2022年の「気分はもう戦争」から、2023年の「気分はもう敗戦」へ。

二年ぶりの更新です。

ほんとうは続けたいと思っているのに、なんとなくさぼってきました。

そのあいだ、YOUTUBEをやっていました。しょぼい番組だし、まわりの家族や友達みんなから「やめとけ」といわれているから、いちいち恥ずかしさと後ろめたさが付きまといます。

その都度それを振り払ってやろうとするから、あまりうまく進まないし、結構しんどい二年間でした。

まあ、YOUTUBEのための原稿をそれなりに丁寧に書いているから、それを転載するかたちで、これからはもう少しブログもまめに更新しようと思っています。

 

さしあたり、きょねんのくれにかいたものをううします。

 

【2022年の「気分はもう戦争」から、2023年の「気分はもう敗戦」へ。】

 

2022年はウクライナ戦争の勃発とともに始まり、この国では安倍晋三をはじめとする低俗な右翼たちによる核兵器共有論や軍備増強論に引きずられた「気分はもう戦争」という状況になっていった。

そして7月の安倍銃撃事件がそれに拍車をかけた。

 

ロシアはなぜ戦争に踏み切ったのか。

プーチンは長い間かけてロシアの誇りとかアメリカやEUの脅威とかウクライナファシストに支配されているなどの言説を振りまいて民衆を洗脳してきた。だからロシアの中高年や地方都市の民衆のほとんどは戦争に賛成している。

反対しているのは、モスクワやサンクトぺテルブルグ等の大都市の若年層だけである。

そしてこの国もまた、長い間の自民党右派勢力の支配によって、多くの男たちがそのプロパガンダに引きずられてしまっている。

 

まあ世界中どこでも女は、宗教や政治等のプロパガンダにかんたんに洗脳されるか威勢よく反対するかの両極端までいるが、男はおおむね中途半端な日和見が多い。

ロシアであろうとこの国であろうと、男や年寄り連中は権力者のプロパガンダに引きずられやすい。多くの男は、一部の女のように丸ごと洗脳されるということもない代わりに、日和見を決め込んでずるずると権力社会のプロパガンダに引きずられてしまう。

そうやってこの頃は、憲法改正論や防衛費倍増論になんとなく賛成してしまう日和見主義者たちが増えてきているというか、日和見主義が正義であるかのような風潮になってきている。

日和見主義の男たちが、正義ぶって知ったかぶりして偉そうなことを言ってくる。薄っぺらなやつらだ、と思う。

 

しかしこのところロシアの劣勢が伝えられるようになってきた。それは、何を意味するのか。

プーチンは、さんざん強迫観念的なEU脅威論を国内に振りまき、全体主義権威主義的国家体制をつくってきた。それは、戦前のこの国の状況と一緒だし、現在の岸田政権下の防衛費倍増論議もそれと同じだろう。

 

2022年のこの国の権力社会や右翼界隈は、そのような「気分はもう戦争」という流れだった。

ただ、現在のロシアは負け始めている。それはアフガン戦争やベトナム戦争と同じで、侵略した大国が弱小国に負けるという流れであり、侵略されたときは最低限の武力でも撥ね返せる、ということだし、防衛費を二倍にすれば侵略されないで済むというものでもない。

下手な外交をしていたら、どんなに軍備を増強しても侵略されるときは侵略されてしまう。台湾だろうとこの国だろうと、相手国を挑発するようなことをしていたら、侵略される危険はさらに強くなる。

岸田政権は、アメリカと一緒になって中国や北朝鮮やロシアと対立しようというのか。

 

侵略されたら、死に物狂いで戦うしかない。死に物狂いで戦えばなんとかなるということを、アフガンやベトナムウクライナが教えてくれている。

台湾だって、もしも中国から侵略されたら、死に物狂いで戦うのだろう。

それに、海に隔てられた相手国を侵略することは不可能であるという地政学的な普遍性がある。

まあ弱い国が侵略されないためには、仲良くするしかない。死に物狂いで仲良くできる関係を構築してゆくしかないし、軍備を増強しようとするまいと、対立すれば侵略されるリスクは高くなる。

 

敗戦後のこの国は、戦う能力のない弱い国として生きてゆく決意をし、そういう憲法をつくった。

その憲法を今なお持っているということは、いまだに敗戦直後だということであり、永遠に敗戦直後の国として生きてゆこうと決心したのだ。

「気分はもう敗戦」、永遠の敗戦直後、それがこの国の文化の伝統だ。

敗戦直後であるということは、生まれたばかりの赤ん坊のような生きられない弱い存在になるということであり、生まれ変わって生きるということだ。そうやって他愛なくこの世界の輝きにときめきながら生きてゆくということだ。そのように、好奇心旺盛なおっちょこちょいであることこそこの国のメンタル風土であり、そこにこそこの国の文化的ないとなみのダイナミズムの源泉がある。そうやってダイナミックな戦後復興を果たしてきた。

気分はいつも敗戦直後、それがこの国の文化の伝統としての滅びの美学だ。

国だろうと文化だろうと守るべきものなど何もない、それが滅びの美学だ。

 

失われた20年とか30年などといって、この国の経済も精神状況もどんどん衰退していっている。

そこで宮台真司をはじめとするインテリたちがもっとだめになればいいという加速主義を唱えるのは、自分の既得権益だけは守られているからかもしれない。だとすればそれは、既得権益を守ろうとしているのと同じことになる。

