うまく生きてゆく方法が人間を生かしているのではない。そんなことくらい、誰でも知っている。それでもその通りにできる人間とできない人間がいる。誰もがそんなふうに作為的に自分を動かして生きているわけではないし、べつにそんなニヒルで鈍感な人間がえらいというわけでもないだろう。
人間なんだもの、しちゃいけないとわかっていてもしてしまうことはある。できちゃった結婚になってしまったってしょうがないさ。誰だってどこかしらに、愚かさやときめきや激情や狂気のいくぶんかは抱えている。
うろたえ途方に暮れて生きていたっていいさ。そんな生き方だって、心さえあれば、そこから生きてあることのカタルシスを汲み上げることもできる。そのカタルシスこそが人間を生かしているのであり、人々のそういう体験の集積こそがじつは時代の様相になり、歴史となってきたのだ。
べつにうまく生きてゆくことができるような凡庸で作為的な人間が歴史をつくってきたのではない。そんな人間は、いてもいなくてもいい存在として歴史の中に埋没して生きてきただけである。
いつの時代も、人々の「こう生きるしかない」という無意識の衝動が歴史を動かしてきたのだ。いいかえれば、そのようにして人は歴史から動かされてきたということだ。
であれば、そういうやむにやまれないものを持たないでただ作為的に「こう生きればいい」という唯我独尊の流儀だけで生きている人間は、いったいどこで歴史とかかわっているのか、ということになる。いったいどこに生きてあることのカタルシスがあるのか、ということになる。そうやって誰にときめくことも誰からときめかれることもなく生きているだけではないのか。
誰しも、そうそう自分の思い通りに生きられるものではないし、思い通りになるとわかっているのなら、生きる気にもならない。人間の歴史は、そんな味気ない生き方をして流れてきたのではない。
自分がこの先どう生きてゆくのかということなんかわからない。そんなことは、自分の意思だけで解決する問題ではない。われわれは、何ものかに生かされてある。
われわれは、何によって生かされてあるのか。われわれは、歴史という環境によって生かされてある。時代、と言い換えてもいい。われわれは、どうしようもなくそういうものを背負ってしまっている。
自分の意思だけで生きてゆくことはできない。
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人間は、群れをつくり連携する生き物である。それは、われわれの意思ではない。われわれの心の動きはそのようにできているからであり、そのような歴史を背負ってしまっているからだ。
つまり、直立二足歩行の開始以来、人間は、思い通りに生きることのできない弱い猿として、つねに滅亡の危機の中で生き、それをくぐりぬけて歴史を歩んできた。われわれの意識は、その艱難辛苦の歴史を無意識の中に背負ってしまっている。
東北大震災は、その地の人々に絶滅の危機をもたらした。そして彼らが何はともあれここまで生き残ったのは、彼ら自身が連携したからであり、日本中のボランティアとの連携もあったからだろう。
そのとき彼らは、みずからの所有するものの多くを失った。財産などの物だけでなく、大切な人も失ったし、日々の暮らしで所有していた穏やかに満ち足りた「気分」もすっかり失った。
「所有」とは何だろう、と思う。
自分の計画通りに生きることができる人は、自分の人生を所有している。
計画通りに生きることができないわれわれは、自分の人生を所有することができない。それは自分のものであって、自分のものではない。
被災地の人々こそ、自分の人生が自分のものではないことを、誰よりも深く思い知っている。
われわれの人生は、いったい何ものが所有しているのだろうか。それは、われわれの運命として、「歴史=時代」が所有している。
何はともあれ、誰もが自分の人生を所有することができず、何ものかに所有されてしまっているから、そういう所有されてしまっているという「嘆き」を共有しながら人と人は連携してゆく。連携するほかない空虚を抱えているから、連携するのだ。べつに連携することがえらいと思っているからではない。
原初の人類は、自分の意思で二本の足で立ち上がったのではない。気がついたら立ち上がっていたのだ。密集しすぎた群れの状況から追い詰められるようにして立ちあがっていった。そのようにして、何ものかに人生を所有されてしまった。
そうして、その「嘆き」を共有して連携していった。
人間は根源において、自分の人生を所有することができないという空虚=嘆きを抱えているから、高度に連携する生き物になったのだ。
その空虚=嘆きを共有しているということ自体が、高度な連携なのだ。
みずからの存在に対する心もとなさ、それが人間をして連携する生き物にしている。
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ネアンデルタールは、狩の獲物の肉をみんなで分け合っていた。
