感想・2018年8月23日

<時代の忘れもの>
われわれの時代がどのようにして未来に向かうかという問題は、われわれの時代の「忘れもの」は何か、という問題でもある。そのことをちゃんと確認しておかないと、出かけられない。
秋葉原通り魔事件は人々に大きな驚きを与える悲惨な出来事だったが、あまりはっきりとした総括もされないまま忘れ去られようとしている。
そしてこの事件のもうひとつの特異な点は、ネット社会で犯人を賛美する若者の声が多数寄せられたことだった。
つまり、非正規雇用等による社会格差の広がりを告発した英雄のように持ち上げられたりして、マスコミの評論家たちもまあ、そういうかたちで事件を分析していた。
しかし事件後の犯人はこのことを否定しているし、模倣犯が続出するとか若者が凶悪化するということもなく、逆に、気弱な「草食男子」が増えてきた、といわれるような状況になっていった。
社会を告発するためなら、政治運動をするとか社会の歪みの象徴になっている権力者を暗殺するとか、そういう方向に向かうのがつねであるし、ふだんの彼が政治的なことに関心が高かったとか、非正規社員である自分の不安定な身分に対する鬱屈が強かったとか人嫌いで孤独だったという形跡もなく、もともと人づきあいがよくて遊び仲間の友達もちゃんといた。
この事件で社会の状況が変わるだろうともいわれたが、べつにそんなこともなかった。
現在の社会は非正規雇用が増えて格差が拡大しているからよくないといっても、非正規のみんなはそのことを受け入れているのだし、正社員たちは非正規でないことに喜んでいて、自分のプライドと既得権益を守るために非正規はあったほうがいいとひそかに思っていたりする。
だから、ますます格差は広がっている。秋葉原事件はそのことになんのインパクトもなかったし、犯人にそんな意図もなかった。
貧乏人が増えることはよくないかといえば、そうでもない部分もあって、それによって貧乏人どうしが助け合うということがより活発になるし、貧乏人であることの肩身の狭さがやわらげられたりもする。
ますます格差が広がっているということは、貧乏人であることが受け入れやすい状況になっている、ということでもある。
とにかく秋葉原事件の犯人は、自分が非正規であることに怒っていたわけではない、ということはたしかなのだ。
彼が抱えていた心の闇はもっと別のところにあったし、若者たちが無意識的に共感していたことも、そんなことではなかったにちがいない。
彼の幼少期の親との関係は極めて異常なもので、そこで彼の心の闇がつくられていったであろうことはかんたんに推測がつくのだが、現在の若者たちのほとんどはそこまで異常な体験はしていない。それでも、彼に共感を示した。
彼には、自殺願望がずっとくすぶっていた。それはつまり、親を怨むとかということ以前に「この世に生まれ出てきたことはろくなもんじゃない」という思いが深く強く疼いていた、ということだ。そしてそういう感慨は、じつはほとんどの若者が抱いているし、人類普遍の感慨だともいえる。
では、なぜ人は生きていられるのか?
それでも人が生きていられるのは、「今ここ」の目の前の世界が輝いているからであり、人と人がときめき合うという体験もあるからだ。みずからの生がどんなに愚劣であっても、自分を忘れてしまうそのような体験があれば、人は生きられる。
そして犯人の彼は、そのような体験ができなくなったことに絶望して犯行に及んだ。
その絶望の原因は、彼の告白によれば、自分がつくった携帯で見知らぬ人と会話を交わすサイトが荒らされて続けられなくなったことにあるらしい。
彼は、幼少期の親との関係のこともあって、顔見知りの相手よりも見知らぬ相手のほうが心を開くことができたし、これはネット社会で遊ぶ若者たちに共通する気分でもあり、さらにはそれこそが人類普遍の気分でもある。
だから人は、思春期になれば家族の外での交友関係に入ってゆく。
原始人の人類拡散は、なんのしがらみもない見知らぬものどうしのときめきめき合う場が生まれることの果てしない繰り返しとして実現していった。
それが、人類の「祭り」の原点であり、人類の集団性の本質なのだ。
見知らぬものどうしがどこからともなく集まってきて他愛なくときめき合う「祭り」の場が生まれる。村であれ都市であれ、人類の集落はそのようにして生まれてきたのであり、ひとつの家族がふくらんでいってできたのではない。家族は必ず解体するものだし、見知らぬ相手と婚姻する機会もなしに膨らんでゆくことなどできるはずがない。
人類の歴史は、見知らぬものどうしがときめき合いながら進化発展してきた。
それに対して今どきの「ネトウヨ」と呼ばれるものたちは、見知らぬ相手を憎み攻撃することばかりに熱中している。それはとても非人間的なことであり、そういう連中が彼をして秋葉原事件に向かわせたのだともいえる。
人の心は、つねに見知らぬ相手というかまだ見ぬ相手との関係にときめいている。そのときめきを壊されて、犯人の彼は絶望した。
そうして彼の自殺願望は、やがて人類滅亡を夢見るようになっていった。つまり、見知らぬ人々と一緒に滅んでゆきたい、と願った。それは、そういう局地的な人類滅亡(=世界の終わり)の事件であり、そういう大掛かりな無理心中だった。
そしてこの自殺願望や人類滅亡願望は、ネット社会の若者たちの心の中にもあった。人は、「世界の終わり」から生きはじめる。赤ん坊がこの世界にあらわれ出てくることは、胎内の充足した世界の終わりを体験することであり、その「世界の終わり」を抱きすくめてゆくことによって、新しい世界の出現に驚きときめいてゆく。
「ときめく」とは、自分を失う(忘れる)体験であり、古い世界が消滅して新しい世界が出現したことに遭遇している体験なのだ。
この世界のすべてを終わりにしてしまいたいと願うことは、新しい世界の出現を待ち望むことでもある。いつの時代も、若者はそういう気分で生きている。
日本列島の伝統においては、この正も含めた森羅万象は「出現」と「消滅」を繰り返す「現象」であると認識しており、「存在」だとは思っていない。すべては「あはれ」と「はかなし」の「現象」なのだ。良くも悪くも、だからこの国には自殺が多い。外国人は「日本人は死ぬことが名誉だと思っている」などというが、そういうことじゃない。森羅万象の本質はそういうところにあると認識しているだけのことだし、「神の裁き」のないあいまいな世界観のままで歴史を歩んでくれば、良くも悪くも「滅びる」ということに対して親密な感慨になってゆく。
まあ、そのとき彼は自殺する前に捕まってしまったのだけれど、自殺するつもりもなく、あんなことをするはずがない。
捕まったあとの彼は、積極的に自分のことを語りはじめた。世の中のこの事件に対する分析の仕方に大きな違和感があったらしい。
その内容は、凶悪犯罪を実行してしまう人間はこのように考えこのように行動するのだ、というようなことであるのだが、それが自己顕示欲なのか、自分を突き放してしまっているのか、僕にはわからない。
しかし、そうやって語ることが、現在の彼にできる「自殺」であるのかもしれない。
あるいはそれが、彼を祀り上げた若者たちに対する回答なのだろうか。