もっとだめになればいいなんて、そんな残酷なことを言うべきではないだろう。すでに死の淵に立たされている人たちがたくさんいる。世の中が立ち直るためにそういう人たちは死んでしまえばいいのか。だったらそれは、優生思想と同じだろう。

 

景気がよかろうと悪かろうと、いつだって敗戦直後の気分で生きてゆくのが人間社会のダイナミズムであり、そうやってバブル全盛のころに美空ひばりの「みだれ髪」や石川さゆりの「天城越え」などのこの上なくセンチメンタルないわゆるド演歌が大流行したのだ。

 

自分だろうと国家だろうと人類の世界だろうと、必ず守らねばならない大切なものだというわけではない。

滅びる運命に遭遇すれば、滅んでゆくしかない。

滅びの美学がこの国の文化の伝統だし、たとえば自己犠牲とともに滅んでゆくことが美しいとか崇高だとかというのではなく、ただもう人の心のはたらきには滅んでゆくことの恍惚がある、というだけのことで、それはもう世界中どこでもそうなのだ。

自己犠牲の説話なんか、世界中どこにでもある。美しいとか崇高とか、そんなことはどうでもいい。人間はそういうことをしてしまう生き物だということ、そこに恍惚=快楽がはたらくから自分を投げ捨ててしまおうとするのだ。どんなにコスパが悪くても、そうしてしまうのだ。

 

人は、生きるために生きているのではない。この命を守るために生きているのではない。この命のコスパを追求して生きているのではない。われわれはすでに生きているのであり、すでに生きてあるという事実とどう和解するかというテーマで生きている。そしてそのために必要なことは、この生を守ることではなく、生きながら心がこの生の外に跳躍してゆく恍惚=快楽であり、そうやって心や命が活性化するのであれば、は死んでもかまわないということでもある。

 

というわけで2023年はもう、「この国はもうすでに滅んでしまっている」という認識で歩み始めた方がいいし、つねにそうやって歩んできたのが縄文以来の日本列島の歴史だ、とここでは考えている。

 

この国に戦う民衆はいるのか?

アメリカはようやく新しい大統領が就任式を終えたようです。

この国では、いまだにトランプ派の一発逆転の秘策があるのだというようなことをいっている人がいるそうだけど、とにかくアメリカにはトランプ政治にうんざりしている市民がトランプ派よりももっとたくさんいるのだということは事実であろうし、トランプ派の中の半数以上も「もう無理だ」とあきらめていることでしょう。

 

なんのかのといっても、民主主義の意識も国家に対する愛着も、日本人よりもアメリカ人の方が高く熱いのでしょう。

 

また、現在の高度資本主義社会の不条理な構造は、とんでもない大金持ちがたくさんいるアメリカの方がもっとあからさまなのだろうし、それを克服しよとする市民の意識も、政治の話をしたがらないこの国の民衆よりもずっと進んでいるのでしょう。

 

トランプ派の一発逆転なんて、そんなことは起きないだろうと僕は考えています。そんなことはさせない民衆の力をアメリカは持っていると思います。

バーニー・サンダースが若者の支持を得て、たくさんの女性議員が国会に送られているということは、民衆の意識が権力社会よりも一歩前を行っているということでしょう。

 

それに比べてこの国の民衆はまだ、権力者を置き去りにしてしまうような動きを持つことができていません。

人と人の関係が、めちゃくちゃになってしまっていますよね。

いがみ合ったり、冷笑したり、かんたんにだまされたり、物欲しげに自己啓発とかスピリチュアルとか金儲けの情報とかに飛びついていったり、このぐちゃぐちゃ感はいったい何なのでしょうね。

 

日本人が日本人であることを見失ってしまっているというのか、「日本人に生まれてよかった」といっているというそのことが、日本人であることを見失っていることだと思えます。

 

日本人らしく、人と人が他愛なくときめき合うことができる社会というのは、どのようにすれば取り戻せるのでしょうか。

イザベラ・バード日本紀行なんか読んでいると、明治初期の日本列島の民衆がいかに他愛なくときめき合うことができる人たちだったかということがよくわかります。

 

自意識の薄い他愛ない民族だから、他愛なくときめき合うことができるし、他愛なくぐちゃぐちゃになってしまいもする、ということでしょうか。

こんなにもくだらない政治に、こんなにも他愛なくしてやられるなんて、日本人はいったいどうしてしまったのでしょう。

 

たぶんわれわれは、この他愛なさで権力社会なんか置き去りにしてしまわないといけないのだろう、と僕は思っています。

国の政治なんかあてにならない、民衆社会自身が活性化しないことにはどうにもならない、伝統的にそういう社会の構造があるように思えます。

 

この国の政治家なんか権力闘争にしか関心がないのだし、それはもう古代の大和朝廷の発生以来の伝統でしょう。

ここにきて志の低いバカな政治家ばかりがのさばり出して、ますますその傾向があからさまになってきているようです。

野党の政治家たちだって同じかもしれません。

 

まずは民衆社会の可能性について考えたい。そしてそれは「人間とは何か」あるいは「日本人とは何か」と問うことだ、と思っています。

それが、僕にとっての階級闘争です。

 

民衆社会が活性化して権力社会を置き去りにしてしまわないかぎり、この国に未来はないのでしょう。

みんなが他愛なくときめき合い助け合う社会は、どのようにして実現されるのでしょうか。この国には、どこよりもそれができる可能性と、どこよりもそれができない限界の両方があるよう思えます。

 

