今日から、ネアンデルタールは滅んだと主張する世の「集団的置換説」に、異論・反論を書き継いでゆこうと決めました。
日本ではもう、研究者の世界もジャーナリストの世界も、「置換説」一色です。
しかしアマチュアの世界では、この説に疑問を抱いている人はたくさんいる。
人類がアフリカを出て極寒の北ヨーロッパにたどりついて五十万年間、その営々と築いてきた歴史と伝統とは、いったいなんだったのか。このことを、考古人類学の世界で、きちんと問われているでしょうか。ネアンデルタールは滅んでしまったからそんなことはたいした問題ではないのだ、知能が遅れていたに決まっている、といわれても、われわれは納得できない。
ネアンデルタールだって、人類七百万年の歴史を背負ってこの地球上に登場してきたのです。脳容量だって、けっしてホモ・サピエンスに負けていなかった。研究者のなかには、ネアンデルタールの脳は筋肉みたいなものだった、などと乱暴なことをいう人がいます。冗談じゃない、人間の脳は、人間の脳に決まっている。それが筋肉みたいなものであるはずがない。彼らの頭蓋骨の額の部分がホモ・サピエンスほどには立っていないことをもって、前頭葉が未発達だったなどともいわれているが、前頭葉の脳全体にたいする割合は、人間もチンパンジーも同じなのです。ネアンデルタールがどういうかたちで脳の中に前頭葉を収めようと、ネアンデルタールの勝手でしょう。
いずれにせよ、数十万年前の原始人が氷河期の北ヨーロッパで生き延びていたという事実は、驚異的なことです。涙が出るほど感動的ではないですか。人間というのはすごいなあ、と思いませんか。
それは、けっしてかんたんなことではなかったはずです。原始人レベルの文化でその厳しい環境を生き延びようとすれば、それなりに多大の苦悩やストレスを抱え込まねばならなかったにちがいない。おそらく、その苦悩やストレスを処理するために脳が発達した。ネアンデルタールの脳容量が現代人よりも多かったということは、そのぶんネアンデルタールの知能のほうが発達していた、ということかもしれない。現代人よりも文化が未発達だったからこそ、より高度で複雑な脳の働きを強いられていた。最先端の携帯電話を使いこなすギャルが、携帯電話すら持っていない哲学者よりも頭がいいともいえないでしょう。そうしてネアンデルタールに苦悩やストレスが多かったということは、そこから多くの快楽というカタルシスを汲み上げていた、ということを意味します。そうやって脳は発達する。極寒の北ヨーロッパを生きるその苦悩とストレスこそが、彼らのその地で生きる喜びでもあった。たとえばそういう状況におかれていれば、人を抱きしめるときめきもひとしおのものがあるでしょう。ヨーロッパ人の抱きしめあう挨拶は、ネアンデルタールの伝統であろうと思えます。
異論反論は、山ほどあります。彼らは、根底的に間違っている。揚げ足取りをするつもりはない。根底的に、異論反論を唱えたいのです。

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