そのネアンデルタールと同じような環境で暮らしている現代のエスキモー(イヌイット)にも、そういう習俗があるらしい。彼らは、ひとり占めするということを、けっしてしない。
彼らは、狩の獲物を、自分の所有物だとは思わない。
なぜそんなふうに思うことができるのか。
ようするに、そうしないと生きてゆけない厳しい環境の世界だからだ。捕まえたものを自分だけのものにしていたら、弱いものはどんどん死んでゆかねばならない。そうしてけっきょく、集団そのものが滅亡の危機に瀕してしまう。
原初の人類は、二本の足で立ち上がったとき、自分が自由に体を動かすことのできる自分のまわりの「空間」が、自分ひとりのものではなく他者と共有しているものであることに気づいた。そのとき彼らは、限度を超えて密集した群れの中にいて他者と体をぶつけ合って行動していた。で、その鬱陶しさから追い詰められるようにして、気がついたら二本の足で立ち上がっていた。それは、その鬱陶しさからの解放だった。その姿勢は、みずからの身体の占める地上のスペースが最小限になって、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」が生まれた。そしてこの「空間=すきま」は、自分だけの所有ではなく、他者と共有しているものだと気付いた。
「共有」という概念の発見、ここから人間の歴史がはじまった。人間は、この概念に根源において気づいているから、ネアンデルタールエスキモーのような習俗が生まれてくるのであり、この概念によってどんな住みにくいところにも住みつき、絶滅の危機をくぐりぬけてくることができた。
文化人類学の常識では、人間はもともと自分の所有を主張して争い合う生き物であるがそうしないと生き残れないから人間の叡智としてそういう世界観や習俗を生み出していった、ということになっているらしい。
そうじゃないんだなあ。人間はもともと「共有」という概念に気づいている生き物だから、そういう習俗が生まれてきたのだ。生き残るためにそうした、といういい方は、正確ではない。生き残るため、などということは、生き残れなくなってから発想される。そのときではもう手遅れだろう。もともとそういうことをしてしまう生き物だから、そうしたまでのこと。その厳しい環境は、最初から人間にそういう行為をさせてしまう影響力を持っていたのだ。
生き残れなくなってからあわてて生き残るためにそうしたのではない。そうやって「共有」してゆくことのカタルシスがあったからそうしたまでのこと。
生き残るため、などという「計画性」で発想されたのではない。そうすることのカタルシスを体験しながらそうしていっただけのこと。二本の足で立っている人間は、そのような「共有」することのカタルシスを汲み上げる習性を根源においてそなえている。
ネアンデルタールエスキモーは、生き残るために「分かち合う」習俗を獲得していったのではない。人間はもともともとそういうことをする生き物であり、そういうことにカタルシスを覚える生き物だからだ。
未来に対する「計画性」が人間を生かしているのではない、今ここの生きてあることのカタルシスが人間を生かしている。
われわれの人生は、みずからの「計画性」によってではなく、歴史=時代という環境によって決定されている。
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チンパンジーは、ときどき、コロブスという樹上生活の小さな猿の一匹をみんなして追いかけまわして捕まえ、その肉を食べることをたのしみにしているらしい。このとき、最後にそれを捕まえたものがその肉の所有者になる。そうして、まわりの猿が寄ってきて、「くれ」とせがまれると、しょうがなくあまりおしくない端っこの部分を分けてやったり、ときには無視したりするが、奪い合いのけんかになることはまずない。
チンパンジーには、はっきりと「所有」という意識がある。捕まえた当事者はもちろんのこと、まわりの者たちもまた、それが当事者の所有であることを認めている。
とすれば、人間が所有権をめぐってときに戦争や殺し合いなどの争いをするのは、所有という意識が薄く、所有ということを認めたがらないからだ、ともいえる。その意識と猿であったときの記憶が衝突して、ヒステリーを起こす。
人間は所有の意識が強いからそういう争いをするのではないのかもしれない。ネアンデルタールエスキモーだって、みずからの所有という意識を克服しようとしてそういう習俗をつくり上げていったのではあるまい。最初から所有という意識などなく、自然にそうなっていったまでのこと。人間とは何かと問おうとするなら、ここが大事なところだ。
エスキモーたちは、自然に対する敬意を払い、その獲物を自然からの恵みだと考える。だから、みんなで食べつくさなければならない、と。
アイヌの熊祭りの長老も、まあそのようなことを語る。