お気楽なこの国の民衆も、もう戦わないといけない段階に差し掛かっているのでしょう。

人間であるかぎり、戦いたいという願いはだれの中にもあるはずです。

 

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今、日本文化論について話すユーチューブをやっています。

みすぼらしいジジイがぼそぼそしゃべっているだけの代物ですが、いちおう本名の「山本博通」で登録しています。

そうやって、恥をさらしています。晒すのは嫌だと思った瞬間にやめてしまいそうだからで、そういう自分との戦いということでしょうか。

僕は僕なりに、どうしても言わずにいられないことやせずにいられないことがあるわけで、言ってることの内容に関しては、多少の自信はあります。

でも、自分のいうことが絶対正しいと思っているわけではありません。そんなことは第三者が決めることだと自覚しています。

ただもう、僕は僕なりの守備範囲で階級闘争を仕掛けていきたいだけです。

だから、思い切り恥ずかしいけど、恥ずかしがっていられないのです。

話したいことは、山ほどあります。

もしもチャンネル登録してくれる人がいるなら、その人に向かって話します。

まあ、人気になることなど限りなく絶望的でニッチなジャンルのチャンネルです。

知ることと、考えることと、気づくこと

 

コロナが怖くて、じっと家に閉じこもっています。

自分のようなみすぼらしい年寄りは、もし罹ったらきっと死ぬだろうな、と思っています。

でも世の中は、年寄りほど無防備でマスクを着けていなかったりします。

しかしそれは、べつに度胸があるとか、達観しているとか、そういうことではなく、ただ鈍感なだけだという場合がほとんどです。

歳をとると、何もかも面倒になってきます。僕なんか、若いころからすでにそうでした。何かに夢中になることはあっても、この社会で生きてゆくための手続きというのが、何もかも面倒でした。

 

いや現在でも、そんな怠惰な若者はたくさんいることでしょう。

人間は本質において、怠け者です。

日本人だってそうです。まじめに働くといっても、国の政治との関係を取り結んだり抵抗したりすることにおいては、きわめて怠惰です。

だからわれわれは、権力者にやすやすと支配されてしまう歴史を歩んできました。

 

最近考えていることは、この閉塞した社会状況というか時代状況から抜け出すためには、われわれ民衆は「階級闘争」を仕掛けていかないといけないということです。

 

僕はただの政治オンチだから、政治のことを考えているのではありません。

「たたかう」ということです。

戦いのない人生なんてクリープのないコーヒーみたいなものだ、とこの年になってしみじみと思わされています。

生きることそれ自体がひとつの戦いなのだ、と。

それは、生きてあることそれ自体がひとつの不条理なのだ、ということと同義です。

 

僕はこの十数年、古人類学や日本文化論のことばかりずっと考えてきました。そしてこのことにおいて、学者たちの説明に対して「そんなことあるものか」と思うことの連続でした。

だから、彼らと戦いたいわけです。これだって、階級闘争でしょう。

 

知的な欲求というか知的ないとなみというのは、本質において「疑う」ということであり、それをやめたら、欲求そのものも消えてなくなるのでしょう。

 

もともと学問とは無縁の社会的立場で生きてきた人間ですが、彼らの説明にまるごとうなづくことなんかできないし、彼らがかなわないと思えるほど深く確かな思考をしているとも思えません。

 

そして、彼らのような安直な思考がはびこっている世の中だから、安直なスピリチュアルや陰謀論もはびこるのだろうと思います。

彼らは、既存の知識を組み合わせてお約束の答えを導き出しているだけで、「気づく」とか「発見する」ということがないのですよね。

 

「気づく=発見する」とは、思考が未知の異次元の世界に超出することです。今流行りの言葉でいえば、「メタ認知」ということでしょうか。

 

お約束の天国や極楽浄土や生まれ変わりや霊魂という問題設定で何もかも説明がつくのなら、「気づく=発見する」という体験なんか生まれてくるはずもないでしょう。そういうお約束の思考では、異次元の世界に超出しているとはいえません。

異次元の世界は、天国や極楽浄土や生まれ変わりや霊魂の、さらにその向こう側にあるのです。

 

そしてそういう「異次元の世界」は、われわれ無知な民衆の方がずっとよく知っているのであり、われわれにはそれを説明する言葉がないだけです。ことにそういう世界は、生まれたばかりの子供やそのへんのバカギャルがいちばんよく知っているのです。

 

だから僕は、階級闘争が必要だ、と考えるわけです。

たとえば生まれたばかりの子供が言葉を覚えるのは、ひとつの「メタ認知」です。そのとき彼の思考は「異次元の世界」に超出して言葉をキャッチしたのです。

 

お約束の思考しかできないそのへんの学者先生やスピリチュアリストのいうことなど、何をありがたがる必要があるでしょうか。

 

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というわけで今、深く静かにユーチューブを発信し続けています。

チャンネル名は、今のところ本名の「山本博通」で設定しています。

まだまだ恥ずかしいだけのレベルの体裁でしかないのですが、少しずつ慣れてきているような気もします。

早く、人並みになりたいものです。

とにかく、ひとりでも見てくれる人がいるかぎり発信し続けてゆくつもりだし、そのための原稿はもう十年分くらいは用意してあります。

十年たったら、死ぬかボケるかしていることでしょう(笑)。

 

コロナ会食と論語

コロナ自粛が叫ばれる今、菅首相が銀座の高級ステーキ店で一人5万円のステーキ料理を有名人7・8人と会食した、ということが話題になっているというか、批判されたりしているようです。

