原初の人類の歴史を粛々と書いてゆくつもりだったのだけれど、大震災以後、このところちょっと変則的な書きざまになってしまっている。
僕がもし、内田樹先生のような人気作家であったなら、きっと毎日被災地の人々に発信し続けるだろうと思う。内田先生が発信すればいろんな反応が返ってきて、書くことなんかいくらでも浮かんでくるだろう。何もかも投げ捨てて発信せずにいられなくなることだろう。
なのにあの先生ときたら、自分の見識とやらを二つ三つ披歴して、はい一丁上がり、という気分であるらしい。まったく、ご立派な人格でいらっしゃる。
ある人にいわせると、先生は最初フランスのインテリの意見を代弁しているつもりで原発廃止だのエコだのとぶち上げたのだが、サルコジの発言などからむしろ逆の状況になっているらしいということがわかって、今だんまりを決め込んでいるのだとか。
そうかもしれない。
ともあれ、この際、自分を見せびらかすことなんかどうでもいいじゃないか。
最近の団塊世代のブログをあちこちのぞいても、この期におよんでもまだ彼らは、自分を語る(見せびらかす)ことばかりしている。
あげくに、一部では、脳が計画停電中、だってさ。笑わせてくれる。こんなときに自分を語ることばかりしているはしたなさに気づいて、ちょっとは戸惑っているのかね。
団塊世代なんて、そんなやつらばかりだ。
彼らは、自分を捨てて相手の気持ちに寄り添ってゆくということができない。だから、内田先生みたいにあっさり脳が停電してしまう。
やつら以外の日本中の人々は、テレビや新聞の報道に接して、毎日何度も泣けてきてしまっているのが現在だろう。
僕だって、泣かされてしまっているさ。だけど、人気者でもないのに、ねえ君たち、と呼びかけるのもむなしいしぶざまだと思うから、こんなあいまいな書きざまになっているだけのこと。
みんな、被災地の人々と対話をしたいと思っているのだろう。援助というかボランティアをするのは、対話をさせていただくために支払う対価にすぎない。われわれは今、彼らから、人間とは何かとか生きるとは何かということの多くを学んでいるし、もっと直截に深く学びたいとも思うのだろう。
内田先生、あなたも「考える」ことを商売にしている人間なら、われわれは彼らから何を学ぶことができるのだろうか、と問いなさいよ。自分を見せびらかしてばかりいる場合じゃないんだよ。
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僕は、だめな人間である。
だめな人間であることを許してもらえないのなら、僕は生きてゆくことができない。
僕は、世界中が怖い。生きてあることそれ自体が怖い。
どうやら人間は、怖がる生き物であるらしい、と思う。
すくなくとも原初の歴史においては、人類は、子犬のよう震えながら身を潜めて生きていただけである。
われわれがもしも、文化や文明というものを持たず、体の大きさもチンパンジーと同じであるなら、チンパンジーよりも強い猿であることなんかできない。
そのとき原初の人類は、ほんらいの身体能力を失いながら二本の足で立っていった。
逃げる能力も戦う能力も喪失したのだ。そういう能力を喪失しながらこの世界や他者にときめいてゆくことが、二本の足で立ち上がるということだった。
そのとき人類は、チンパンジーより知能がすぐれていたわけでも、チンパンジーよりも体が大きかったわけでも、チンパンジーよりも身体能力があったわけでもない。それで、二本の足で立ち上がることによって大幅に身体能力を喪失すれば、チンパンジーよりも強いはずがない。
さらには、チンパンジーよりも根性無しの猿になってしまった。
たとえばチンパンジーの群れどうしは、たがいのテリトリーが重なる部分(オーバーラップゾーン)を持ち、緊張感のある対立関係をつくりながら共存している。個体どうしでも、対立し順位関係を保っている。
チンパンジーには対等という関係はない。
しかし直立二足歩行する人間は、怖がる根性無しの猿であるから、たがいのテリトリーや身体のあいだに「空間=すきま」をつくって、対立のない関係をつくろうとする。チンパンジーはオーバーラップゾーンで戦争をするが、人間は、現代でもしばしばそこを「休戦地帯」という「空間=すきま」にして対立を回避しようとする。それが、人間の太古以来の習性なのだ。
またわれわれは、村と村のあいだの「空間=すきま」を「市」にして「交換」という文化を生み出してきた。そうして個人と個人のあいだにおいても、トランプやベーゴマやおはじきといったように、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福しながら対等な関係になってゆくという「遊び」を生み出してきた。
