感想2018年11月11日

この生のかたち


「さよならだけが人生だ」という名文句を吐いたのは、井伏鱒二だっただろうか。
その通りだと思う。
700万年前の原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、猿としての生と決別する体験だった。ひとまず猿として死んだ、と言い換えてもよい。そこから人類の歴史がはじまった。
そのとき人類は大いなる「別れ」を体験したのであり、その体験を果てしなく繰り返しながら地球の隅々まで拡散していった。そのように「別れ」基礎にして思考し行動するという生態の伝統は、普遍的な人間性として現代社会を生きるわれわれの中にも息づいている。
何かを失ったり人と別れたり、生きていればそのような「別れのかなしみ」の体験はつねに付きまとっている。
すなわち「世界の終わり」を抱きすくめていったところから生きはじめるということ、それが「さよならだけが人生だ」という感慨ではないだろうか。
雑踏の中で見知らぬ人と出会ってふとときめき、次の瞬間には何ごともなかったようにすれ違ってゆく。われわれは、こんな体験を無限に繰り返しながら生きている。
「今ここ」は、次の瞬間にはもう、過ぎ去った昔でしかない。
新しい何かを知ったり感じたりすることは、それまでの自分の人生が終わることであり死ぬことだ、ともいえる。それが「ときめく」という体験である。
二本の足で立っている猿としての人間性の基礎は、「別れのかなしみ」と「出会いのときめき」の上に成り立っている。そうやって「出会いのときめき」に引き寄せられながらどこまでも歩いてゆき、また「別れのかなしみ」を抱きすくめながら立ち去り、さらにどこまでも歩いてゆく。この心模様こそが、人類の直立二足歩行の生態を進化発展させてきた原動力なのだ。
直立二足歩行は、もともと長く歩き続けられるような姿勢ではない。二本の足で全体重を支えているのだもの、疲れないはずがない。長く歩き続ければ、疲れて足が棒のようになってしまう。それでもなぜ歩き続けることができるかと問わねばならない。歩き続けることができる心模様を持っているからだし、体の軸を前に倒せば自然に足が前に出てゆくというオートマティズムをもっているからだ。心も体も疲れ果てているのに、それでも歩いてゆくことができる。さらには、疲れ果てているというその「嘆き」を抱きすくめてゆくことをできのが人間性でもある。
「嘆き」、すなわち「別れのかなしみ」から人類の歴史がはじまった。ここでは長く語ることをやめておくが、おそらく原初の人類は四本足でいることに疲れ果てて、その「嘆き」を抱きすくめながら二本の足で立ち上がっていったのだ。
人類の二本の足で立つ姿勢は、「世界の終わり」を抱きすくめているのだ。それは、「もう(いつ)死んでもいい」という勢いを持っているということであり、そうやって地球の隅々まで拡散していったのだし、さらには火を使うとか言葉を覚えるとかのさまざまなイノベーションを生み出し進化発展してきたのだ。
人が生きることの根源的なかたちは、「さよなら=世界の終わり=人類滅亡」の「喪失感=嘆き」を抱きすくめながら、「もう死んでもいい」という勢いで心が華やぎときめいてゆくことにある。
つまり、ひどい世の中になってしまった、もうおしまいだ……と嘆くことは、新しい時代が胎動してきていることの証しでもある。

蛇足の宣伝です

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』
初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。
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