 

そりゃあまあ、バカなやつらだ、という感想は僕だって抱きますよ。

でも、この批判の裏には、有名人であることや5万円の高級ステーキが食べられることとかに対するうらやましさとかコンプレックスのようなものが張り付いているとしたら、それにも問題がないとはいえないでしょう。

 

そういううらやましさやコンプレックスにも、この文明社会の制度=システムの病理の一端があるのではないかと思えます。

そのうらやましさやコンプレックスを水源にして、経済格差とか学歴差別とか人種差別というようなことが生まれてくるのでしょう

 

この世にラーメン以上にうまいものはない、としんそこ思っている人は、ステーキを食うことなんかうらやましいとも感じないでしょう。

また、いい年こいてステーキ食って喜んでいるなんて頭がどうかしている、と思う人もいるでしょう。

昭和天皇のいちばんの好物はジャムサンドだった、という話があります。彼からしたら、高級ステーキを食ってエリートぶっているなんて、どいつもこいつも薄っぺらい成り上がりの田舎っぺだなあ、と思うかもしれません。

 

この世の中で人々がもっとも尊敬しあこがれているのは神であり、その次に救世主(メシア)でしょう。

救世主は乞食の姿で人々の前に現れる、というのが世界の歴史の定番です。救世主はジャムサンドやラーメンやお茶漬けが大好物なのであって、5万円のステーキなんか食いたいとおも思わないのです。

 

金持ちや権力者にコンプレックスやうらやましさやあこがれがあるから、金持ちや権力者の人格を非難する。東大生や学者にコンプレックスやうらやましさやあこがれがあるから、東大生や学者の人格を非難する。それ自体がよくないのであり、それ自体がこの社会のシステムの歪みの温床になっている、ということもあるのでしょう。

 

まあ金持ちや権力者のことはよくわからないけど、僕だって東大や学者に対するコンプレックスやうらやましさやあこがれなんかないですよ。彼らの豊富な知識に対する尊敬はあっても、かといってべつに彼らの方が賢いとは思っていません。

もしもこの世にいちばん偉い人がいるとすれば、それは生きられないこの世のもっとも弱い人たちだと僕は思っています。われわれの命は、その人たちに捧げるべきだと思っています。

もちろん僕なんか生まれついての怠け者のダメ人間だからそれを生き方として実行することができているわけではさらさらないですけどね。できていたら救世主になっています。

 

つまり救世主は、生きられないこの世のもっとも弱い者を生きさせる存在として現れる、ということです。それが、世界の歴史の普遍的な法則です。

たとえば、キリストは目が見えない人を見えるようにしたとか、そういう奇跡が語り継がれたりするのでしょう。

 

救世主は、嬉しそうに高級ステーキを食うということなんかしない。

とにかくこの社会のシステムの病理のひとつとして、人々が金持ちや権力者や学者にコンプレックスやうらやましさやあこがれを抱いてしまうということがあるのでしょう。

 

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で、僕は人類学や日本文化論に大いに興味があるのですが、少なくともこの分野における学者たちに対するコンプレックスやあこがれはないつもりです。彼らに対しては、「お前たちは俺が考えるための材料=データを提供してくれればそれでいい」と思っているだけで、データの先の考えることまで彼らにまかせるつもりはありません。

 

とはいえ、今その例を人類学や日本文化論のことで挙げると話が際限なく長くなってしまうので、ちょっと逸れた分野のことで話してみます。

 

論語のことです。

論語の研究者なんかみんなあほばっかりだなあ、と思ったりします。

安富歩という東大教授は僕が大好きな学者のひとりですが、それでも彼の研究のひとつである論語解釈の講義をユーチューブで見つけて、あぜんとしてしまいました。

 

僕は論語の知識なんか高校の漢文で習っただけのレベルですが、それでも、なんでそんなうっすっぺらな解釈しかできないのかと、ほんとに唖然としてしまいました。

いろいろ唖然としてしまったのだけれど、ひとつだけ挙げてみます。

 

論語・学而1の1の1

学而時習之 不亦説乎(学びてときにこれを習う、またよろこばしからずや)

 

ものすごく有名なフレーズですよね。

この「習」という字を一般的には「復習する」と解釈されていて、安富氏はそれを見て「何をばかなこと言ってやがる、復習することが楽しいはずないじゃないか」と思ったそうです。

 

で、安富氏は、この「習」は「身につく」と訳すのだ、と解説してくれていました。

笑っちゃいます。「あんただって同じくらいバカなんじゃないの」といいたくなります。

 

まず安富氏によれば、「学」とは「知識や技術を取り入れる」ということですが、それだったら「習=身につく」と同じになってしまうじゃないですか。募集して募る、といっているのと同じです。

 

古代人のいう「がく」とか「まなぶ」は、「問う」とか「教えを乞う」とか「探求する」というような意味で、「取り入れる」前の段階のことです。

中国語の「がく」であれやまとことばの「まな」であれ、それらは「不思議なもの」とか「わからないもの」とか「興味深いもの」というような意味だったのです。

 

「學」という漢字の源は、おそらく何かにひざまずいて捧げものを差し出していることをあらわす象形文字だったのであり、そこから「問う」とか「教えを乞う」とか「探求する」という意味になっていったわけです。

 

だからそのあとの「習」は、「反復する」とか「癖になる」とか「習慣になる」というような意味になるはずです。

すなわち「探求する態度が習慣になること」それが孔子のいう「学習」だったのではないでしょうか。

 