人間は怖がる生き物だから、そうした「空間=すきま」を止揚しながら、文化や文明を生み出してきたのだ。
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人類は、二本の足で立ったことによって、生物としての何かアドバンテージを獲得したのではない。したがって、アドバンテージとは何だったのかというパラダイムで語られる直立二足歩行の起源仮説は、ぜんぶアウトなのだ。
人間は、二本の足で立ち上がることによって怖がる弱い猿になっただけである。
手を使えるようになったとか長く歩けるようになったとか、そんなことはたんなる「結果」であって、そんな「目的」があったのではない。
立ち上がるほかない状況にせかされて立ち上がってしまっただけなのだ。
それがとても怖がる弱い猿になってしまうことだったのに、それでも立ち上がってしまった。なぜそれでも立ち上がったかといえば、それによってたがいに体をぶつけ合う鬱陶しさから解放されたからだ。そういう解放感こそ直立二足歩行によってもたらされたものであり、それはもう、怖がる弱い猿になることを支払ってでもありがたくめでたいことだった。
また、そのとき人類は、生き物としての本能を失ったのではない。その「空間=すきま」を保つことこそ、生き物の本能だったからであり、そういうかたちでしかそれを保つことができなかった。
地球上の生物多様性は、それぞれの種が最低限のエネルギーで生きようとする本能というか生態を持っているから成り立っていることであり、そのとき原初の人類も、生きられる最低限の能力で生きようとしたのだ。
これを「共存共貧」というらしい。原初の人類の直立二足歩行こそ、まさに「共存共貧」の現象だった。
よく、人間は本能が壊れた生き物である、などといわれるが、あんな言説は大嘘で、人間ほど本能的な生き物もいないのである。
本能が壊れたから二本の足で立ち上がったのではない。立ち上がったから壊れるということはあっても、立ち上がる前に壊れるということは論理的にありえない。
猿が、立ち上がる前に、立ち上がることを常態化しようとする衝動を持つことは、絶対にあり得ない。なぜならそれは、みずからの身体能力を喪失することだからだ。
直立二足歩行の起源は、目的論では語れない。
ともあれ人間は、生き物としての本能にしたがって立ち上がったのであり、それなりに生き物としての必然性があったのだ。
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怖がる弱い猿として700万年前に登場した人類は、最初の3,400万年は、知能も体の大きさもチンパンジーと同じだった。
つまり、チンパンジーよりも弱い猿として歴史を歩みはじめ、3,400万かけてやっとチンパンジーに追いついた。したがってそれは、厳密にいえば進化しなかったわけではない。3,400万年たってからいきなり進化をはじめた、というのではいかにも不自然で、つじつまが合わない。知能や体の大きさは進化しなかったが、その生態やメンタリティは、それなりに進化してきたのであり、だから、ひとまずチンパンジーのレベルに追いつくことができた。
そのとき人間が進化させていったのは、群れで行動する連携の能力である。それによって、個体としての非力さを補い、やがてはチンパンジーを追い越してゆくことになった。
人間は、あくまで弱い猿として生きた。人間は、弱い猿として危機を生きようとする。危機の中でこそ、より豊かな連携が生まれる。とすれば、最初の3,400万年の歴史において知能も体の大きさも進化しなかったのは、ある意味で必然的な成り行きだといえる。
700万年前に直立二足歩行をはじめた人間という猿は、知能や身体能力において、すぐに進化の階段をのぼりはじめたのではない。世の研究者のように、二本の足で立ち上がることのメリットがどうのアドバンテージがどうのといっているかぎり、この空白の3,400万年の説明はつかない。
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人間は、手をつなぐということをする。猿はしない。
二本の足で立って手が自由になったからだ、という説明ではおそらくまだ不十分だ。二本の足で立っていることの不安定さや居心地の悪さが、手をつないでゆく契機になっているのだろう。子供はもちろんだが、恋する男女も、不安の中で生きているから手をつなごうとする。危ない場所を歩くときは、大人どうしでも手を取り合う。
