集団的置換説なんか、あり得ないことだ。ネアンデルタール人クロマニヨン人になっただけのこと。両者の連続性は、いくらでも考えることができる。
たしかに、「クロマニヨン人とは3万年前にアフリカからヨーロッパに移住してきたホモ・サピエンスである」という置換説は、まあ風車を怪物だと思ったドン・キホーテの妄想と同じかもしれない。近代とはそういう「妄想=迷信」が生まれてくる空間である、ということだろうか。
ドン・キホーテは、古い時代の人間ではない。近代の先駆者なのだ……とフーコーが言っているらしい。。
世の置換説の研究者は、両者の連続性はない、と言う。はじめに置換説ありきで、さまざまにそのわけを並べ立ててくる。
すると一般の読者は、なんとなくああそうかと納得してしまう。
そして反対の立場の、ネアンデルタールがクロマニヨンになっただけだと考えている少数の多地域進化説の研究者も、いまのところ決定的な反証を提出できないでいる。
とくにこの国では、ネアンデルタールにかかわっている研究者が集団的置換説で合意してしまっているから、一般的な人類学フリークもほとんどがそう思ってしまっている。
たとえば、人類学の2ちゃんねるに「ネアンデルタールがクロマニヨンに変わっただけだ」と投稿すれば、たちまち「何をバカなことを言ってやがる」と、人類学オタクたちに総攻撃されるだろう。
そういうところで口から出まかせの売り言葉に買い言葉を繰り返していても不毛なだけだ。
だから僕は、自分がなぜそう考えるかということを、直立二足歩行の起源からはじめてずっとここで書いてきた。その量を原稿用紙に換算すれば、すでにもう1000枚近くになっているはずだ。
おまえら、書けるものなら書いてみろ。この国で、僕よりも深く遠くまでネアンデルタールのことを考えている研究者がいるというのなら、教えていただきたいものだ。いや、世界中に、といってもいいんだぜ。
この問題は、売り言葉に買い言葉の瞬間芸で決着する問題ではない。この国では集団的置換説一色になってしまっているが、じつは世界中の研究者たちが今なお論争している問題なのだ。
だから僕も、腰を据えてこの問題を考え続けてきた。そうして、できることなら腰を据えた反論がもらえたら、と思っている。そうすれば、たがいに考えることをより深く掘り下げることができる。
ただの思いつきで半端なことを言ってこられても困る。ののしり合いの瞬間芸を楽しみたいのではない。あくまでも歴史の真実に迫りたいのだ。
この問題は、現代の研究者たちの宗教的立場とか世界観とか、それに国民性とか政治情勢なども加わって、いろいろややこしい側面がある。
ネアンデルタールの問題は、われわれ日本人の方が中立の立場で客観的に考えることができるはずだが、研究者もろくに考えようとしないで欧米の置換説の受け売りばかりしている。
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近代のヨーロッパは、世界中に進出侵略して植民地化していった。それと同じことが3万年前のヨーロッパでも起きたといっているのが、集団的置換説である。そのとき自分たちがアフリカをさんざん蹂躙し、多くの黒人を奴隷にしたのと同じことが3万年前のヨーロッパでも起きた、だからおあいこだ、と言いたいらしい。そうして自分たちもつまるところアフリカ人の子孫だということにしてしまえば、すべての罪が帳消しになる。
まあ、いちばんえげつなく大々的に植民地侵略したのがイギリスだろう。そのイギリスから、もっとも熱心に置換説を主張するストリンガーという研究者が登場してきたのも、何やら象徴的である。置換説は、ストリンガーのナショナリズムなのだ。科学的な考察でもなんでもない。ようするに、自分がそのように考えたいからそう考えているだけのこと。
われわれが、なんでこんなアホにたらしこまれないといけないのか。
この国にだって、弥生人のほとんどは朝鮮半島からやってきた人々だった、という説がある。つまりこんな話は、それによって朝鮮侵略の罪を帳消しにしようとするプロパガンダにすぎないわけで、置換説と同質の意図が潜在意識としてはたらいている。この国にもそういう共同幻想があるから、老いも若きもこぞって置換説にしてやられるのかもしれない。
集団的置換説は、近代における先進国の植民地主義の歴史と分かちがたく結びついている。
