騒がしい未来

若者には明日が約束されている、だから「死の恐怖」なんか関係ない、といえるでしょうか。
若者だって、やがては若者でなくなってしまう。
若者にも「死」はある。
とくに女は、いつまでも若い体でいられるかという不安はあるし、必ず若い体でなくなる。
心の問題にしても、いつまでも意気がってはいられない。社会人になれば、妥協しなければいけないことは、いっぱい出てくる。
スピッツの「チェリー」という歌に、こんなフレーズがあります。
「きっと、想像していた以上に騒がしい未来が僕を待っている」
現代人は、想像したとおりに未来がやってくると、つい思いがちです。 しかしせめて、「そのとき私はあわてふためくだろう」という覚悟くらいはしておいたほうがよい、とスピッツは歌っている。
それは、社会に出る若者も、死を迎える老人も、同じに違いない。
エリートサラリーマンになったはいいものの、「こんなはずじゃなかった」と、薬物中毒になりながらやっと日々の仕事をこなしているという若者は、けっこういる。
社会人になるということは、「想像していた以上に騒がしい未来」なのです。
そして死を迎える老人も、騒がしく荒れ狂う心を体験しなければならない。
だいたい想像通りの未来なんて、面白くもなんともない。
想像したって無駄だよ、想像しないほうがいいよ・・・スピッツは、そう歌っているのかもしれない。
身体を支配し、支配できると思う傾向は、むしろ若者のほうが強い場合もある。ある程度思い通りに体が動くし、大学生が社会人にならなければならないときとか、結婚式を控えた花嫁の「ウエディング・シック」とか、それはもう目の前のことです。
失恋すればこの世の終わりのように絶望するし、若者のほうがむしろより強く死に脅迫されているともいえなくもない。
若者は、意識の底で「若者であることの死」から強迫されている。
そうやって現代人は、若いうちからずっと「死の恐怖」を意識の底にため込むことばかりして生きている。
そして若作りした現代の老人もまた、若いうちからずっとそうやって生きてきたから、老人くさくない余生を送れるとうぬぼれている。しかしそうやっていきがっていると、いずれきっと「想像していた以上に騒がしい」断末魔の叫びを上げなければならなくなる。
いい余生を送って生の充実とやらを堪能すれば、そのあいだ人は、死のことを考えない。それでいよいよ死が現実のものに迫ったとき、あわてふためく。
生のことなんか、もうどうでもいいのです。死が現実のものになったときにそれを受け入れることができるトレーニングだけが必要なのです。
学生は、社会人になることは死ぬことだ、と思い定めたほうがよい。それは、お気楽な余生なんかではないのです。
早い話が、死ぬ気になれるやつのほうがダイナミックに生きている。生きることなんか、後からついてくる「結果」だ。
年寄りだって、余生という明日が約束されているとなんか思わないほうがいいのかもしれない。
年寄りだって、年寄りだからこそ、明日なんかない、と思い定めて「今ここ」を燃え尽きようとする心意気は必要でしょう。
すくなくともネアンデルタールは、そうやって生きていた。極北の寒冷地で暮らす原始人として、明日生きてあることのできる保証なんか、何もなかった。それでも彼らがその地にとどまって生き抜いたのは、その「嘆き」そのものが、ダイナミックな狩の形態や男と女の関係を生んで生を充実させていったからです。
われわれは、ネアンデルタールのように「嘆き」をもち、「嘆き」を表現できなければならない。

「想像していた以上に騒がしい未来」に入ってゆく嘆きを持ち、嘆きを表現できる「何か」を持たなければならない。
スピッツに言わせると、「君を忘れない」と決心するだけで、ずいぶん違うのだとか。