<承前>
日本列島の伝統として、われわれはもともと「舞い上がる」という習性を持っていない。
それは、氷河期の北ヨーロッパのように極端に寒い土地柄ではなかったからそんなふうにして体を温める必要などなかったし、江戸時代までは異民族との大きな軋轢なども体験してこなかったから、そういう血が沸騰するような怒りも興奮も知らない。
古代から中世までは、生きることは「はかなし」とか「無常」とかといってひたすら嘆いてゆく世界観で生きてきた。
そういう日本人が、幕末に異民族との本格的な軋轢を体験し、舞い上がることを覚えていった。
そのあげくに太平洋戦争の無残な敗戦を体験したのだが、その余韻はまだ残っていて、人々はいまだに、幸せないい暮らしをして舞い上がりながら生きていかないといけないというような強迫観念を抱えてしまっている。しかしそんなことは日本列島の伝統文化ではないから、舞い上がり方もいまいち板についていないし、舞い上がろうとしておかしな社会現象も生まれてきている。
日本列島の住民の歴史的な生活感情は、生きてあることの「嘆き」であり停滞した日常に対する「けがれ」の自覚にある。そういう感情を共有してゆくのが、日本列島の歴史の水脈である。「けがれ」をすすぐ行為としての「みそぎ」、われわれは、生きることはそういう行為だとどこかしらで思っている。
江戸時代の農民は「みんなで貧乏しよう」ということを合言葉にして結束していった。彼らは、現在の日本人ほどの、幸せにならないといけないというような強迫観念は持っていなかった。貧乏することは、彼らの「みそぎ」だった。
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しかし現在の西洋人だって、日本人ほどの強迫観念は持っていない。
西洋は、階級社会である。それは、上にいくほど幸せになってゆくという仕組みになっていることを意味するのではない。それぞれの階級にそれぞれのよろこびがありしんどさがあるということで、たがいにみずからの階級を生きることのしんどさを引き受け合っているから成り立つのだろう。
たとえば、町の酒場でビールを飲んでばか騒ぎするというようなことは、上流階級のものは絶対にしない。上流階級は、庶民の領分は侵さない、というたしなみを持たねばならない。そのようにして階級社会が成り立っている。たまにはビールを飲んでばか騒ぎしたいだろうに、それはしない。
また、戦争になれば貴族の上官は先頭に立って戦わねばならない。そこのところは、日本とは違う。貴族ほどたくさん戦死する。それが、氷河期の北ヨーロッパでマンモスなどの大型草食獣に肉弾戦を挑んでいった人たちの伝統なのだ。
たぶん現在、世界でいちばん日本人が「幸せであらねばならない」という強迫観念に取りつかれている。
「ハッピネス」という言葉は、「ハップン(出来事)」からきているのだろう。それは、「出来事」であって「状態」のことではない。
「今の私はハッピーだ」といっても、「ハッピーな人」といえば、ただののうてんきなアホのことだろう。
西洋人は、自然や人生と格闘する。昔の日本人は「みんなで貧乏しよう」と言いながら、自然や人生に対する嘆きを共有していった。
のうてんきにハッピーなのは、現代の日本人ばかりである。
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考古学の発掘成果によれば、現在のスペインで百万年前の人の骨が発見されている。おそらく、氷河期に陸続きになったジブラルタル海峡を渡ってきたのだろう。そこで初めて、もともと南方種である人類が寒い土地に住み着いてゆくという実験がなされた。氷河期のヨーロッパの壁画芸術を生んだ伝統は、おそらくここからはじまっている。
生き物の心の動きや行動は、環境によって決定されている。そういう心模様が歴史の長い時間の中で蓄積され磨かれていって「文化」というものになる。
アフリカにはアフリカの歴史=文化があるし、ヨーロッパにはヨーロッパの歴史=文化がある。アフリカ人にはアフリカ人の心模様があるし、ヨーロッパ人にはヨーロッパ人の心模様がある。それはもう、何十万年もの長い歴史の時間の中で蓄積され磨かれてきたものだ。
