなく、闇に葬られるのだ。そして、葬り去ったほうがいい場合もあれば、明らかにしなければならないこともあるのだろう。
とにかく日本人にとってのあの敗戦や大震災は、そこで世界が終わったという体験だった。そしてそのことを深くかみしめ共有しながら新しく生き直してゆくことに民衆の集団性のダイナミズムがあるのだが、敗戦後と震災後にはそのことに大きな温度差があった。
時代が変わり、ちゃんと「世界の終わり」を受け止めることができなくなっている。
現在の日本人には、あの大震災を「なかったことにしてしまいたい」という「歴史修正主義」の欲望が疼いている。それはもう、今どきの右翼が「あの戦争は正義の戦争だった」といっているのと同じなのだ。そうやって震災以前・敗戦以前に回帰しようとしているわけで、「新しく生き直す」ということができなくなっている。それは、「総括」できない日本人の負の側面、ということだろうか。
震災後数年たって発表された『シン・ゴジラ』や『君の名は。』という映画が大ヒットし、「あの大震災を総括している」と評価されたのだが、どちらもけっきょくのところは「世界の終わりを回避する」というハッピーエンドの物語で、「世界の終わりから生きはじめることができない」という現在の停滞した世相の反映にすぎなかった。
日本列島の伝統においては、さかしらな「総括」によって継続を回復するよりも、さっぱりと忘れて「新しく生き直す」という流儀で歴史を歩んできた。つまり、伝統などにこだわらないのが伝統で、民族主義など持たないのが民族のアイデンティティであり、それが「世界の終わりから生きはじめる」ということだ。
民衆の集団性のその伝統やアイデンティティが敗戦後によみがえり、今また失われようとしている。

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それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
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