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しかし、ろくな文明を持たない原始人が女子供を連れた大集団で世界中に旅していけるはずがない。そんなことは物理的に不可能だし、3万年前のアフリカ人にそんな大集団を組織できる能力もなかった。
アフリカ人は、伝統的に大集団を組織することが苦手な民族なのだ。今だって苦手なのだから、3万年前はもっと苦手だったに決まっている。
赤道直下のサバンナでは、家族的小集団で行動し、その小集団どうしのネットワークで女や情報や物を交換してゆく。アフリカの赤道直下には、今でもそういう暮らしをしている部族がたくさんいる。そうして彼らは、けっして生まれ育った故郷を離れようとしない。これが、アフリカのホモ・サピエンスの基本的な行動パターンなのだ。
人間は、そうかんたんに生まれ育った故郷を離れようとしない。このことは、今回の大震災でわかったはずだ。
人類は、二十万年前(あるいは五十万年前)にはすでに、ユーラシア大陸のほとんど全域に住み着いていた。アジアにはアジア人がいて、アフリカにはアフリカ人がいて、ヨーロッパにはヨーロッパ人がいた。このことは、現在までずっと変わることなく続いているのだ。そういう長い長い歴史の上に、現在のそれぞれの地域の人間の身体形質やメンタリティが成り立っている。
5〜3万年前のアフリカ人が世界を覆い尽くしたのなら、今でも世界中の人間がアフリカ人の身体形質とメンタリティで生きているはずだ。
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集団的置換説の研究者の言う、150人のネアンデルタールの集落に300人のアフリカ人の大集団が乗り込んでいったとか、ネアンデルタールの総人口の10倍のアフリカ人がヨーロッパに移住していったとか、こんなマンガみたいな妄想をどうして信じられるのか、まったくわからない。
アフリカを出発した100人の集団が、氷河期の寒空の下を旅しながら人口を数百万人に増やして世界中の地域の先住民と入れ替わっていった……というような途方もない話がどうして信じられてしまうのか。
つまり彼らは、勝手にそのように人間を動かしてしまっているのだ。そういうゲーム感覚で歴史を考えている。
これは、支配欲だろうか。だいたい自分自身をそのように動かして、作為的に生きている。自意識を過剰に抱え込んだ現代人は、そういう習性を持っている。だから、いつの間にかそういうマンガみたいな妄想がたいして疑うことなく信じられてゆく。
集団的置換説なんて、現代人が自分たちの物差しで勝手に原始人を動かすことによってはじめて成り立つ話なのだ。近代的自我、そのようなものがこの荒唐無稽な説を成り立たせている。現代人とは、ドン・キホーテの子孫なのか。
ひとまず頭の中を空白にして、原始人はどのように生きたのかと考えるなら、そんな話にはなり得ないのだが。
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もしも彼らが旅をしようとしたのなら、その動機は何か。
今ここが暮らしにくかったからか。
人間は、暮らしにくいから住むのをやめるというようなことはしない。暮らしやすいように工夫してゆく。人間が、暮らしにくいから住むのをやめて旅をしてゆくような生き物なら、文明など発達しない。
あえて暮らしにくいところに住もうとして、北の果てまで拡散していったのだ。
暮らしにくいから旅していった、などということは理由にならない。
暮らしにくさこそ、人類の文明や文化を進化させてきた契機なのだ。
原始人は、遠くまで狩の獲物を追いかけていっても、必ず女子供のいる居留地に戻ってきた。だって、女子供に食わせるために獲物を追いかけていったのだもの。
縄文人は、シカやクマなどは、肉に脂が乗っている秋しか獲らなかった。しかしそれは、彼らが美食家だったからではない。男たちは旅をしながら暮らしていた。彼らは、秋になると女子供のいる集落に狩の獲物を持ってゆき、一緒に冬籠りした。美味いからではなく、女子供に食わせるためにシカやクマの狩をしたのだ。それは、冬籠りのためだったのであって、美食家だったからではない。冬が近づいてくれば脂肪分の多い食い物を食べたくなる。これは、生き物としての自然である。現代人の物差しで、「縄文人も美食家だった」だなんて、笑わせてくれる。
