原初の人類は、二本の足で歩いたのではない、まず二本の足で立ち上がったのだ。それによって、人間になった。
なぜ二本の足で立ち上がったのか、と問われなければならない
二本の足で歩くことくらい、猿でもできる。しかし猿は、そのまま遠くまで歩いてゆくということはできない。なぜなら、きちんと立つ姿勢を持っていないからである。間に合わせに適当な姿勢で立っているからである。
二本の足で立ち上がることは、不安定だし、胸・腹・性器等の急所をさらしているとても危険で居心地の悪い姿勢である。だから、必要がないかぎりそんな姿勢は取らないし、いつまでも続けていることはできない。
なのに人間は、その緊急避難の姿勢を常態化した。その居心地の悪さと和解していった。居心地の悪さ=緊急避難それ自体を生きようとした。
人間は、間に合わせで立っているのではない、それこそが本来のかたちとして立っている。
だから、きちんと立っていられる。この「きちんと立つ」という姿勢を猿はつくれない。
きちんと立って居心地の悪さと和解していなければ、その姿勢のまま遠くまで歩いてゆくことはできない。
四本足のほうが楽で効率よく歩けるなら、必要がなければその姿勢に戻ってしまうにきまってしまう。人間だってはじめは四本足のほうが楽で効率よく歩ける猿だった。それなのに、二本の足で立ったまま歩き続けた。それは、四本足で歩くともっと居心地が悪くなる事態があったからだ。
それは、群れで行動していて、体をぶつけ合っていたからであり、その鬱陶しさに耐えられなかったからだ。
それほどに原初の人類の群れは密集してしまい、しかも余分な個体を追い出せない事態になっていた。
体をぶつけあわないで共存し行動してゆくためにはもう、みなが二本の足で立ち上がっているしかなかった。たがいにときめきあう関係にならなければ、共存してゆけるような状況ではなかった。
生き物としての危機=居心地の悪さと和解していなければ、二本の足で立つということを常態化することはできない。
猿が二本の足で立っていることはとてもかんたんなことであると同時に、根源的に不可能な姿勢でもある。
そして、きちんと立つ姿勢を持っていなければ遠くまで長く歩き続けることはできない。
日光猿軍団ニホンザルを長く歩かせたり立ったままでいさせるためには、まずきちんと立つ姿勢を教え込まなければならないのだとか。
人間は、この姿勢を獲得したから長く歩けるようになったのであり、長く歩こうとしたのではない。言い換えれば、長く歩き続けることくらいチンパンジーでもニホンザルでもしている。長く歩き続けるために二本の足で立ち上がったのではない。二本の足で長く歩けるようになったのは、きちんとした姿勢で二本の足で立っていられるようになったことのたんなる結果である。
背筋を伸ばしてきちんと立っていられるのは、それが他者と体をぶつけ合わないためのもっとも効率のよい姿勢であり、それによってときめけば、その姿勢に伴う不安を忘れていられるからである。
日光猿軍団ニホンザルだって、調教師に対する全面的な信頼を持つまでは、決してその姿勢を自分のものにすることはできない。
その「きちんと立つ姿勢」は、他者との緊張関係の上に成り立っているのではなく、緊張関係を忘れた「ときめき」の上に成り立っている。また、意識がみずからの身体に向いているかぎり、けっして実現しない。身体のことを忘れて「世界=他者」にときめいてゆく姿勢なのだ。
そしてこのときめきの原初のかたちは、他者と身体をぶつけ合わないでもすむことの解放感にある。そのぶつけ合わないでもすむたがいの身体のあいだの「空間=すきま」にときめいたのだ。
原初の人類は、このときめきによって、きちんと立つ姿勢を獲得し、この姿勢を常態化させていった。
長く歩き続けるとか、手を使うとかは、この姿勢を常態化させたことの「結果」にすぎない。そんな目的があって立ち上がったのではない。
猿でさえ、他者にときめくという心の動きを持っていなければ、きちんと立つ姿勢をつくれない。いいかえれば、ときめけば、猿でさえつくることができる。そういうことを、日光猿軍団の猿が教えてくれている。
そして、きちんと立って歩けば疲れないのではない。二本の足に全体重をかけるのだから、長く歩けば疲れるにきまっている。疲れても足のことなんか忘れて歩き続けられる姿勢であり、それは、世界や他者にときめき憑依しているからだ。
疲れないのではない。疲れても歩き続けられるのが、人間の直立二足歩行なのだ。
猿は、二本の足で立ち上がっても、少し前傾姿勢を保って、世界に対する警戒心を解いていない。背筋を伸ばしてきちんと立てば立つほど、世界や他者に対して無防備になってゆく。それは、生き物としてとても危険な姿勢なのだ。それでも人類は、世界や他者にときめきながらその姿勢を常態化していった。
群れのみんなとときめき合っていなければつくれない姿勢なのである。
人間は、他者とときめきあいながら、生き物としての危機それ自体を生きている。ここから、人間的な文化や文明が生まれてきたのであり、ここにこそ人間性の基礎がある。
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因果なことに人間は、危機に備えることを忘れて危機それ自体を生きてしまう生き物なのである。
それほどに、すでに世界や他者にときめいてしまっている。
だから人は、津波の被害にあっても原発事故が起きてもかんたんには逃げ出さない。まだ逃げ出さない人がたくさんいる。彼らこそ、人間らしい人間なのだ。
われわれ部外者は、まずそのことを承知しておくべきである。部外者が安直に「みんな避難してこい」といって自分たちの優越感を満足させようとするようなスケベったらしい気持ちはむやみに起こすべきではない。因果なことに、そこにこそ人間が生きてあることの根源的な充実がある。
東京だって、けっして安全とはいえない。すでに逃げ出している人もいるが、それでもほとんどの者がここに残って生きている。仕方がないからというだけでなく、人間は、危機を共有しながら「今ここ」を生きようとする存在であり、そこから生きてあることのカタルシスをくみ上げてしまう存在なのだ。
被災地において、助ける者であろうと助けられる者であろうと、彼らがどれほど深くときめきあって「今ここ」を生きているか、われわれも少しは思いをいたす必要があるのではないか。
人間は、根源的に、不安をまさぐってしまう存在である。しかしだからこそ、世界や他者に深くときめいてゆくことができる。
彼ららは、津波の恐怖や不安を共有し、深くときめきあいながら連携して生きてきた。これからもきっとそうやって生きてゆくのだろう。恐怖や不安なしに生きてゆける土地ではない。
関西などの安全な場所にいる連中が、安直にみんな避難してこいとか普段の危機管理がどうのとかといってもはじまらない。人間は危機(リスク)を負って生きている存在であり、そこにおいて生きてあることの醍醐味もあるのだ。
因果なことに二本の足で立っている人間は、危機や恐怖を共有して生きようとする存在なのだ。そこにこそ、この世界や他者に対するときめきがある。ただ安全を確保すればいいというようなわけにはいかないのである。安全第一主義の鈍感な連中がどれほど賢明にこの国の青写真を描いて見せても、それによって住みよい国や町が生まれるわけではない。
住みよい、とは、人と人がときめきあうことであって、安全であるということではない。
おまえらみたいに知能指数は高いかもしれないが人間に対して鈍感なだけのやつらにはわからない話だ。
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