安富氏のいうような「教えてもらったことが身につく」とか、そういうことではないはずです。

アジア的な思考においては「身につく」などということはないのです。この国の職人や芸能者は、「一生が修行です」というわけじゃないですか。死ぬまで問い続けること、まあそれを論語では「道」といいます。

 

ひとつのことがわかれば、そこからさらに三つのわからないことが生まれてくる。学問や修行とは答えを見つけることではなく、「問い」を見つけ続けるいとなみなのだ、ということ、おそらく孔子はそこまで考えていたはずだし、そんなことくらいは無学なこの国の大工職人だってわかっていることです。

そして、知ったかぶりのインテリだけが何もわかっていない。彼らの論語解釈なんか、ぜんぶだめです。

 

また安富氏は、最後の「説」のよろこびとは、身につけた知識によって「説得する」とか「説明する」ことのよろこびを指すのだといっています。

これも「なんだかなあ」という感じで、最初の「學」の解釈から最後の「説」まで、徹頭徹尾学校のお勉強の優等生が考えそうな薄っぺらな解釈で貫かれているじゃないですか。

 

笑わせてくれます。

やまとことばの「せつ」は「切々と語る」とか「せつない」の「せつ」で、「説」のよろこびとは、「しみじみとしたよろこび」のことで、「ああそうかと深く納得すること」です。つまり、説明・説得することのよろこびではなく、説明・説得されるよろこびのことだ、ということです。

なんというか、あくなき探求の果てに何かを発見したり何かの境地にたどり着けば、天から何かを与えられたような深くしみじみとしたよろこびがある、ということです。

 

安富さん、孔子はそのようなことを語っているのであって、あなたたちインテリのスノッブでうすっぺらな思考で片付く話じゃないのですよ、と僕は言いたいわけです。

僕のような無学な庶民でもこれくらいのことは考えられるのに、東大教授の思考の世界なんかその程度のものなのですか、と。

 

僕は安富さんが好きで、あの人が東大教授だからといっても、別にコンプレックスなんかないですよ。

安富さんは普段から「学歴差別なんかろくなもんじゃない」と何度も口を酸っぱくして言っておられる人だけど、僕のこの批判に対しても、東大教授の誇りにかけて「お前のいうことなんか取るに足りないトンデモ説だ」と一蹴していただけるのでしょうか。機会があったら、聞いてみたいものです。おそらくそんな機会は永久にないだろうけど。

 

お金を稼ぐ能力とか権力を得る能力は人によって大きな差があることでしょう。まあ僕なんか最底辺です。

でも、ものを考える能力は、みな同じです。人間であるなら、誰にだってそなわった能力です。その使い方や使い道が違うだけです。

小林秀雄だろうと吉本隆明だろうと安富歩だろうと、ものを考える能力において僕が負けているなんて、全然思いません。そのへんの凡庸なインテリなら、なおさらです。

 

なのにあの連中ときたら、自分が考えることのエキスパートのつもりでいる。彼らは、そういう自意識というかナルシズムを持っているようです。

彼らのその自意識というかうぬぼれだって、この世の学歴差別を成り立たせている要因のひとつでしょう。

だから僕は、彼らに負けるわけにいかない。

 

僕はあの人たちよりも、女や子供や生きられないこの世のもっとも弱い人たちから、もっとたくさんのことを学んでいます。

 

安富歩がなんぼのものか。自慢たらしく薄っぺらな論語の解説をしやがって……今はそういわせてください。僕のこの反論が木っ端みじんに粉砕されるまで、むやみな学歴差別がなくなるその日まで、どうかそう思わせてください。

 

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ユーチューブは、クリスマス前には何とか再開できそうです。

今度こそ毎日1・2本発信し続けられそうです。

ほんとにみすぼらしい動画で恥ずかしくてたまらないのだけれど、ここを通過しなければ人並みのところにたどり着けないのだから、勇気を振り絞ってがんばるつもりです。

 

安富歩氏も小林秀雄も大いに尊敬しているし大好きだけど、彼らと戦いたいです。

有名な知識人や大学教授のいうことはありがたく拝聴するものだ、おまえの人格を疑う、とかつての友人から忠告されたことがあります。まあ彼は、あの人たちの受け売りをして知ったかぶりをするのが上手でした。

 

もしもこのブログに安富氏のファンの人がおられたら、どうか反論してきてください。あんなあほな論語講釈をされてありがたがっていられるほど、僕はお人好しではありません。安富氏の解釈のおかしなところは、ほかにもいくらでもあります。

無防備な民衆社会に付け込む権力社会

総理大臣が変わっても、この国の政府のコロナ対策は、いぜんとして迷走を続けているみたいです。

まあ民衆の態度だって、僕自身も含めて「なんだかなあ」という感じで、いまいちはっきりしない。日本人のダメなところが一挙に噴き出している、ということでしょうか。

 

自粛のための補償など何もせずに自粛を「要請」してくる。従わない者には「同調圧力」を演出・醸成して脅しにかかる。うんざりするほど醜悪な景色だが、「空気」というあいまいなものだけで世の中が動いてしまう文化風土があり、政府も民衆も無意識のうちにそういう思考態度になってしまう。だれがどうだという以前に、権力社会も民衆社会も、みんな「空気」に動かされている。あんな愚劣な男に7年も8年も総理大臣にさせてきたこの国の「空気」があるのでしょう。

 

この国の権力社会の伝統は、外国のように民衆を助けて民衆に恩を売るのではなく、民衆の無防備であいまいな心というかそうした生態に付け込んで文句を言わなくさせてしまうことにあります。

