感想・2018年7月17日

<桜の花の下で>


まあ人は、人類滅亡を夢見ている存在だから、戦争をしたがるし、「ネアンデルタール人は滅んだ」などといいたがるのかもしれない。
しかし、人類滅亡を夢見ることこそが命のはたらきや心のはたらきを活性化させるのであり、そんなめでたいことはそうかんたんには起きない。
皮肉なことだ、生き延びようとすることが命や心のはたらきの本質だといっている研究者たちが「ネアンデルタール人は滅んだ」といい、「人類滅亡ほどめでたいことはない」と考えている僕が「ネアンデルタール人は滅んでなんかいない」という。
南北アメリカ大陸を侵略していった近代のヨーロッパ人が、先住民に対するあれほど執拗で残虐な殺戮を繰り返しても、滅ぼしつくすことはできなかった。
20世紀のナチス・ドイツだって、ユダヤ人をまるごと殲滅してしまうことはできなかった。
織田信長もまた、比叡山の僧や伊賀の根来衆を根絶やしにしてしまうことはできなかった。
人類滅亡というめでたいことは、そうかんたんには起きない。


だから僕は、サッカーワールドカップになれば、チリやペルーのインディオのチームを応援する。
日本チームなんか、どうでもいい。そりゃあ出ていれば応援するけど、勝っても負けても、それほどよろこびもしないし、落胆もしない。
準決勝のイングランドクロアチア戦では僕はクロアチアを応援していたのだけれど、それにしても負けたイングランド選手のあの落胆ぶりは、こちらの予想をはるかに超えて、感動的ですらあった。
「国の誇りをかけて戦う」といっても、その思い入れの深さや強さは、日本人にはとても真似できない。
僕は日本人だから、ナショナリズムは、あまりピンとこない。
それに対して彼らは、何千年も国と国の戦いの歴史を歩んできた。そういう歴史の無意識を心の底に持っているのだろう。
日本列島なんて、明治以降の、たかだか150年の歴史にすぎない。そして日本人の戦争の仕方には、つねに「人類滅亡」の願いが託されている。そこから、「うちてし止まん」とか「散華の精神」というような言葉が生まれてきたし、だからまあ「無謀で勇敢だ」という評価にもなっている。
パッと咲いてパッと散る桜の花が好きな国民なわけで、「桜の樹の下には死体が埋まっている」と書いた小説もあるのだし、今どきは中学高校の卒業や入学の祝いには桜の歌が定番になっている。
いいとか悪いといってもしょうがない。人類滅亡は、人類普遍の願いであり、もっともめでたいことなのだから。