自意識の薄い原始人は、自分が食うためだけだったら、食うものなんか何でもよかった。
何はともあれアフリカのホモ・サピエンスに、生まれ育った故郷を捨てて知らない土地に旅をしていこうという動機などなかった。3万年前にそんなことをしたアフリカの純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいなかった。
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原始人は、「生き残るため」などという「未来」に向かう意識で行動していたのではない。彼らはけんめいに「今ここ」を生きていたのだ。
原始人と現代人は違う。
現代人の未来に向かう意識を基準にして原始人の行動を説明することほど、愚かなこともない。
「今ここ」のせずにいられないことこそ、彼らの行動を成り立たせていたのだ。
空腹で飯を食わずにいられないという契機があれば、食うものなんか何でもいいだろう。何を食っても美味いだろう。
べつに現代人だろうと、普遍的に人間の行動の基礎になっているのは「せずにいられないこと」なのだ。
『人類がたどってきた道』の著者である海部陽介氏は、「未来を見通す計画能力」をホモ・サピエンス特有の知能として盛んに強調しておられるが、そんな頭のはたらきが原始人の行動の基礎になっていたのではないし、そんな頭のはたらきが人類の文化や文明の起源になったのでもない。
この程度の人間理解しかできないから、集団的置換説などという愚にもつかないおとぎ話に安直に飛びついてしまうのだ。
しかしまあ、現代人は、未来を見通す「スケジュール」で生きている。未来に向かって自分で自分を操作してゆく。それが現代人の行動様式で、置換説は、その物差しで原始人の行動を語っている。
しかし現代人だって、そうせずにいられない時代の状況を生きているだけだ。
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「そこに机がある」、「そこに人がいる」、「そこに花が咲いている」……そうやってこの世界を認識することは、「今ここ」に憑依する心の動きだろう。これが、意識のはたらきの基本的なかたちだ。そして、そういう「今ここ」に対する心の動きがわれわれを行為へと導く。
意識の「今ここ」は、世界を認識している。自分には向いていない。感動は、世界に向いている意識において起きている。自分には向いていない。
もしも人が、「感動(ときめき)」を基調にして生きているのなら、その意識は「未来」にも「自分」にも向いていない。ひたすら「今ここ」の世界や他者に向いている。
おそらく原始人は、そのように生きていた。
原始人を生かしていたのは、「未来を見通す計画力」でも「生き残ろうとする衝動」でもなく、「今ここ」の世界や他者に対する「感動(ときめき)」なのだ。いや現代人だって、人間を生かしているのはつまるところそういう心の動きに違いない。
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原始人は、どんな住みにくい土地でも住み着こうとせずにいられなかった。
早い話が、人間どうしは、困難な場面に出会えば、協力してこれに当たろうとするだろう。つまり人間は、住みにくい土地に置かれれば協力しようとするのであって、逃げ出してよその土地に行こうとするのではない、ということだ。そこでこそ、他者に対する豊かなときめきが生まれてくる。
「住みにくい」ということは、原始人が移住してゆくことの契機にはならないのだ。それは、ネアンデルタールとその祖先たちが人間が生きられそうもないような氷河期の北の果ての地にも住み着いていったことによって証明されている。
クロマニヨンは、住みよい土地を求めてよそから移住してきた人々ではない。そこは、地球上でもっとも住みにくい土地だったのだ。知能があればいきなりやってきても住み着くことができるというようなやわな環境ではなかったのだ。
クロマニヨンは、100万年前からヨーロッパに住み着いてきた人々の子孫である。彼らの暮らしはそういう歴史の上に成り立っていたのであって、アフリカから持ち込んだ知能とやらの上に成り立っていたのではない。そしてその長い歴史とともに育ってきたのは、「協力(連携)する」ということであり「他者にときめく」という心の動きであり、それによって過酷な環境のその地に住み着くことが可能になっていたのだ。「未来を見通す計画力」ではない、「今ここに対するときめき」が、彼らの生を支えていたのだ。