しかしそれは、あとから生まれてきた話であって、そういう意識ではじめたことではない。最初はみんなで分かち合うことなんか当たり前のことだったのに、だんだん猿であったときの記憶がよみがえって、ひとり占めしようとするものが生まれてくる。
共同体の「所有」というシステムは、猿であったときの記憶の上に成り立っている。人間が共同体を持ってしまえば、その気分は、集落から集落へと手渡されながら、地球の果てまで伝播してゆく。いったんそうなればもう、エスキモーだろうとアマゾン奥地の未開の部族だろうと、所有の意識から逃れることはできない。そういう新しい共同体の論理¬=文明を克服しようとしてそういう話が生まれてきたのだ。
したがって、原始時代のネアンデルタールの社会には、おそらく「自然の恵みをいただく」というエスキモーやアイヌのような道徳は存在しなかった。
つまり、人間は根源的に「共有」という概念を持っている、ということだ。
人類学者の解釈によれば、エスキモーやアイヌは、たがいに所有を主張し合う人と人の関係に「自然=神」という第三者を加えることによってそうした人間の本性を克服していった、ということになっているのだが、それはちょっと違う。もともと「共有」という概念の上に成り立った人間の本性を維持するために、そうした物語が紡ぎだされてきたにすぎない。
人間の本性が、高度に発達した共同体の中で生きているわれわれのもとにあると思うべきではない。所有という意識から逃れられないわれわれの物差しで彼らの心を計量するべきではない。
東北大震災の被災地の人々やボランティアたちは、「共有」し「連携」するという人間の本性に戻ったのであって、何か新しい物語を紡いで自分だけ生き延びようとする人間の邪悪な本性を克服していったとか、そういうことではない。
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原初の人類は、「共有」という概念に目覚めたことによって、群れの中のもっとも弱いものを生かそうとする習性を身につけていった。もっとも弱いものが生きることができなければ、「共有」という状態は成り立たない。そのようにして、もっとも弱い存在である赤ん坊や子供を育てるという文化が発達し、人類の子供時代はどんどん長くなっていった。直立二足歩行をはじめたころはたぶん、チンパンジーと同じように数年で大人になったはずである。
人間は、根源的に、もっとも弱いものを生かそうとする存在なのだ。そういうところから、ネアンデルタールエスキモーの「狩の獲物はみんなで分かち合う」という習俗が生まれてきた。
そしてだからこそ、誰もがみずからを自然に対する弱者として、どんなに住みにくいところでも住み着いてゆこうとする習性も生まれてきた。
弱者であることをいとわないのが、人間の本性なのだ。
だから、思いのままにならない人生を生きてしまうし、そこから豊かなカタルシスを汲み上げてゆく心の動きを持つようにもなった。
ネアンデルタールエスキモーの「狩の獲物はみんなで分かち合う」という習俗は、もっとも弱いものを生きさせるシステムとして生まれてきた。
もっとも弱い者こそもっとも深く豊かに生きてあることのカタルシスを汲み上げている。二本の足で立ち上がっている人間の生は、避けがたくそのようなかたちになってしまっている。
彼らはべつに、狩の獲物=自然に敬意を払ったのではない。危機を生きるほかない弱い猿の危機を生きようとする本性として、無邪気に戦いを挑んでいっただけだ。その戦いの醍醐味(カタルシス)があれば、獲物は自分のものだという気持ちなんか起きてくるはずもない。生き延びるために狩をしたのではない。狩をすることのどうしようもないカタルシスがあったからだ。そして、死にそうなものを生きさせる深いよろこびがあったからだ。みんなが死にそうなものとしてその厳寒の地に存在しているのであれば、みんなで分かち合うのは当然のことではないか。
人間は、自分の人生を所有して自分の思うままに動かしてゆこうとはしない。自分の人生を所有できないまま他者と共有してゆこうとする。そういう心の空虚を抱えているからこそ、他者にときめきもするし、連携しようともする。
しかしこのへんは厄介なところだ。
共同体のシステムは、自分の人生を所有しているという充足感を共有させてくれる。現代人だって、ひとまず連携している。人間としてのカタルシスを喪失しながら、所有することを共有している。
人間であることのカタルシスは、思い通りに生きることのできない弱い猿であるところで体験されている。
神戸に住んでいるある人が「神戸がいつ復興したというのか?」といっておられた。人間が弱い猿として生きるなら、神戸は永遠に復興しない。そして、永遠に復興しないところで、人々が連携し、生きてあることのカタルシスが汲み上げられているのだ。
復興なんかしなくてもいいのだ。そこに弱い猿として生きている人々がいるということそれ自体が、われわれの希望になっている。

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