怖いけど、決意表明をしておきます。
なにしろ日本の考古人類学の世界はもう置換説一色で、置換説の悪口を言うと、思い切りたたかれる。
たとえば「中学生レベルの知識で生意気言うんじゃない」、と。

でも、ちゃんと自分で考えようとしているなら、知識なんて中学生レベルでもいいのです。小学生レベルの思考力しかない者が、知識だけを振り回して威張っているのよりは、ずっと罪がない。

だって、現在流布している人類学の常識なんて、十年後二十年後にはまったく意味のないものになってしまっているのかもしれないのですよ。そういうときになって、あのころはそういう考えが主流だったんだと言い訳するのも、研究者の立場はそれで守れるかもしれないが、なんかみすぼらしいじゃないですか。

産婦人科の病院で子供を取り違えて、あの時はそうだった、ではすまないでしょう。人は、真実を求めて生きているのであって、知識や証拠をコレクションするためではない。
生きることは、待ったなしの事態です。
あなたたちは、ほんとうに、決して揺るがない真実だと信じて置換説を唱えているのか。今後DNAのデータが「混血している」と出てきても、けっして信を曲げない覚悟があるのか。
われわれは、信じていますよ。たとえどんなデータが出てこようと、最後には、ネアンデルタールホモ・サピエンスの遺伝子を吸収してクロマニヨンに変わっただけだという結論に落ち着くのだ、と。

だいたい「中学生レベルだ」というようなせりふは、研究者にかみつくときに使うせりふであって、自分より知識が劣っていると思える相手をいじめるために使うべきではない。

ただの思いつきでもいいのです。それが誰も言っていないことだったら、千のうちひとつくらいは現在の考古人類学の停滞を突破するいとぐちになるかもしれない。
現在のこの業界なんて、新しい発掘証拠が出てくるたびに、もとの説を修正したり、そんなはずないと居直ったりと、右往左往しているだけじゃないですか。
「やっぱりそうだっただろう」といえるような仮説を、なぜ提出しようとしないのか、提出できないのか。

ボブ、ディランは「時代は変わる」という歌のなかで、現在の一周遅れのランナーこそが、次の時代の先頭ランナーかもしれない、と歌っています。つまり、今、先頭をきって走っているつもりでも、それは次の時代から一周遅れて走っているだけのことかもしれないよ、ということです。

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