ネアンデルタール人というテーマはそろそろもう終わりにしてもいいのだが、何かを見落としているという気がしてならない。
こうなったらもう、死ぬまでネアンデルタール人のことを書き続けていけ、という声がどこかから聞こえてきそうな気もする。
アフリカを出たホモ・サピエンスが世界中で先住民と混血していった、というような話を当たり前のように語られると、やり切れなくなる。それを、死ぬまで「そんなのウソだ」と言い続けようかとも思ったりする。
アフリカを出ていった純粋ホモ、サピエンスなどひとりもいない。
原始人は旅などしなかった。
原始人が旅をしたとか、ホモ・サピエンスが世界中で先住民と交配していったとか、けちな小市民根性で生きているものほど、いかにもわけしり顔でそういうそらぞらしい物語をつくりたがる。2ちゃんねるではけちな小市民根性のガキどもがそんなことを大合唱しているが、それは、プロフェッショナルの研究者だって同じだからだ。僕は2ちゃんねるに投稿したがる人たちが嫌いだというわけではないが、そういう全体の現象はほんとにくだらないと思う。
じつは、そういうガキどもから総攻撃されてこのブログは炎上するかもしれないという覚悟で書いてきたが、今のところそうはなっていない。いずれされるかもしれないが。
人間なんて、あんがいそれほど真実を知りたいと思っているわけじゃなんだよね。目の前の合意されているものをネタにしてワイワイお祭り騒ぎがしたいだけで、それが真実かどうかなんて大して問題じゃないらしい。
真実であるかどうかということより、自分がそう思いたいという方向で思い込むことができればそれがいちばんなんだよね。
おまえら、原始人は旅をした、と思いたいのだろう?アフリカのホモ・サピエンスとヨーロッパのネアンデルタールがヨーロッパでセックスした、と思いたいのだろう?その方がおもしろいものね。
そういうおもしろい話にしてやられてしまうのが小市民根性なんだよね。現実はそうそうおもしろいこともないからおもしろい話に飛びつきたがる、ということだろうか。
彼らにだって、もしかしたら原始人は旅なんかしなかったのかもしれない、という気持ちがないわけではないのかもしれないが、なんといってもそれだとつまらない。
しかしこちらとしては、彼らのお祭りのために歴史がそのように歪曲されてしまっていることは、たまらないと思う。
彼らにとっては、歴史の真実より、自分の人生の方が大事なのだ。おそらくこれは、プロフェッショナルの研究者だって同じだろう。まあ、おおむね現代人とは、そういう人種なのだ。だから自分たちの物差しで原始人の行動を決めつけてしまう。
やつらは確信犯だ、とは言わない。その意図はきっと無意識の奥に封じ込められているのだろう。
というわけで、人類学のことを考えている連中がいちばん人類学のことがわかっていない、という事態になっている。
だから部外者はこういう、「王様は裸だ」と。
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原始人は旅をしていた、などと決めつけられるとやり切れない。旅館も飛行機もバスもなく道すらもない条件で、いったい誰が旅をしようと思うだろう。現代では一部の人間しかしない冒険を、原始人は女子供も当たり前のようにしていたというのか。けちな小市民ほど、そうした迷信をたやすく信じてしまう。
現代の冒険者は、そこに冒険があることを知っているし、そのための用意もしてゆく。しかし原始人は、何も知らなかったし、そのための用意=文明も持たなかった。
原始人は、あの山の向こうには何もない、と思っていた。それから少し知恵がついてくると、あの山の向こうにはわけのわからない怪物が棲んでいる、と思うようになっていった。
人間には、見知らぬ土地に旅しようとする衝動などない。それでも、ここにはいられない、という居心地の悪さも持っている。その兼ね合いで、少しずつ生息域が広がっていっただけのこと。
だから、集落どうしで女や物の交換をした。そうやって今ここを今ここではない場所にしていった。それが、人間の「歴史」だ。人間は今ここにいようとするし、今ここから離れようとする。この二律背反の中に、人間的ないとなみがある。
「今ここ」は過去ではない、というときめきがある。われわれは日々新しい命を生きているし、「今ここ」は「新しい場所」なのだ。
「今ここ」を生きてあること自体が、旅をしていることだともいえる。
原始人は遠い地に旅をしていった、なんて、けちな小市民が考えることだ。
「今ここ」に生きてあること自体が、旅をしていることなのだ。
そういう「今ここ」にときめきのないやつらが、原始人は遠い地に旅をしていった、と考えたがる。
もしアフリカのホモ・サピエンスが世界中に旅をしていったのなら、ヨーロッパのネアンデルタールも、アジアのホモ・エレクトスも、みんな人間の属性として世界中に旅をしていったことだろう。アフリカのホモ・サピエンスとヨーロッパのネアンデルタールが別の人類だったわけでもないし、どちらの知能がすぐれていたということもない。
みんな同じ人間だったのだ。
おまえらのその小市民的ないじましさと意地汚さが、ホモ・サピエンスだけが旅をしていったなどというそらぞらしい物語をでっち上げて浮かれているだけのことだ。
文句があるなら言ってこいよ。
7〜3万年前、アジア人もアフリカ人もヨーロッパ人も、みんな同じ人間だったのだ。
人類が直立二足歩行をはじめて以来、いくつもの種に分かれたことなど一度もない。いつだって、みんな同じただの人間だったのだ。おまえらのそのいじましさと意地汚さがそうやって分類しているだけのこと。
人間は旅なんかしなくても、旅をしている。
7〜3万年前にアフリカを出ていった純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいない。
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人は、今ここの居心地の悪さを、日々新たに生まれ変わってゆくことによって克服してゆく。それが、基本なのだ。つまりそれが、原始人の生活だったということだ。
人類の旅をする習慣は、氷河期明けに生まれてきたにすぎない。
何はともあれ旅をするためには、道をつくらねばならない。その実現のために人類は、隣り合った集落どうしで女や物や情報を交換するという果てしない歴史を積み上げてきた。まず、その歴史があったのだ。その歴史について考えることを、人類学者たちはなにもしていない。
いきなりアフリカ人が道なき道をヨーロッパまで旅をしていってヨーロッパ人と混血しただなんて、考えることが安直なのだ。
原始人は、旅なんかしなかった。しかし、今ここを生きること自体が、日々新たに生まれ変わってゆく旅だった。まず、人間性の基礎としてそのことを考える必要がある。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、今ここにおいて新たに生まれ変わる体験だった。
人間は、旅をする生き物であると同時に、旅をしない生き物である。
世界や他者にときめくということは、生まれ変わるというひとつの旅である。そういう基礎的な体験が積み重なって、人類の旅をするという歴史が生まれてきた。
やまとことばの「たび」は、「生まれ変わる」というニュアンスの言葉である。これが、この言葉の語源の姿なのだ。「たびたび」とか「そのたびに」というときの「たび」は、ひとつの「区切り」を表している。
人間にとっては生きてあることそれ自体が旅であり、そういうことはわれわれよりも原始人の方がずっとよく知っていた。
人間が空間の移動としての「旅」をするようになるまでにどのような歴史を生きたのか、そのことをまず考えなければならない。
原始時代を旅の歴史として考えるべきではない。彼らは、あの山の向こうには何もない、と思っていたのだ。
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