三陸海岸津波で被災した地域は、さっぱりと何もかもなくなった。
それに対して福島の原発事故から追われた人々は、何もなくなったわけでもないのに、もっと決定的に故郷を失った。
故郷を失うということ。まさに「兎追いし」懐かしい故郷を失った。
原発事故なんか何かお祭り騒ぎで、枝野官房長官をはじめとする関係者の記者会見はもう、天の神に向けた祝詞を詠んでいるみたいだ。
そうしてわれわれは、どんどん迷信深くなってゆく。
危険であるか安全かはもう、神の思し召しのこと。
原発被災地の人々は過去も未来も現在も見失って、その目は、この世ならぬ宙をさまよっている。
三陸海岸の人々の故郷は、消えてしまったわけではない。家はなくなっても、海も山も残っている。
しかし、原発周辺の村や町は、もはや存在しない場所、存在してはならない場所になってしまった。そのようにして彼らは、「兎追いし」故郷を失った。
一般的には、故郷を捨てて東京に出てきたといっても、故郷を懐かしく思い出すことができるし、その気になれば帰ることもできるが、原発事故から避難してきた人々の故郷は、もはやそういう対象ですらない。そこは、この世に存在してはならないほどにけがされ、この世に存在してはならないほどに懐かしく美しい。
今や彼らは、心の奥に大切にしまっておいた宝石のようなものを失った気分、なのだろうか。
彼らが居直って「国や東電はちゃんと補償をしろ」と叫ぶのを非難することはできない。心の奥の宝石を失った人々の、その喪失感と絶望を追体験することはわれわれにはできない。
死んだ人の大切な形見の品を盗まれた気分、なのだろうか。
べつに故郷でなくてもいいのだが、誰にだって心の奥に大切にしまってあるものはあるだろう。それを奪われるということの空虚な絶望と、奪われたがゆえにますますそれが懐かしく妖しく美しく揺らめいているという、その狂おしさ。
彼らの目は、この世界の裂け目の向こうを見ている。
三陸海岸にはそれでも人間の希望があり、福島の原発周辺の町や村には人間の虚ろな絶望がさまよっている。
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しかし皮肉なものである。チェルノブイリから避難していった人々が、新しい町の慣れない暮らしのストレスをたくさん抱え込んでガンになったり早死にしたりすることも少なくないというのに、さっさと汚染地域の故郷に戻って残留放射能とともに生きている横着な老人たちが、あんがいいきいきと元気だったりする。彼らはすでに、明日も生きてあることなんか当てにせず、「今ここ」だけを生きている。
キノコは、もっとも放射能が付着しやすい植物のひとつである。でも、彼らはそれを平気で食べている。だって美味しいんだもの、といって。
避難先で70歳で死んでいった人もいれば、さっさと故郷に戻って80になってもまだ生きている人もいる。
避難して疎開すればそれでいいというものではないし、故郷に帰りたいという彼らの気持ちを押しとどめることは誰にもできない。
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人の心は、故郷や民族性や時代といったものに幽閉されてある。それはもう、しょうがないことだ。そこから離れて人間の心は、いきいきと活動することができない。
日本列島が故郷だという人もいれば、今ここのこの時代を故郷として生きている人もいるだろうが、いずれにせよわれわれの知能や感性はそういう「環境=故郷」のもとで生成している。
「環境」と無縁に存在している生き物などいない。
であれば、5万年前のアフリカのホモ・サピエンスが世界中に旅して、先住民を圧倒するほどの数と知的活動性で住み着いていった……などという話がいかにうさんくさく、人間の本性に照らしていかにリアリティが希薄であるかということを、われわれはいまいちど検証し直してみてもいいのではないだろうか。
アフリカ人は、アフリカという故郷に対する愛着も懐かしさもなかったのか。そんなはずないだろう。
アフリカ人が、かんたんにヨーロッパ人やアジア人になったりするわけないじゃないか。そんな漫画みたいなこというなよ。
4万年前にヨーロッパに旅していったアフリカ人などひとりもいない。
時代をさかのぼればさかのぼるほど、人の心は故郷とともにある。そこにおいてしか心はいきいきとはたらかない。それが、原始時代なのだ。そしてそういう人としての自然を現代もなお引き継いでいるから、チェルノブイリの汚染地域に帰ってゆく人もいれば、福島の原発事故周辺の町や村の人々も、故郷に帰りたい、という。
また、ミニスカートがたちまち街や時代にあふれてくることだって、みんながその街や時代を「故郷」として生きているからだ。
文化とは、故郷の文化なのだ。