多くの人類学者は、4万年前にアフリカ人がヨーロッパに移住していってヨーロッパ人になった、といっている。だったら、現在のヨーロッパの歴史と伝統なんてたった4万年しかないというのか。そしてそれは、それ以前のアフリカでの数十万年の歴史の上に築かれたものであると、あなたたちは本当に断言できるのか。
そんな、人間をなめたようなことがよく言えるものだな。
熱帯のアフリカでは、暑さのせいで心も体も停滞している。だからこそ、太鼓の音に合わせていきいきと激しく体を動かす文化が生まれてきた。
彼らは、自然に対する異和であろうとする。反自然・非自然の文化である。
アフリカ最古の絵画芸術は、7万5千年前の、赤色オーカーに描かれた直線の幾何学模様だったといわれている。それはきっと、それまでのアフリカの歴史が数十万年数百万年かけて熟成してきた文化の結晶なのだ。
では、4万年前のアフリカ人は、この伝統を引っ提げてネアンデルタールの住むヨーロッパに移住してゆき、ネアンデルタールに変わって洞窟壁画の文化を花開かせていったのか。
そんなはずはない。このころにヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいない。原始人は旅などしない。しかも、女子供を連れた大集団で原初の道なき道を旅してゆくということなど、あるはずがない。原始人には、そんなことしなければならない事情も、そんなことをしたいという衝動もなかった。
誰もが旅をして情報の伝達も盛んな現代でさえ国民性とか地域性というようなものはあるのだから、原始時代ならそうした歴史的な文化の違いはさらに顕著だったはずだ。
何はともあれ人間の文化的感性は、歴史的な先祖代々引き継いできた伝統の上に成り立っている。それが、アフリカとヨーロッパでは違いすぎる。
氷河期のヨーロッパで花開いた洞窟壁画の文化は、アフリカの感性で描かれたものではけっしてない。100万年前からヨーロッパに住み着いてきた人々の、その歴史的風土的な感性によって表現されたものなのだ。
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ヨーロッパ人の写実の能力はすごい。
日本人がどんなにスーパーリアルな絵を描いて見せても、その量感とか実在感の表現においては、彼らにはかなわない。彼我の差はもう、ポップな漫画の線にだってあらわれている。
彼らは、意識しなくてもすでにそうした量感や実在感に肉薄できるメンタリティを持っている。
日本人は、世界をそのようなものとしてとらえる視線を、歴史的な感性として持っていない。われわれは、「あはれ」と「はかなし」の民族なのだ。どんなに写実的な絵でも、西洋人が日本人の絵に感心するところは、そこから醸し出される空気感にある。
西洋人は、氷河期の北ヨーロッパに住み着いて以来、自然と格闘する歴史を歩んできた。その血が、自然の量感や実在感をしっかり受け止めることができる感性になっている。
また、「北斗の拳」という劇画の主人公の、あのけっこう大げさで隆々とした体の表現は、量感をうまく表現できていない線の弱点を補うように生まれてきたデフォルメだろう。あれが、アメリカンコミックの「スーパーマン」のような量感のあるタッチの線なら、いかにも不自然になってしまう。
量感・実在感をうまく表現する線を持っていないからこそ日本人はデフォルメのセンスが発達していて、それが現在の日本の「マンガ」が世界をリードするアドバンテージになっている。「かわいい」もまた、ひとつのデフォルメのセンスである。「チョロQ」というおもちゃの自動車のマンガチックなデフォルメのセンスは、日本的な感性の真骨頂だ。盆栽もまたひとつのデフォルメであり、日本庭園そのものが、自然のデフォルメだといえる。
それに対して西洋人は、その本性としてひたすら量感・実在感に迫ってゆく。それほどに自然と真剣勝負をして格闘する歴史を歩んできたのだ。氷河期の北ヨーロッパで生き抜くためには、デフォルメする遊び心を持つ余裕などなかった。
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アフリカ人は自然から逸脱し、日本人は自然をデフォルメし、西洋人は自然と格闘する。
