2022年の「気分はもう戦争」から、2023年の「気分はもう敗戦」へ。
二年ぶりの更新です。
ほんとうは続けたいと思っているのに、なんとなくさぼってきました。
そのあいだ、YOUTUBEをやっていました。しょぼい番組だし、まわりの家族や友達みんなから「やめとけ」といわれているから、いちいち恥ずかしさと後ろめたさが付きまといます。
その都度それを振り払ってやろうとするから、あまりうまく進まないし、結構しんどい二年間でした。
まあ、YOUTUBEのための原稿をそれなりに丁寧に書いているから、それを転載するかたちで、これからはもう少しブログもまめに更新しようと思っています。
さしあたり、去年の暮れに書いたものを転載します。
【2022年の「気分はもう戦争」から、2023年の「気分はもう敗戦」へ。】
2022年はウクライナ戦争の勃発とともに始まり、この国では安倍晋三をはじめとする低俗な右翼たちによる核兵器共有論や軍備増強論に引きずられた「気分はもう戦争」という状況になっていった。
そして7月の安倍銃撃事件がそれに拍車をかけた。
ロシアはなぜ戦争に踏み切ったのか。
プーチンは長い間かけてロシアの誇りとかアメリカやEUの脅威とかウクライナはファシストに支配されているなどの言説を振りまいて民衆を洗脳してきた。だからロシアの中高年や地方都市の民衆のほとんどは戦争に賛成している。
反対しているのは、モスクワやサンクトぺテルブルグ等の大都市の若年層だけである。
そしてこの国もまた、長い間の自民党右派勢力の支配によって、多くの男たちがそのプロパガンダに引きずられてしまっている。
まあ世界中どこでも女は、宗教や政治等のプロパガンダにかんたんに洗脳されるか威勢よく反対するかの両極端までいるが、男はおおむね中途半端な日和見が多い。
ロシアであろうとこの国であろうと、男や年寄り連中は権力者のプロパガンダに引きずられやすい。多くの男は、一部の女のように丸ごと洗脳されるということもない代わりに、日和見を決め込んでずるずると権力社会のプロパガンダに引きずられてしまう。
そうやってこの頃は、憲法改正論や防衛費倍増論になんとなく賛成してしまう日和見主義者たちが増えてきているというか、日和見主義が正義であるかのような風潮になってきている。
日和見主義の男たちが、正義ぶって知ったかぶりして偉そうなことを言ってくる。薄っぺらなやつらだ、と思う。
しかしこのところロシアの劣勢が伝えられるようになってきた。それは、何を意味するのか。
プーチンは、さんざん強迫観念的なEU脅威論を国内に振りまき、全体主義的権威主義的国家体制をつくってきた。それは、戦前のこの国の状況と一緒だし、現在の岸田政権下の防衛費倍増論議もそれと同じだろう。
2022年のこの国の権力社会や右翼界隈は、そのような「気分はもう戦争」という流れだった。
ただ、現在のロシアは負け始めている。それはアフガン戦争やベトナム戦争と同じで、侵略した大国が弱小国に負けるという流れであり、侵略されたときは最低限の武力でも撥ね返せる、ということだし、防衛費を二倍にすれば侵略されないで済むというものでもない。
下手な外交をしていたら、どんなに軍備を増強しても侵略されるときは侵略されてしまう。台湾だろうとこの国だろうと、相手国を挑発するようなことをしていたら、侵略される危険はさらに強くなる。
岸田政権は、アメリカと一緒になって中国や北朝鮮やロシアと対立しようというのか。
侵略されたら、死に物狂いで戦うしかない。死に物狂いで戦えばなんとかなるということを、アフガンやベトナムやウクライナが教えてくれている。
台湾だって、もしも中国から侵略されたら、死に物狂いで戦うのだろう。
それに、海に隔てられた相手国を侵略することは不可能であるという地政学的な普遍性がある。
まあ弱い国が侵略されないためには、仲良くするしかない。死に物狂いで仲良くできる関係を構築してゆくしかないし、軍備を増強しようとするまいと、対立すれば侵略されるリスクは高くなる。
敗戦後のこの国は、戦う能力のない弱い国として生きてゆく決意をし、そういう憲法をつくった。
その憲法を今なお持っているということは、いまだに敗戦直後だということであり、永遠に敗戦直後の国として生きてゆこうと決心したのだ。
「気分はもう敗戦」、永遠の敗戦直後、それがこの国の文化の伝統だ。
敗戦直後であるということは、生まれたばかりの赤ん坊のような生きられない弱い存在になるということであり、生まれ変わって生きるということだ。そうやって他愛なくこの世界の輝きにときめきながら生きてゆくということだ。そのように、好奇心旺盛なおっちょこちょいであることこそこの国のメンタル風土であり、そこにこそこの国の文化的ないとなみのダイナミズムの源泉がある。そうやってダイナミックな戦後復興を果たしてきた。
気分はいつも敗戦直後、それがこの国の文化の伝統としての滅びの美学だ。
国だろうと文化だろうと守るべきものなど何もない、それが滅びの美学だ。
失われた20年とか30年などといって、この国の経済も精神状況もどんどん衰退していっている。
そこで宮台真司をはじめとするインテリたちがもっとだめになればいいという加速主義を唱えるのは、自分の既得権益だけは守られているからかもしれない。だとすればそれは、既得権益を守ろうとしているのと同じことになる。
もっとだめになればいいなんて、そんな残酷なことを言うべきではないだろう。すでに死の淵に立たされている人たちがたくさんいる。世の中が立ち直るためにそういう人たちは死んでしまえばいいのか。だったらそれは、優生思想と同じだろう。
景気がよかろうと悪かろうと、いつだって敗戦直後の気分で生きてゆくのが人間社会のダイナミズムであり、そうやってバブル全盛のころに美空ひばりの「みだれ髪」や石川さゆりの「天城越え」などのこの上なくセンチメンタルないわゆるド演歌が大流行したのだ。
自分だろうと国家だろうと人類の世界だろうと、必ず守らねばならない大切なものだというわけではない。
滅びる運命に遭遇すれば、滅んでゆくしかない。
滅びの美学がこの国の文化の伝統だし、たとえば自己犠牲とともに滅んでゆくことが美しいとか崇高だとかというのではなく、ただもう人の心のはたらきには滅んでゆくことの恍惚がある、というだけのことで、それはもう世界中どこでもそうなのだ。
自己犠牲の説話なんか、世界中どこにでもある。美しいとか崇高とか、そんなことはどうでもいい。人間はそういうことをしてしまう生き物だということ、そこに恍惚=快楽がはたらくから自分を投げ捨ててしまおうとするのだ。どんなにコスパが悪くても、そうしてしまうのだ。
人は、生きるために生きているのではない。この命を守るために生きているのではない。この命のコスパを追求して生きているのではない。われわれはすでに生きているのであり、すでに生きてあるという事実とどう和解するかというテーマで生きている。そしてそのために必要なことは、この生を守ることではなく、生きながら心がこの生の外に跳躍してゆく恍惚=快楽であり、そうやって心や命が活性化するのであれば、は死んでもかまわないということでもある。
というわけで2023年はもう、「この国はもうすでに滅んでしまっている」という認識で歩み始めた方がいいし、つねにそうやって歩んできたのが縄文以来の日本列島の歴史だ、とここでは考えている。