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ネアンデルタールが、草食獣の群れを窪地に追い込んでまとめて仕留めるという狩をしていたのは、何はともあれ走りまわるのが好きだったからだ。知能なんか関係ない。走りまわれば、体が温まって寒さを忘れられる。
そして、全速力で駆ける草食獣と接触することを怖れなかったからだ。
物陰に潜んだところから小さな草食獣を槍で仕留める、というような個人プレーの狩は、アフリカ人の方がきっと上手かっただろう。しかしそういう習性の者たちが、ネアンデルタールやクロマニヨンのような荒っぽいヨーロッパ式狩猟を覚えることは簡単ではない。
極寒の地の原始人は、大勢で寄り集まっていないと生きてゆけない。大勢で集まっていれば、体温の低下から逃れられる。彼らは自然と格闘して生きていた。そういう人たちだからこそ、草食獣との集団対集団の戦いが発想されてゆく。
家族的小集団で暮らしていたアフリカでは、チームプレーの狩が発達する素地がなかった。
ネアンデルタールのその狩においては、みんなで、草食獣の行く手に立ちはだからなければならない。団結力も必要だが、いちばん肝心でいちばん危険なポジションは、いちばん強い者が引き受けなければならない。いちばん強い者がそのポジションに率先して立つから、みんなもそれに続くことができる。
いちばん強い者はなぜそういうことができるのか。そこがいちばん心躍るポジションだからだ。死ぬかもしれないとか怪我をするかもしれないということなんか、彼の頭にはない。そういう先のことはひとまずどうでもいいというのが、原始人の流儀だった。人間は、危機を生きようとする。危機を生きることのエクスタシーがある。そのエクスタシーが彼らをして極寒の北の地に住み着かせたのだから、そういう衝動はもともとアフリカ人より豊かにそなえていた。
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人間は、群れをつくれば安全に暮らせるから群れをつくるのではない。群れをつくれば危機を生きることができるから群れをつくるのだ。危機を生きることのエクスタシーが、人間に群れをつくらせている。
原初の、二本の足で立ち上がるということ自体が危機を生きる姿勢だった。人間は、根源的に危機を生きようとする衝動を持っている。二本の足で立っていれば、どうしてもそういう衝動が生まれてくる。そしてそれは他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくって孤立性を守る姿勢だから、基本的に、自分と他人とどちらが安全かとか危険かというような計算はしない。ひたすらみずからのエクスタシーに憑依していってしまう。
ともあれみんなで全速力で駆けてくる草食獣の前に立ちはだかるとき、誰もが危機を生きることのエクスタシーに憑依している。
現代においても、諏訪大社御柱祭や岸和田のだんじり祭りなど、死傷者が出ても、危険だからといって参加者がいなくなることはないだろう。人間の中には、そういう激情というか狂気が潜んでいる。「責任感」とか「世のため人のため」とか、そういう今風の俗っぽいレベルの話ではない。
危機を生きることを共有するとき、もっともダイナミックな連携が生まれる。原初の人類が二本の足で立ち上がることは、危機を生きることを共有してゆく体験だった。それが、人間社会7百万年の伝統である。
氷河期のネアンデルタールは、そのころの地球上でもっとも危機的な環境を生きていた。それは、地球上でもっともダイナミックに連携するもっとも大きな群れを形成していた、ということを意味する。
危機の中に置かれれば、身体が緊張し、身体の輪郭が凝縮してよりクリアに自覚される。そうしてついには、その輪郭が一点に収縮ゆく。身体の輪郭は、身体が消えてゆく心地とともにもっともクリアに自覚される。これが、ネアンデルタールが体験していたエクスタシーだ。
二本の足で立ち上がって他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保すれば、身体の輪郭がクリアになる。そして、その危機を生きているという緊張感とともに、よりクリアになりながら身体が消えてゆく。
限度を超えて密集した群れの中にいれば、身体の輪郭はつねに膨張するまいとしている。身体の孤立性を自覚するためにこそ、群れは必要であり、群れの中にいなければならない。
密集しすぎた群れの中に置かれてあることによって、身体が消えてゆくエクスタシーが体験される。
ネアンデルタールのチームプレーを育てたのは、そういうエクスタシーだった。
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大きな津波がやってきたとき、彼らはなぜ逃げなかったのか。逃げなかった人が大勢いたから、あんな大惨事になってしまったのだ。