もともと、大和朝廷の発生のときから、民衆に頼りにされて生まれてきたのではなく、民衆と天皇のあいだに寄生して生まれてきた社会なのです。

だから、民衆の心の隙に付け込んでゆくのは彼らの本能なのだ、といえるのでしょう。

政治家も官僚も、本能的にそのことを知っています。

 

今回のコロナ対策だって、思考停止したまったくの愚策の連続なのだけれど、民衆のあいだからは一揆のような大きな抵抗のうねりは起きてきていません。

われわれはもう、あの醜悪な政治家や官僚たちから、みごとに足元を見透かされてしまっています。

彼らは何も考えていないし、考える頭もない。それでも本能のままに民衆を操ってしまっている。まさに、伝統の力です。リチャード・ドーキンスの言葉を借りれば、権力社会にはそういう「ミーム」が覆っている、ということでしょうか。この国の権力社会に受け継がれてきた共同幻想というのか呪力というのか。

 

そしてわれわれが権力社会の支配にあまりにも無防備だというのも、この国の民衆社会の伝統なのでしょう。

われわれ民衆は、どうすればこの「呪い」から解き放たれることができるのでしょうか?

僕のこの安普請の脳みそでは答えを見つけることができません。

 

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ようやくYouTubeをはじめることができたと思った矢先に、操作ミスやらスマホのトラブルやらで、あっさりと全部消えてしまいました。

また一から出直しです。

今、かなり落ち込んでいます。

何とか年内に再開できないものかと焦っています。

フェイクニュースの水源

現在のこの社会にはなぜフェイクニュースがはびこるか、という問題は、どのようにして克服してゆけばいいのでしょうか。

人間は「嘘」が好きな生きものです。

彼らは、きちんとファクトチェックされても、全然へこたれない。

 

なんだか、神は存在するかどうかという議論と似てなくもないですよね。

神の存在なんて、この世のもっとも大きく、しかもいつまでも続いているフェイクニュースのひとつなのではないでしょうか。

神は99・9パーセントの確率で存在しない、といわれても、彼らはその0・1パーセントにすがりついてびくともしない。

この世界の宗教者たちは、そういう歴史を2000年以上続けてきたわけで、フェイクニュースにはそういう人類の歴史の無意識がはたらいているのでしょうか。

そうして今や、この世界のほとんどの人が、神を信じていなくても心のどこかしらに否定しきれない気持ちが疼いている。

フェイクデマなんか嘘だと分かっていても、それに飛びついてしまう人がたくさんいる。

 

だから、この国の右翼の人たちだって、いつまでも歴史修正主義フェイクニュースをいい続けていれば世の中もだんだんそれを否定できなくなってくる、と目論んでいるのかもしれません。

 

神なんか存在しない、といったって駄目なのです。

リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』という本を書いたが、それですむ話じゃないのです。

そんなことをいっても、「人間は嘘や妄想が好きである」という問題は依然として残るわけじゃないですか。

 

だれだって、真実だけをよすがに生きているわけではない。

たとえば、もしも自分が美人だったらとかお金持ちだったらとか、だれだってそう思う瞬間はあるでしょう。

あの青い空の向こうにはどんな世界があるのだろうとか、泣いている人を見たらきっとかなしいんだろうなとか、死んだらどこに行くのだろうとか、人の心が非現実の世界にさまよい出てしまうことは避けられないでしょう。

想像力も妄想のひとつだし、妄想は想像力のひとつです。

 

神がいようといまいと人は神を思う気持ちを持ってしまったし、だったら「神とは何か」ということを考えたほうがもっと知的だし建設的だともいえます。

だからスピノザは、神とは究極の無限である、というようなことをいった。

 

「究極の無限」とは、「何もない」ということでもあります。

日本列島の神道は、「神が神であることの証しは存在しないことにある」という認識になっています。もしかしたらこれは、スピノザと同じ思考回路かもしれません。

 

存在しないことこそが神なのだ、ということ、これに対してドーキンスはどう応えるのでしょう。

「ある」か「ない」かの二項対立で答えを決定してしまうのではなく、心がどちらでもないさらに向こうの世界にさまよい出ていってしまうこと、それだって人間的な脳のはたらきでしょう。

 

死後の世界は天国でも地獄でもなく、だれもが何もない真っ暗闇の「黄泉の世界」に行くのだ、というのが神道の死生観です。それは、死後の世界はこうだと説明しつつ、死後の世界などないといっていることでもあります。

 

日本列島の神道は、無神論でも有神論でもないのです。

日本人がはじめて神という概念を知ったのは、仏教伝来によってです。それまでの日本列島に神という概念などなかったのです。

 

この国では、トイレットペーパーだって「かみ」といいます。

古事記という神の物語は、縄文以来の土着の神を語っているのではなく、人々がみんなで「神とは何か」と問うていった結果として生まれてきた話なのです。

つまりこの国の歴史において、仏教伝来以前の土着の原始的な宗教なんかなかったのです。

 

そのときみんな、神とは何かということを知らなかったのです。

だから、あんなにも多種多様で奇想天外な神々が生まれてきたわけで、その思考の根本には「神が神であることの証しは存在しないことにある」という思考が流れています。それは、嘘っぽくあればあるほど本当っぽいのです。

 