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人間を生かしているのは「他者を生かそうとする」衝動であって、自分が生き延びようとするスケベ根性ではない。
人間は他者(世界)に気づく存在であって、自分なんかまさぐっていても、人間の根源的なかたちは見えてこない。
「自己の探究」とか「自己の確立」とか、そんな倒錯的なことばかりが叫ばれる世の中だから、集団的置換説などという倒錯的な物語もいともやすやすと信じられてしまう。
自分をまさぐり続けるスケベ根性がそんなに立派か。
人間は、根源において自己を生かそうとする衝動を持っていない。他者を生かそうとする衝動が人間を生かしている。
人間はべつに、えらい坊主とか立派な社会人とか高名な哲学者にならなければならないというわけでもないだろう。
自分なんか、ホームレスでもニートでも女のヒモでもいいのだ。
他者が存在するというその事実が人間を生かしているのであって、自己を探求したり確立したりすることなんか、僕はなんにも興味がない。たしかに人間は自己をまさぐりたがる生き物だが、それでも根源において人間を生かしているのは、他者を生かそうとする衝動なのだ。
すなわち、この世に「あなた」が存在する、という事実が人間を生かしているのだ。
他者が存在するという事実が人間をもっとも生きにくくさせていると同時に、その事実によってこそ生かされてもいる。
この世はいやな人間やくだらない人間ばかりだけど、それでも僕を生かしているのは、この世に「あなた」が存在するという事実だ。僕は、この絶望と希望の狭間で生きている。
自分のことなんかよくわからないし、どうでもいい。自分なんか、そのへんの石ころ以上でも以下でもない。この自分を、いったいどうしろというのか。
近ごろの坊主だろうと知識人だろうと、自分をまさぐることばかり言いたててくる。これが、「近代」という時代だろうか。
自分なんかほったらかしにして「あなた」にときめいてゆければ、それ以上の何が必要というのか。
僕は、自分になんか興味はない。
自分に煩わされることは少なくないが、そんな自分をどうしたいという望みもない。
僕が知りたいのは、自分ではなく「人間」なのだ。「いかに生きるべきか」とか「自分とは何か」というような問いはない。「人間とは何か」と問うばかりだ。
僕は、人間ではない。ただの石ころだ。人間は「あなた」だ。
だから、「人間とは何か」と問う。そして、「あなた」にとって僕が人間であれば、と願っている。
僕は、自分のことを人間だと認識する能力がない。
僕は、無能だ。自分を知る能力も、自分のことをどうこうする能力も持っていない。
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人間が寒い北の地に行けば、自分の身体=寒さのことを忘れたい、と思う。他者の身体に気づいているとき、はじめて自分の身体のことを忘れている。寒さを忘れるためのもっとも有効な方法は、抱きしめ合いながら、みずからの身体のことを忘れて他者の身体の体温ばかりを感じることである。
すなわち、他者の存在に気づくこと、他者を生かそうとすること、これが、氷河期の北ヨーロッパを生きるネアンデルタールやクロマニヨンの行動を決定していた根源的な心の動きだった。
寒い地にゆけば、人は、より深く他者の存在に気づいてゆく。これが、原始人が世界の果てまで拡散していったことの根源的な契機なのだ。そしてそれはもう数十万年前から起きており、その歴史の上に現在のわれわれの暮らしがある。
5〜3万年前のそのとき世界中の先住民がホモ・サピエンスの遺伝子を拾ってしまっただけのことであって、アフリカのホモ・サピエンスが世界中に旅して住み着いていったのではない。こんな空々しいおとぎ話は、ドン・キホーテの妄想よりももっと程度が低く愚かだ。
集団的置換説は、「近代」という時代の病理である。現代人がいかに迷信深いかということをよくあらわしている。
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