悪いけど僕は、正義なんて、ぜんぜん興味がないですよ。
正しい生き方、というのも、幸せな人生、というのも知ったこっちゃないです。
愚かな生き方をしたらなぜいけないのかということも、よくわかりません。
それぞれの人生にそれぞれの味わいがあるはずです。
たとえば、誰の中にも、子供のころに眺めた故郷の景色の記憶がある。そうしてあなたは、僕の知らないいろんな人と出会って生きてきた。そういうさまざまな記憶を抱えてあなたが存在するという豊かさと重みの前には、どんな正義も無意味だ。
すべての女は、その衣装の下に裸の生々しい体を持っている。その事実は、それだけでもうすごいことだと思う。そのようにしてこの世に人間が存在するということそれ自体に対するときめきを感じられないやつが、正義だの人格だのとしゃらくさいことをいってくる。
だいたい才能のないやつにかぎって、正義だの人格だのといいたがる。だから僕は、たとえ才能がなくても、そんなことはいわない。
人間を信じることができないやつが、正しく賢明に生きねばならない、などと言い出す。人間は、人間のままに生きればいいだけじゃないの。
人間は、正しく賢明な生き方をしなきゃいけないのですか。そんな生き方をしたがるのは、人間に対して鈍感で、人生を丸ごと味わい尽くしてやろうとする心意気がないからだろう。
怖いとか不安だとか嘆くとか、そういうことも人生の味わいのひとつでしょう。
直立二足歩行する人間は弱い猿で、根源的に怖がるようにできている。その怖がるということが、文化や文明を生み出してきた。人間は、恐怖を食べて生きている。愚かな生き方の、その恐怖や不安や嘆きの中にも、人間の人間たるゆえんがある。愚かな生き方をして、何が悪い。賢明で合理的な生き方がそんなに素晴らしいか。
同様に、被災地の人々人が、これから愚かな街づくりをはじめたとしても、それはそれでしょうがないし、それを承知で政府はサポートしてゆけばいい。
賢明で合理的な街づくりをしたからといって、それが素晴らしいかどうかなんてわからない。例え愚かであっても、その町づくりに人々が丹精をこめてゆくことができるのなら、それがいちばんだろう。
明治維新のあとも、関東大震災のあとも、太平洋戦争のあとも、ときの政府はそれなりに賢明で合理的な政策の町づくりをし、それなりの復興をしてきた。しかしそれによって、人々が心豊かに暮らす町になっていったかということはわからない。いずれの場合も、人々の町に対する愛着は失われていっただけだろう。そうして、脱亜入欧だの大陸進出だのアメリカナイズだのという気分になっていっただけじゃないか。
いずれの場合も、それらの復興は、人々の心を置き去りにして上からの賢明で合理的なプランを押しつけていっただけである。だから、人々の町に対する愛着を盛り上げてゆくことができなかった。
杉山巡さんには悪いけど、関東大震災後の後藤新平による帝都復興院なんてくだらない、と僕は思っている。それによって生まれた新しい東京の町よりも、大阪下町の猥雑な町のほうが僕はずっと好きだ。そこにおいてこそ、人々の町に対する愛着が息づいているからだ。人と人の心のつながりに丹精がこめられているからだ。なぜならそこは、人々がみずからの連携で作り上げていった町だからだ。そこには、人間の美しさも愚かさも、ぜんぶ詰まっている。そこにおいてこそ、人生が味わいつくされている。
合理的で賢明な町づくりが、そんなに素晴らしいか。
人間なんて、どうせ明日も生きてあるかどうかわからない身だ。行き当たりばったりにその日その日を生きてゆけばいいだけじゃないのか。そういう「今ここ」を精一杯に生きようとする心によってこそ、町づくりに丹精がこめられてゆくのではないのか。
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僕は猥雑が好きだが、べつに猥雑でなくともよい。
たとえば京都の町は、応仁の乱のあとに現在のかたちの基礎がつくられた。
それは、民衆によってつくられた町であって、ときの権力や賢明な知識人が寄ってたかって上から押し付けてゆくようにつくられたのではない。民衆自身が、その町並みや町の空気をつくっていったのであり、そこが京都の町の丹精がこめられた魅力や強みになっている。
そのとき京都の民衆は、長く続いた戦乱によって、明日の命はわからないと腹をくくった。そうして今ここの季節や人の心のおもむきを味わいつくそうとするかのようにして町づくり家づくりをしていった。
ときの権力や知識人が理性的で賢明な町づくりを上から押し付けていっても、ろくなことにはならない。そんなことによって、人々の町に対する愛着が育つわけではない。
そういうことは、戦後のこの60数年で骨身にしみてわかったはずじゃないか。
たとえば、戦後の政府と電鉄会社が結託してつくったあまたの「ニュータウン」が、今そんなに素晴らしい町になっているのか。
そんな町づくりを、また東北の被災地でやりたいのか。
くだらない。
愚かでも行き当たりばったりでもいい、人々の丹精がこめられて町がつくられてゆけばいいのだ。
少なくとも、阪神淡路や中越の大震災を経て、いざというときの人と人の心のつながりや連携は充実してきているに違いない。復興はそれによって果たされるべきであって、賢明で理性的な知識人のしゃらくさい青写真のアジテーションによってではない。
さしあたって今は、津波の被災地も、福島原発の事故処理も、その日その日をけんめいに生きるしかないのだ。そのエネルギーこそが必要なのであって、高みの見物のおまえらしゃらくさいプランなどではない。
今回のことは、天罰などではない。津波の防波堤が低かったことも、福島原発の施設が不十分だったことも、人間たちがのんきだったことも、みんな人間であることの運命だったのであって、そんなことをあとから「避けられたはずだ」といってもしょうがない。
何はともあれ今は、深く嘆き悲しむしかない。深く嘆き悲しむことができることこそ人間であることの証しであり、復興のプランは、それを味わいつくしたものにゆだねられるべきだ。復興のダイナミズムは、そこからしか生まれてこない。
おまえらのしゃらくさい知ったかぶりのうんちくからじゃない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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