日本文化の伝統は嘘をもてあそぶことにある、と言い換えてもいいです。

そうやってオルタナティブな答えを探究してゆくというか、そうやって心が異次元の世界にさまよい出てゆくことの恍惚がある。それがこの国の伝統的な民衆の心である、と僕は考えています。

 

良くも悪くもそうなのですよね。

だから、かんたんにフェイクニュースにしてやられてしまうし、フェイクニュースを振り回して意地汚いことをしようとする者たちも生まれてくる。

そうして総理大臣や官僚たちは、際限なく嘘をつき続ける。彼らは、この国のオルタナティブな精神風土というか、民衆が正義や神などを本気で信じていないことに付け込んで好き勝手に支配しにかかってくる。

そうやってあの無謀な戦争に突入し、あの無残な敗戦に至ったのでしょう。

 

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ようやく一回目のユーチューブを配信することができたみたいです。

できる限り毎日配信してゆこうと思っています。

でも、やっつけ仕事であわてて発信しただけだから、けっして完全なかたちではなく、サムネイルもつくっていないし、チャンネルの名前とかどういう主旨のどういうジャンルかということなどの説明もまだ設定していません。

 

スマホで簡便に撮っただけだし、たぶんほとんど検索に引っかからないだろうと思います。

何しろ見かけも話し方もみすぼらしくてぶざまなだけの動画だから、半分は見られたくないという気持ちもあります。

いましばらくは、ひっそりと配信してゆこうと思っています。

人並みのまともなかたちになってくるのはいつのことやら、と少々暗澹たる思いですが、「いい年こいてもまだ恥さらしなことをしてやがる」というのは、それなりに傷口をぼりぼり掻いているようなというか、そんな自虐的な心地よさもほんの少しはなくもないです。

こうやって僕は、恥をかき続けて死んでゆくのでしょう

 

恥をかいても、どうしても発信したいことがあります。

僕が負けたら、日本列島の民衆の伝統としてのシンプルで直截的な思考が滅びる、という思いも、じつはなくもないです。

今どきは、人間とは何かとか日本人とは何かということの認識があまりにも歪んでしまっている世の中で、「そんなことあるものか」と反論したくなることがいっぱいあります。ありすぎるくらいあります。

どんなに恥ずかしくても、一人か二人でも話を聞いてくれる人がいるかぎり、発信し続けていこうと思っています。

市民社会とはどんよりとした人々の群れのことか?

 

コロナ第三波の到来、やばそうですね。

寒くなってきたのだからとうぜんで、この先どうなってゆくのでしょうか。

僕のようなみすぼらしいジジイは、もし罹ったらもう死ぬことを覚悟するしかありません。

おまえみたいな役立たずの年寄りの命なんか何の値打ちもないのだから死んだって構やしないんだよ、といわれれば、まあそうかもしれません。

それはたしかにそうでしょう。

でも僕は、自分以外の人の命は、20才だろうと90才だろうと同じだけ尊いものだと思っています。

人間なんか、だれであろうといつ死んだってかまわない存在であるし、同時にこの世のだれ一人死なせるわけにいかない存在でもあるのでしょう。

どうでもいい命だからこそ、誰の命も大切だ、ということになる。若かろうと年寄りだろうと、賢かろうとバカだろうと、世の中の役に立っていようといまいと、どの命が大切だということなどない。どんな命だってどうでもいい代物だからこそ、どんな命も大切だ、ということです。

 

人間はこんなにも自然破壊を進めてきてしまった。人間のせいで、今なお死なないでいいたくさんの人間以外の命がどんどん死んでいっている。人間がこの地球に存在すること自体が害悪だ、ということはあるはずです。

だから、人類滅亡はめでたいことなのです。

そしてだからこそ、滅んでゆく弱くはかない命こそもっと美しい、ということにもなるわけじゃないですか。それは、人類滅亡のめでたさの上に成り立った美意識であり、生命観であり、それが人類共有の無意識であるのではないでしょうか。

 

そういう無意識が世界中のだれの中に息づいているから、今回のコロナウィルスのことで世界中が右往左往しているのではないでしょうか。

政治家も庶民もみんな慌てふためきました。

慌てふためかなかったのは、この国の政府や官僚ばかりです。彼らは、大変だと慌てることも大したことはないと居直ることもなく、すっかり思考停止してしまっています。

それは、彼らの無意識が汚れてしまっているからで、命というものに対する人間的な感情や感受性をすっかり失ってしまっているのでしょう。

 

トランプやボリス・ジョンソンだって、ひとまずあわてふためいたのです。そうしてトランプは、たいしたことない、と居直った。

でもこの国の政府や官僚たちは、どちらを選択することもなく、虎の穴に潜り込んだままです。

たぶんすっかり思考停止してしまって、どちらも選択できないでいるのでしょう。彼らは、人間的な命や心のはたらきを失ってしまっているのでしょう。

そしてそれはまさに、現在のこの国の民衆の姿でもあるのかもしれません。

 

怖がることも勇敢になることもできない、どんよりとした心の人の群れがこの国にうごめいているのかもしれません。

ヒルというのかなんというのか、いったいこの国は、そんな心を抱いていったいどこに向かおうとしているでしょうか。

 

自分が生き延びることができればそれでいい、ということでしょうか。

自分が生き延びることなんか、基本的にはどうでもいいことなのです。

今この瞬間にどこかのだれかが死んでいっているということに対する想像力の問題です。そのうえで、心を痛めて慌てふためくか、知ったこっちゃないとかざまあみやがれと居直るかのどちらかにしろ、といいたくなります。

 