西洋人は、狂気のような激情で自然と格闘する。ネアンデルタールの男たちは、死をも厭わない勢いでマンモスなどの大型草食獣に肉弾戦を挑んでいった。
発掘されるネアンデルタールの骨にはたくさんの骨折などの傷あとがある。人類学者たちはこれを、彼らが愚鈍でのろまな人種だったからだという。まったく失礼な話である。愚鈍でのろまなのは、あなたたちの脳みそだ。
のちにクロマニヨンと呼ばれる人種になっていった彼らが高度なチームプレーで狩をしていたのは、そういう死をも厭わない狂気と激情の歴史があったからだ。知能が発達すれば高度なチームプレーができるようになるとか、人間はそんなかんたんなものじゃない。そういう命を賭けた血みどろの歴史を支払って彼らは、高度なチームプレーを獲得していったのだ。
ストリンガー先生、あなたたちは他者に対する敬意がなさすぎる。それが、あなたたちの思考の底が浅いゆえんだ。
ネアンデルタールは、日本人のようなデフォルメする器用さは持っていなかったが、けっして愚鈍でものろまでもなかった。凍えるような寒さの中でのろのろ動いていたら、たちまち凍え死んでしまう。彼らは、はじめから激しい体の動きを持っていた。現代のヨーロッパ人がだめ押しするように身ぶり手ぶりを多用して会話をするのは、寒さの中で会話をしてきたものたちの伝統である。それは、伝達するためというより、凍えそうな体を温めるための行為だったのだ。
またネアンデルタールの女たちは、自分の産んだ子供が次々に死んでゆく状況の中で、それでも次々に産み続けていった。そうしないと、群れの個体数は維持できなかった。死と背中わせの寒い夜が続けば毎晩でも抱きしめあってセックスせずにいられない、ということもあるかもしれない。これもまた、狂気のような激情だろう。西洋女のヒステリーのすごさは、ネアンデルタール以来の伝統である。
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アフリカ人が反自然的で目の覚めるような直線や極彩色とか腹に響く太鼓の音などを好んだのは、ふだんは自然から隠れてわりと退屈な暮らしをしていたからだ。
日本人が自然をデフォルメするようになっていったのは、自然の実在感をうまく感じることができなかったからだ。日本人は、自然をデフォルメ=凝縮してゆくことによって、自然と和解してゆく。
とすれば自然と格闘して激情のような狂気を抱えている西洋人は、どのような文化を育ててみずからの生をなだめていったのだろうか。
4万年以降の氷河期にあらわれたヨーロッパの洞窟壁画は、人がけんめいにそこに住み着いていった長い歴史とともにそのような心の動きが極まって生まれてきた表現だったのであって、人類学者の説明する「知能が発達したから」というような問題ではない。
とりあえずこの狂気のような激情を鎮めなければならない。四六時中この狂気のような激情をたぎらせていたら、いずれ心も体もパンクして生きていられなくなってしまう。彼らは、現代までつねにこの問題を抱えて歴史を歩んできたのだ。
彼らがキリスト教という一神教を受け入れたのも、そうやって膨張して破裂してしまいそうな心を一点に収縮させてゆく必要があったからだろう。
その心を鎮めるためには、二つの方法がある。ひとつは、一点に収縮してゆくこと、そしてもうひとつは、細分化してゆくこと。
おそらく初期の作品であろうスペインのエル・カスティージョ洞窟の壁画には、まさにこのような傾向のプリミティブな抽象模様が描かれている。
ひとつは、点をつなげてつくられた線を並べた模様。
そしてもう一つは、たとえば正方形の中に十の字を入れれば田という字になってもとの正方形を四つに分割できるように、そんなふうにして描かれた分割模様もある。しかもそのあらかじめ決められたスペースは正方形よりも長方形のようなかたちが多いのだが、アフリカの模様のような鋭い直線ではなく、向き合う辺が反り返った曲線になっていたりする。
それはおそらく、人類学者が言うように何かの「シンボル」として描かれたのではあるまい。ただ無造作にあちこちに描いて遊んでいた、というような眺めである。
