団塊世代の余生

ネアンデルタールは滅んだ、という「置換説」ほど人間を愚弄している学説もないと思えます。赤澤先生だろうと誰だろうとかかってこいよ、という気分なのですが、今から熱くなってもしょうがないので、頭を冷やすためにもうちょいと横道にそれてみます。
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今、団塊世代が注目され始めている。
それは、ただたんに新しい消費のマーケットとしてだけでなく、戦後史の特異な世代として、あるいは、認知症の親を抱えニートの子供を抱えながら、彼ら自身の余生をどう生きてゆくのか、ということも取りざたされてきている。
彼らが、これからの老人問題や老人像をどう変えてゆくのか。
たぶん、何も変わらないでしょう。
彼らが、余生をどう生きるかという議論をしているかぎり、何も変わりはしない。
余生なんて、吐いて捨てるほど議論されてきたし、いまさら新しい余生なんてあるはずがない。
だいたい素敵な余生を生きようなんて、あつかましい話です。バブル景気の中心となって浮かれまくったのだから、それでじゅうぶんではないか。
余生があるかどうかなんて、誰にもわからない。
明日がんを宣告されるかもしれない。そういう年代でしょう。
で、混乱して荒れ狂う。今まで現代人が繰り返してきたパターンです。
荒れ狂わないでもすむようなトレーニングしてこなければ、荒れ狂うに決まっている。
いい気になってそういうトレーニングをいちばんしてこなかったのが、団塊世代なのです。
全共闘運動に始まり、社会に出てからは、日本の経済成長を一身に担って突っ走ってきた。
「老人になりきれない老人の世代」、なのだそうです。まったく、よく言うよ、て感じ。
年寄りは、みんなさびしく死んでゆくだけです。
「寂滅」という仏教の言葉があります。
さびしく死んでゆける年寄りが、いちばんいい年寄りなのです。さびしく死んでゆくことができないから、「認知症」にもなる。明るく楽しい年寄りなんて、陰気で意地悪な年寄りと同じくらいグロテスクではた迷惑なだけです。
知り合いの65歳の人がこう言っていました。
「俺の余生は20歳のときに始まっていたから、余生も、いいかげん飽きたよ。後はもう、さびしく死んでゆくだけだね」と。
こういう言葉こそ、全共闘運動に夢中になった世代から生まれてくるべきではないのか。
誰もが30代までしか生きられなかったネアンデルタールに、余生などなかった。彼らは、来年も自分が生きてあるような生き方はしなかったし、できなかった。
彼らは、死が必ずやって来ることを、ちゃんと知っていた。
そんなの当たり前のことだが、われわれは知らない。余生がまだある、と思っている。
余生がないのが、余生なのです。