そのとき、危機を生きようとする本能にスイッチが入ってしまったからだろう。そうして、身体の輪郭が凝縮して消えてしまったのだろう。そうなればもう、逃げなければならない理由はない。
蛇に睨まれた蛙の身体の輪郭は、凝縮して消えてしまっている。
車にぶつかりそうになったときに、体が固まって動かなくなるときがある。これも、身体の輪郭が凝縮して消えてしまっている状態だろう。
津波に逃げなかった人も、疾走してくる草食獣の群れに立ちはだかるネアンデルタールも、身体感覚においてはたぶん同じだったのだろう。
アメリカには、道の両端から車を走らせて正面衝突をする直前にどちらが先に相手をよけるかという肝試しの遊びがある。チキンレースというやつ、これなども、草食獣の群れに立ちはだかったネアンデルタール以来の伝統かもしれない。つまり、ネアンデルタールの故郷の文化だということ。それほどに、文化は、故郷に深く根を張っている。
ネアンデルタールやクロマニヨンのチームプレーの狩は、極寒の地で50万年を生きてきた者たちだけが知っているそういうエクスタシーから生まれてきたのであって、先を見通す計画性の知能とか、そういう頭のはたらきから生まれてきたのではない。それは、先を見通して死ぬことや怪我の心配なんかしながらやっていられる狩ではなかった。
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また、人間はなぜ群れをつくるのかということも人類学の大問題で、研究者たちはみな、群れをつくればどういう効用があるかというところで語っているが、そういうことではない。「効用」を得るために人間は群れをつくるのではない。存在そのものにおいて、すでに群れの中に置かれてあるのだ。すなわち、二本の足で立っていることそれ自体が、すでに群れの中に置かれてある姿勢なのだ。
人間は、他者との関係として二本の足で立っている。それは、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくる姿勢である。そして、なぜそういうことをするかといえば、密集した群れの中に置かれて体をぶつけ合っていることの鬱陶しさを歴史の無意識として先験的に持ってしまっているからだ。
二本の足で立っていることそれ自体が、すでに密集した群れの中に置かれて存在していることの証拠なのだ。ひとりでいても、10人でいても、1万人の中にいても、それは同じなのだ。だから、効用など何もなくても、1億人10億人の国家をつくってしまう。
効用なんか関係ない。そんなこととは関係なく人間は、自然に群れをつくってしまう生き物なのだ。安全な制度をつくることも、集団ヒステリーを起して戦争をすることも、祭りで盛り上がることも、群れをつくったことの「結果」であって、そんなことが目的で群れをつくるのではない。群れをつくる前にそんな効用をイメージできるはずがない。それは、論理矛盾だ。群れをつくった結果として、そういう習俗が生まれてきたにすぎない。
二本の足で立っていることのエクスタシー(カタルシス)は、より密集した群れの中に置かれてあることによってより深く豊かに体験される。
そして、二本の足で立ち上がることが身体の孤立性を確保する行為であるように、群れをつくれば群れの孤立性(=固有性)が生まれる。だから、群れごとに言葉が違ってくる。
人間は、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合う。群れどうしも、たがいのテリトリーのあいだに「空間=すきま」をつくろうとする。現在の国と国のあいだは不自然な国境線で接しているが、プリミティブな村と村のあいだには、どちらのテリトリーでもない「空間=すきま」があり、そこから交易や祭りの場である「市(バザール)」が生まれてきた。
人と人は、たがいに関係しつつ、たがいに孤立し合っている。人間の群れもまた、それぞれが関係しつつ、それぞれ固有の文化を持っている。だから人は、故郷を懐かしむ。
ネアンデルタールやクロマニヨンのあの狩の方法は、あくまで故郷の文化として、彼らとその祖先たちが50万年のあいだ極寒のその地に住み着いてはぐくんできたものだった。
人間は、地球の隅々まで拡散していったが、同時に、どんなに住みにくくてもけんめいに住み着いてゆこうとする存在でもある。われわれが故郷を懐かしんだり、民族性を意識したり、歴史について考えようとしたりするのは、人間はもともとそういう存在だからであり、それがわれわれの心のかたちであるからだ。
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