いたずら書きというか落書きというか、まあそんなようなもので、それがすべての絵画芸術の起源であるに違いない。いきなり何かの「シンボル」を意図して描き始めたなんて、そんなことがあるはずないじゃないか。
すべての絵画芸術の起源はいたずら書きにある。そこから、あまり意味のない抽象的な模様になってゆく。写実的な絵を描くことを知らない未開人でも、それぞれの好みの模様だけは持っている。
それが何かの「シンボル」として生み出されたなんて、言葉を覚える前に字を知っていた、というのと同じ理屈なのだ。
ともあれ氷河期のヨーロッパ人は、そのような模様を描くことで心をなだめていったのだ。
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走る線は、心を覚醒させる。それに対して、ひとつの「点」は、停止と収縮の作用をもたらす。彼らは、点を描くことによって、膨張して破裂しそうなふだんの心をなだめていったのだろう。壁画だけでなく、人物の着衣像の彫刻などにも、点の模様が刻まれていたりする。
ネアンデルタールが動物の骨に穴をあけてフルートをつくったことだって、点に対する関心を持っていなかったら生まれてこないだろう。
またそれは、骨から生まれてくる音を「細分化」してゆくことでもあった。
ヨーロッパの学問の基礎は、細分化(分類)することにある。そうしてそこから「点」としての真理=法則を見出してゆくことにある。膨張して破裂しそうな彼らの心は、そのようにして落ち着いてゆく。
知能といっても、心の動きによってはたらかされているのだ。
そしてこれらのことからでも、ネアンデルタールに壁画を描く能力がなかったとは、僕はぜんぜん思わない。
彼らは、洞窟の中にみんなが集まって火を焚き、語り合っていた。おそらくこのときが、彼らの一日の中でもっとも心休まる瞬間だったのだろう。そういう時間を持たないと生きていけないくらい彼らは、狂気のような激情とともに暮らしていた。
人類の火の文化は、ネアンデルタールによって本格化した。彼らは、火を見つめながら長い夜を過ごした。
ひとつのものをじっと見ること、一点に焦点を合わせてゆくこと。彼らは、そういう習性を持っていた。火は、ゆらゆら揺らめいてつねにかたちを変化させる。そこから火の本質的なかたちを見極めてゆく。そういう観察の癖がついていたから、たとえばアルタミラの洞窟壁画のような、走るバイソンなどの姿を正確にデッサンしてゆく能力を身につけていったのだろう。それは、とても原始人のデッサンとは思えない能力である。同時代の世界中のどの民族もこのレベルに追いつくことはできなかった。世界がこのレベルに追い付くには、おそらくそれから1万年以上かかっている。いや、現代人でも、普通の人間ではこれほど正確にはデッサンできない。
アフリカ人は、サバンナを横切る途中で、たがいの姿を見つけ合う。
しかしヨーロッパのネアンデルタールは、すでに一緒にいる大勢の仲間の中から、ひとりの相手に意識を集中させていった。見つけ出す必要なんかなかった。すでに目の前にいるそのひとりを見つめてゆくのだ。
ヨーロッパ人の見つめる視線は濃密だ。この視線が、自然の量感や実在感をしっかりととらえる。そうやって心を鎮めてゆくのが彼らの流儀なのだ。
それはもう、アフリカ暮らしのエリートであるアフリカ人とは全く別の感性である。そういう歴史や文化の地域性は、時代がさかのぼればさかのぼるほどより顕著になってゆく。
そしてネアンデルタールは、現在のヨーロッパ人よりももっと狂気のような激情を生き、現在のヨーロッパ文化の基礎を築いた。それはもう、同時代のアフリカとは、まったく異質の文化だった。どちらの知能が上だったかとか、そんなことはどうでもよろしい。まったく異質だった。
原始時代ほど、それぞれの気候風土の違いがあらわになっていたはずである。氷河時代のアフリカ人がヨーロッパに移住していって洞窟壁画の文化を花開かせたなんて、そんな空々しいことがあるはずないじゃないか。僕は予言をする趣味も能力もないが、いずれこうした程度の低い歴史解釈は消えてゆくのだろうとは思っている。

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