現在の政府や官僚の対応なんか、死体を眺めながら薄笑いを浮かべているような、そういうどんよりとした感情を連想させます。

そして、多くの日本人がどんよりしてしまっているのでしょうか。

あれほど「自粛警察」がどうのと騒いだのに、GO TOキャンペーンにはホイホイ乗せられてしまっている。

乗せる方も乗せられる方も、どうかしています。自分の損得や楽しみよりも、ほかにもっとやることがあるだろう、というのがコロナによって人類が気づかされていることではないでしょうか。

 

そしてそれは、災害列島に住む日本人こそ真っ先に気づくべきことであるはずです。

災害に襲われたら、みんな自分の損得や楽しみのことなんかひとまずそっちのけになるでしょう。

 

そして、どうせ民衆がみんなでおろおろ嘆きながら助け合うだろうからこちらは何もしなくてもよい、というのがこの国権力社会の伝統です。

それはもう、大和朝廷の発生以来の伝統なのです。

 

古代の大和朝廷なんて、道路も橋も港も、ぜんぶ民衆社会にまかせて何もしなかったのです。

彼らは、民衆と天皇の関係に寄生して民衆を支配していたのです。今だって、そうでしょう。それが国家神道だったのです。

もともと民衆自治のよりどころとして機能していた古神道が、時代とともにだんだん権力者による民衆支配の道具に変質していったのであり、それが明治の大日本帝国が掲げた国家神道だったのです。

 

まあ現在はオリンピックをどうしても開催するんだというプロパガンダ国家神道の代わりになっているのでしょうか。おそらく構造的には同じのはずです。それによって無理やり国民の目をそらせ、国民の意識を均質化させようとしている。

 

まあせっかく手に入れた利権を手放したくないということもあるのだろうが、とにかくいまさらオリンピックをしたからといって国の景気が良くなるわけでもないのは百も承知で、一番の目的は戦争と同じように国民の気持ちを盛り上がらせて支配を強化するということでしょう。

核武装し軍備を強化してゆくための第一段階ということでしょうか。

 

そうしないと国は守れないというのが彼らの信念なのだろうが、滅びることを覚悟して生きはじめるというのがこの国の伝統なのではないでしょうか。

彼らがなぜ国を守る必要があると強く思うのかといえば、それが権力者の居場所を確保することだからでしょう。

 

彼らには、国民の命を守ろうとする意思なんかありません。国民の命を消費しながら国を守ろうとしているのでしょう。そして、因果なことにそういう気持ちは政治家以上に官僚の方が強く持っているのではないでしょうか。

それはもう、昭和の初めから太平洋戦争に突入していった時代だってそうだったはずだし、それこそが大和朝廷の発生以来のこの国の権力社会の伝統であるのかもしれません。

 

もちろんすべての官僚が、といいたいのではありません。ただ、この国の官僚組織は、大和朝廷の発生以来、そうした人種を生み出しやすい構造になっているのではないでしょうか。その気になればもっとも無責任になることができるような構造になっている、というか。

 

ハンナ・アーレントが「凡庸な悪」といったように、表に立っている政治家よりも陰に回っている一部の官僚の意識の方がもっと陰険でたちが悪いのだろうと僕は考えています。

政治家なんて、どんなに悪くてもたいていは知能指数の低い単細胞だし、頭のいい政治家はそこまでの悪にはなれないでしょう。なんといっても、大衆に見られているというプレッシャーがありますからね。

頭が悪いから大衆を甘く見ることができるのだし、しかしそれ以上に「見られている」という意識を持たないですむ官僚こそが、なんといっても、いちばんの悪でしょう。

そして最近の安倍・菅政権においては、そのような官僚ばかりが重用される傾向になっている、と聞きます。

 

とにかく日本列島の伝統には、ほかの国以上に権力社会が腐ってしまう構造があるようです。

これから本格的な冬がやってきて、この国のコロナ対策は、経済においても防疫においてもどのように推移してゆくのでしょうか。ほとんどの民衆が不安に思っているのかもしれません。

そしてこの不安が、世の中をますます停滞させてしまうのでしょう。

 

日本人にとっての永遠の理想とは何でしょうか。

たぶん、人と人が他愛なくときめき合うという原始的な関係性をどこまでも洗練発展させてゆくということにあるのではないか、とこのごろなんとなく考えています。

もっとも単純なことが、もっとも複雑で困難なのですよね。ほんとうにピュアな人がめったにいないように。

 

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いよいよ明日(12月4日))にユーチューブデビューできそうです。

でも、もろ手を挙げて人に見てもらいたいという気持ちにはなれません。

何しろ、みすぼらしいジジイがもたもたしゃべっているだけの動画ですからね。

見返すと、ものすごく恥ずかしく、ものすごく自己嫌悪です。最低です。

まわりの者たちが「やめておいた方がいい」とか「どうかやめてくれ」といってくる気持ちが、あらためてよくわかりました。

ほかの人の10分の1もまともに話すことができていません。

ふつう以下なのだから、いやになります。

 

何しろこちらは、世捨て人だから。

中島みゆきの歌に「捨ててやるのはこちらの方だ、と追われながらほざいたやつがいる」というようなフレーズがあったけど、僕はまあ、捨てられ人です。

それじゃあ捨てられるわなあ、というようなぶざまな動画です。

 

でも、つくり続け発信し続けていかないことには進歩もないのだし、とりあえず思い切って恥をさらし続けていこうと思います。

そうして、とにかく人並みに話せるようになることを目指します。