西洋では、握手のあいさつをはじめとして、手を取り合う文化が発達している。それは、彼らが、人類史上もっとも過酷な環境で手を取り合いながら生きてきたネアンデルタールの子孫だからだろう。その文化は、おそらく10万年前のそこからはじまっている。
西洋人は、ネアンデルタールの子孫だから、過酷な環境を生きるのが好きである。だから、手を取り合う文化が発達した。
そしてそれは、直立二足歩行する人間の根源的な衝動でもある。
怖がりの弱い猿である人間は、手を取り合い連携しながら、3,400万年かけてチンパンジーに追いついていった。
弱い生き物として生きるのが人間の根源的な習性であり、そうやって人間は、連携しながら危機それ自体を生きようとする。
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人間は、危機においてこそ、より深く豊かに連携してゆく。人間は、弱い猿になって危機を生きようとする。これが、人間の本性だ。そこにおいてこそ、生きることの醍醐味がより深く豊かに体験されている。
だから、今回の大震災を被災した多くの人々は、逃げだすことなく、その地にとどまって生きようとしている。それは、人間としての当然の成り行きである。
彼らは、またいつか大津波に見舞われることだろう。それはもう、彼ら自身も覚悟している。それでもその地にとどまろうとしているのは、人間が危機を生きようとする生き物だからだ。そこでこそより深く豊かな連連携が生まれ、より深く豊かな生きることの醍醐味が体験されるからだ。
被災地から遠く離れた部外者が、自分たちの安全で快適な暮らしに満足しているとしても、それがそのまま被災地の人々のだいいちに望むものとはかぎらない。なぜなら彼らは、もっと深く豊かな生きることの醍醐味を知ってしまったからだ。
人間は、危機を生きようとする。
原発の事故現場で働いている人は今、日本列島を背負って危機を生きている。逃げ出してもいいのに、彼らは逃げ出さない。人間は、危機を生きようとする生き物であり、そこにおいてこそより深く豊かな連携が生まれ、より深く豊かなこの生の醍醐味が体験されているからだ。
彼らは、この世に原発が存在していることをひとまず容認している。容認して頑張っているのであり、容認しなければ頑張れない。
こんなときに、「原発廃止」を叫ぶなんて、彼らに対して失礼である。彼らが逃げ出さないで頑張っているかぎり、われわれもひとまずそれを容認して事故が無事に収拾されるのをおとなしく待つしかない。
それが、現場で頑張っている人に対する礼儀だろう。
外国に逃げだして、収拾されようとされるまいとどうでもいい、という態度をとることが正義なのか。まったく、横着な態度である。
彼らが頑張っているかぎり、無事に収拾されることの期待と祈りとともに見守るしかないではないか。
われわれがそういう態度を示さないことには、彼らだって頑張り甲斐がないぞ。
福島や日本列島がどうなろうと知ったこっちゃない、という態度は、僕にはとれない。
彼らのおかげで、われわれも、ささやかながら危機を生きることの醍醐味を体験させていただいている。
ともあれ、逃げ出すよりも逃げ出さない方が人間の本性なのだ。危機を生きようとするから人間は、どんな住みにくい土地にも住みついて、世界の隅々まで拡散していったのだ。
逃げ出さないから、人類は拡散していったのであり、逃げ出す生き物なら、今頃住みやすい温暖な地域にひしめき合っているだけである。
逃げ出さない生き物だから、ロンドンやミュンヘンやモスクワなどの寒い北の地に大都市が生まれてきたのだ。それらの地は、氷河期においては人間の能力の限界を超えた極寒の地であったが、すでに地球上でもっとも人口密度が高く文化が進んだ地域だった。
人間は、そんなふうに危機を生きてしまう生き物なのだ。人間的な連携も生きてあることの醍醐味も、そこにこそある。そこにこそ、直立二足歩行する人間の普遍的根源的な根拠がある。
現在、世界中の科学者は、原発廃止か存続か、という議論などしていない。いかにしてこの危機を終息させるか、と語り合っているだけだろう。そのような世界中の科学者や技術者が集まって連携しながらみごとに終息させてくれることを、僕は期待し祈っている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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